ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月30日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 3  仏殿

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第26回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第12回

4)建武の中興と王政復古 (その1)

「二条河原落書」にやり玉に挙げられている世の風潮として「エセ連歌」、「田楽」、「茶番寄合」がある。誰でも点者になって品評する乱脈な連歌会の盛行をを批判したものである。「太平記」は鎌倉幕府が滅んだ理由として、北条高時の田楽狂いと闘犬狂いを挙げている。田楽師の華美ないでたちと演技は鎌倉時代末期から流行していたようだ。「太平記」第27巻は1349年6月四条河原の田楽興行において桟敷席の倒壊事故を語っている。身分を超えた、下克上する成り上がりものによる「自由狼藉」の世界が語られている。茶の寄り合いは闘茶であり、茶を飲んで産地・品種を言い当てる賭け競技であった。後醍醐天皇とその側近たちが催した「無礼講」が茶寄合(茶事と飲食酒宴)であったことは「花園院宸記」にも描かれている。中国宋代の新しい抹茶法は、栄西らの禅僧によって鎌倉時代に伝えられた。南北朝時代に流行を迎えた。この茶寄合は今日の「京懐石」の総合芸術に引き継がれた。仏画、襖絵、香炉、生花、飲食、庭園散歩を総合的に配置した世界を楽しみ、最後に茶が出て闘茶の「四種十服の勝負」となる。また茶会の後には酒宴と歌舞管弦の宴が続く。南北朝の茶寄合を今日の茶会と区別する最大の特徴は、唐物趣味の横溢した茶寄合の空間をおおう非日常的な気分であり、それが引き起こす無秩序な自由狼藉の行為である。茶寄合の会衆は身元を一時的に不明化することで身分から解放された非日常の遊びの空間を現出することである。これらは単に芸能的寄合だけではなく、後醍醐天皇の新政の企てに不可分に呼応した文化的現象である。無礼講の寄合の場を設定して、それを隠れ蓑にして天皇と側近らは倒幕の密議を重ねたらしい。天皇と臣下という序列枠組みを超えて、天皇が直接民と結びつく政治原理の擬態である。後醍醐の側近である千種忠顕が毎日のように遊興に耽るさまは「太平記}第12巻に批判される。「堂上に300人を超える大夫らが酒肉珍膳の費用は万銭を超え、宴が終ったあと数百騎で北山で小鷹狩りを行う。僭上無礼は国の凶賊なり」と記される。建武政権で雑訴決断所の寄人についた千種忠顕は三ヵ国の国司に任じられ多くの所領を得た。文観僧正も太平記では「怪僧」のイメージで非難される。これらは足利幕府の訂正が盛り込まれた場所である。千種忠顕の装束については「バサラの装い」という、華美この上ない出で立ち振る舞いであった。「バサラ」とは梵語で金剛ダイヤモンドのことである。絹織物や豹・虎の皮を惜しげもなく使った装束であり、既存の秩序や服制の規範を逸脱した装いである。まさにこの時代の「自由狼藉」を象徴する文化現象は、「無礼講」の延長線上にある「バサラ」であった。それは建武政権崩壊後の足利幕府においても、佐々木道誉らのバサラ大名により大規模に受け継がれた。こういう分化現象については南朝と同様北朝でも盛大に行われた。1336年2月足利政権が公布した「建武式目」は第一条に「倹約を行はるべきこと」とバサラを厳しく規制している。第二条「群飲遊興を制せられるべきこと」では色に耽り博奕に及ぶ茶寄合、連歌会などを厳禁している。第十三条「礼節を専らにすべきこと」では、治国のかなめである君の礼、臣の礼を守れという。「建武式目」は北条泰時・義時の時代を「武家全盛の跡」と政治の手本とした。「建武式目」の起草者のひとりである玄恵上人は足利直義の命を受けて「太平記」の校閲改定に携わった人物だとされる。太平記は君臣上下の礼を政道の基本的枠組みとしている。鎌倉幕府滅亡の原因を後醍醐天皇と北条高時の君臣の礼の崩壊から説き起こしている。

(つづき)