ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月29日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 2 山門

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第25回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第11回

3)建武の新政の諸矛盾 (その4)

鎌倉時代の武家政権時代を通じて、門閥貴族層は閉鎖的になり、門閥を固定化する礼式はむしろ鎌倉期に制度化され、建武政権下では既存門閥層は根強い抵抗勢力を形成した。後醍醐天皇の新政に対する不満は既得権益を奪われた上級貴族層のみならず、恩恵を受けられなかった広汎な武家階層は敵に回った。一部の寵臣(功臣)と閨閥(寵姫)には旧北条家の所領は分配されたが、鎌倉幕府打倒に働いた武士(御家人)には公平な配分は行われなかった。そこから足利尊氏のような武家は強い不満を抱き、後醍醐政権打倒に動いた。1333年6月源氏武家の頭目である足利尊氏(高氏)は鎮守府将軍に任じられた。高氏は高師直や師泰らを雑訴決断所の奉行に送り込んだが、自身は後醍醐政権からは一定の距離を置いた。1335年北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し(中先代の乱)武蔵・相模一帯を支配した。尊氏は後醍醐から北条時行追討を命じられたが、征夷大将軍への任官を望み、後醍醐は征夷将軍の称号を与えた。反乱を制圧した尊氏は次第に関東における新田荘も配下に置き、事実上の武家政権が再興されていった。新田義貞と足利尊氏の頭目争いは決定的段階を迎え、両方から後醍醐天皇に「追悼」の宣旨の要請がなされた。讒言によって鎌倉に禁獄中の護良親王が足利直義によって無断で殺害された。これによって後醍醐天皇と足利尊氏の対決となり、尊氏追討宣旨が下された。1335年11月新田義貞は総大将として関東へ向かったが敗北し、逆に尊氏が京都に入り合戦となり、1336年京合戦に敗れた尊氏は九州に下って九州全土を支配し、東上した。湊川の戦いで楠正成は戦死し、後醍醐天皇は比叡山に逃げ、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立した(北朝)。後醍醐天皇は12月に吉野に朝廷を開いた(南朝)。新田義貞は越前に逃げた。こうして南北朝時代が始まった。高氏は天皇側との全面対決を避け、新田義貞追討という形をとった。「太平記」第13-21巻は足利・新田両家の戦いと図式化して語るが、尊氏はライバルとして新田義貞を源氏一流の棟梁として考えていない。対立相手はあくまで後醍醐天皇である。しかし天皇を敵にすると抗争の大義名分(錦の御旗)が立たないのを畏れ、臣同士の抗争と称したまでのことである。持明院統の天皇(北朝)を立てたのも大義名分を得るためである。北朝の天皇は軍事・行政の全てを足利将軍に委任している。後醍醐天皇が争うべき相手はあくまで足利の武家政権である。北朝の天皇は統治者たる将軍の威光を補完する「共生」的存在であった。そうした「共生」としての天皇制の在り方こそが、摂関政治の時代から院政時代、さらに鎌倉の武家政権時代へ引き継がれた天皇の伝統的なありかたであろう。既存の身分制社会や世俗的な序列を解体して、天皇がすべての民に等しく君臨する一君万民の統治形態は、あらゆる改革・革命のメタファーとして、やがて幕末から近代へ引き継がれた統治形態の儀制である。

(つづく)