ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年12月01日 | 書評

筑波山の夜明け

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第13回

第5章 大乱の決着 (その2)

1221年7月9日仲恭から茂仁親王へ譲位が行われ、後堀川天皇10歳が践祚した。持明院守貞親王が院政を開始した。後高倉院政である。摂政も九条道家から近衛家実に代わった。この人選に深くかかわったのは三浦義村であった。歴史的にみて注目すべき点は、幕府が天皇と院を決定したことである。朝廷は天皇・院の人事権を幕府に握られたといえる。院となった守貞親王は一度も皇位についていない。幕府は守貞親王の皇子茂仁を践祚させ、父守貞をあえて院とし院政を行わしめた。守貞から茂仁へという持明院系の皇統を作り、後鳥羽の皇統とは別の皇統を内絶えようとする幕府の強い意志の表れである。幕府主導の後高倉の院政開始と後堀川の践祚は歴史上例のない転換点となった。後鳥羽に対する幕府の処断は隠岐島への配流であった。1221年7月6日後鳥羽は身柄を四辻から鳥羽院に遷された。付き添ったのは西園寺実氏、藤原信成、藤原能茂の三名である。7月8日似絵の名手藤原信実に御影を描かせた。(上に掲げた後鳥羽の肖像画がそれである)今も水瀬神宮に所蔵される。その後、子の仁和寺御室道助法親王を戒師にして出家された。最後に母七条殖子と面会した。7月10日北條泰時の子武蔵太郎時氏がお迎えに上がり連行した。7月13日後鳥羽は隠岐島に移送される旅路についた。「四方の逆輿」という罪人搬送の作法がとられた。供奉したのは藤原能茂、西の御方といわれる女房と僧侶の三人である。7月27日には出雲国大浜浦に着いた。護送の武士はここで京都に帰った。後鳥羽と運命を共にした順徳は7月20日佐渡国に流された。7月24日雅成親王が但馬国に、15日には冷泉院頼仁親王が備前国に配流された。順徳の兄土御門は土佐国に配流となり、こうして三上皇配流というかってない厳しい処罰は終わった。乱に係わった京都の公卿や僧侶の処罰は泰時の指示によれば坂東国へ下すということであったが、現実はその多くが坂東へ下向する途中で斬首された。7月5日一条信能は美濃国への途上で斬首された。甥の一条能継は丹波で斬首された。中御門宗行は7月10日駿河の菊河で斬首された。7月12日藤原光親は駿河加古坂で斬首された。7月18日高倉範茂は相模国早川で溺死させられた。7月29日源有雅は甲斐国で斬首された。小松法印快実は6月25日斬首された。比叡山の悪僧観厳も捕られ斬られた。後鳥羽と共に謀反し斬首された公卿・殿上人は、摂関家、西園寺家、徳大寺家など名門ではなく、一条家、坊門家、高倉家といった新興の院近臣であった。後鳥羽とともに栄え、ともに滅びた一門であった。京方の武士の運命は過酷であった。首謀者の藤原秀康・秀澄は逃亡の末河内で逮捕され処刑された。勇猛に戦った山田重忠、源翔、三浦胤義は戦闘の末に自害した。幕府御家人に対して西面の武士として京方に加わった御家人、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範、大内惟信、小野盛綱、大江親広、佐々木経高・高重らも戦死、自害、処刑されている。武士である以上負けたら生きていることはできないのである。以上で承久の乱の関係者処分は終了する。

(つづく)