ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月18日 | 書評
木枯らし風景 結城市鹿窪公園

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第15回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第1回 

1)後醍醐親政の企て(その1)

後醍醐天皇は正応元年(1288年)御宇田天皇の第2皇子として生まれた。諱を尊治という。母は五辻忠継の娘で、御宇田天皇の間に2男1女をもうけたが、やがて亀山法皇の寵愛を受けた。尊治は幼年時代を亀山法皇御在所である亀山殿(この地に後に天龍寺が創建された)で過ごした。父御宇田上皇と祖父亀山法皇との間の愛憎劇が尊治をして皇位継承となって浮上する伏線となったことは、上に書いた村松剛氏の評伝「1)大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変」に詳しい。後醍醐天皇は1318年、31歳の時即位した。当時、持明院統と大覚寺統という皇統の二つが交互に天皇を出す約束があり、後醍醐天皇の属する大覚寺統でも邦良親王(後二条の皇子)派と尊治(後醍醐)派の間に抗争があったため、異例の後醍醐帝の出現となった。13世紀後半に後嵯峨上皇が1274年に亡くなり、その後継を巡って鎌倉幕府の調停により、亀山天皇の皇子世仁親王が即位する際に、後深草の皇子(後の伏見天皇)を皇太子にした。後深草上皇の皇統を持明院統といい、亀山上皇の皇統を大覚寺統といい、この二つの皇統が交替で皇位を継ぐ慣例が生まれた。この分裂状態が南北朝の抗争・内乱に持ち込まれた。1301年持明院統の後伏見天皇は3年で退位し、大覚寺統の後二条天皇が即位し、後宇田上皇による院政が開始された。1308年後二条天皇は24歳で急逝した。持明院等の花園天皇が即位した。大覚寺統ではだれを次の天皇にするかで後継候補を邦良親王とする派と、後宇田上皇の息子尊治親王(後醍醐)をおす派に別れた。病弱な邦良親王が即位するまで尊治親王(後醍醐)を立太子させることが図られた。当時の京都朝廷の最高実力者は、鎌倉幕府の意向を朝廷に伝える「関東申次職」を世襲していた西園寺家(藤原公経が祖)であった。つまり西園寺家がキングメーカーであり、その娘らを有力な天皇や皇子に嫁がせることが朝廷権力を握る戦術の最短距離であった。例えば西園寺実兼は長女永福音鏡子を伏見天皇の后に、妹昭訓門院瑛子は亀山法皇の后にし、野心のある尊治(後醍醐)親王には妹禧子を与えた(できちゃった婚で)。1318年花園天皇は譲位し、尊治親王が践祚し邦良親王の立太子が決まった。後醍醐天皇の誕生である。こうして大覚寺系の二代続いての即位が決まり、後宇田法皇は二度目の院政を敷いた。この時代は僧侶の位階にも賄賂が横行する政治であった。後宇田法皇の真言密教への傾斜は急速に深まった。後宇田法皇は自ら高野山真言密教道場に参拝した。後醍醐天皇が密教へ傾斜するのも父法皇からの影響が強かったからだといわれる。そして後宇田法皇は大覚寺を御所として第2院政が開始された。法皇は天皇の許諾を得ずに「任官」を行い、天皇との間に軋轢が生じた。幕府は後醍醐天皇の後見役であった吉田定房の意見を善しとして、院政は2年で廃止され天皇の親政が始まった。

(つづく)