アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

遺族の思いから「実名報道」を考える

2019年12月17日 | メディア

      

 京都アニメーション放火殺人事件(7月18日)の犠牲者遺族の多く(36人中22人)が実名公表を拒否したことから、実名報道の是非があらためて議論になっています。
 琉球新報は11月29日付から12月7日付まで5回にわたって「実名報道 遺族は思う」と題する連載を掲載しました。賛否両論ですが、遺族の言葉はどれも重要な問題提起を含んでいました(以下、抜粋)。

猪野憲一さん(桶川ストーカー事件で娘を失う)
 警察は娘の実名を発表しましたが、もし「A市のB子さん」とされていたら、私から名前を出していたと思います。B子さんで何が分かるんですか。猪野詩織という名前が出ないと、娘が大切にしてきた人とのつながりまでも消えてしまう。そもそも法治国家で1人の人間が無残に殺されたにもかかわらず、匿名発表でいいという世の中はおかしいです。それでは、その人に関する事実がゆがめられる危険性もある。

寺輪悟さん(三重県の少年事件で娘を失う)
 県警に「本人の名前を出していいか」と聞かれ、「嫌だ。必要ないじゃないか」と押し問答になりました。博美の名誉を守りたい一心でした。連日、ニュースで名前と写真がたくさん出ました。つらかった。亡くなった人をさらして、遺族の心情を酌んでくれていないと思いました。博美の名前はネット上にずっと残り、いつまでも消えない。今でも嫌です。いつまでたっても嫌です。

内藤さよ子さん(アルジェリア人質事件で長男を失う)
 日揮(長男の職場)からは「お名前は公表しません」と連絡を受けました。違和感を覚えました。「息子の何を隠し立てしようとしているの?」息子は「内藤文司郎」として44年間、一生懸命生きました。「Aさん」や「豊橋市の40代男性」と報道されることには抵抗感がありました。記者の前で話すのは大きな負担でしたが、「私が話さなかったら文司郎の人生が覆い隠されて『無』になってしまう」という気持ちが勝りました。

 □松井克幸さん(岐阜県の強盗殺人事件で妹を失う)
 自宅にマスコミが大挙して押し寄せました。両親も私も取材を断ったにもかかわらず、何度もインターホンを鳴らされました。各新聞社、テレビ局に抗議の電話を入れましたが、取り合ってもらえませんでした。妹と犯人の顔写真を並べたワイドショーもありました。そうした報道がどんな影響を及ぼすか、もっと想像力を働かせるべきだと思います。マスコミにはより慎重な報道を求めたいと思います。

 ○奥勝さん(雪崩事故で高1の息子を失う)
 名前を出すかどうかの選択肢があれば、拒んだと思います。(しかし)訴える言葉に力を持たせるには、実名を出すべきだと思います。家族を失ったショックを考えると、実名公表を拒否した気持ちにも同意できます。適正な報道がされている限り、実名報道はあるべきです。ただ、遺族が直接にマスコミを信用するのは難しい。一定の配慮があるべきだし、マスコミの姿勢が問われていると感じています。

  私は以前から、実名か匿名かはあくまでも被害者・遺族の意思に基づくべきだという考えです。氏名の公表は基本的人権に属すると考えるからです。今回の連載でそれを再確認しました。遺族の思いを押し切って公表する権利は警察にもメディアにもありません。
 自身は実名報道に賛成の内藤さよ子さんの次の言葉は重いです。「子どもの死とどう向き合うかは人によって違います。『そっとしておいてほしい』という遺族の気持ちを否定することはできません」

  メディアは(たとえば新聞協会など)、「報道効果」の視点から一貫して実名の公表を要求しています。しかし、実名報道の賛否を問わずすべての遺族が強調するのは、メディアへの不信です。メディアは実名公表を求める前に、自らの取材・記事の問題点(メディアスクラム、警察による情報操作など問題は山積)を自己点検し改めるのが先決でしょう。
 寺輪悟さんの次の言葉を、記者・ライター・メディアは胸に刻む必要があります。
 「あなたたちの仕事は人を生かすも殺すもできる。活字の力はすごい。それだけは忘れないで」

 


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「川崎ヘイト罰則条例」と「表現の責任」

2019年12月16日 | 差別・人権

    

 ヘイトスピーチに初めて罰則を科すことを定めた川崎市の差別禁止条例(12日成立)は、ヘイトスピーチが犯罪であることを明確にした画期的な条例です。

 これに対し、その意義は認めつつも憲法の「表現の自由」が制限されるという危惧を示す論調があります。たとえば山田健太専修大教授(言論法)はこう述べています。

 「運用には注意が必要だ。表現の自由に例外を設けていない憲法原則の変更につながってはならない。…差別根絶は大切な理念だが、ヘイトスピーチを一切なくそうとすれば厳しく規制せざるを得ない。その結果、社会全体の表現行為が窮屈になり、自由度が過度に失われかねない」(13日付沖縄タイムス)
 山田氏はまた、行政の判断には「どうしても恣意性が含まれる」(13日付東京新聞)とし、「市の運用に対して監視の目を持ち続けることが必要だ」(同)とも述べています。

 行政判断の「恣意性」の危険性に対して「監視の目を持ち続ける」ことは必要でしょう。しかし、ヘイトスピーチの規制で「社会全体の表現行為が窮屈」になるとする見解には同意できません。山田氏の主張の根底にあるのは、「表現の自由に例外を設けていない」のが「憲法原則」だとする考えですが、果たしてそうでしょうか。

 前田朗東京造形大教授(刑事人権論)は、「表現の自由には表現の責任が伴う。このことを見失った表現の自由論やメディア論が少なくないので、注意を要する」(『メディアと市民』彩流社)として、こう述べています。

 「日本国憲法12条は『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』とする。ここには『責任』が明示されている。憲法21条の表現の自由を論じる際、つねに憲法12条の責任が想起されなければならない」(同)

 前田氏はさらに、国際人権規約が、表現の自由に「一定の制限を課すことができる」場合として、①他の者の権利又は信用の尊重②国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護、の2つを例示していることを挙げ、「表現の自由には『特別の義務と責任』が伴うという当たり前のことが、国際人権法においても明らかにされている」(前掲書)としています。

 憲法12条の「公共の福祉」、あるいは国際人権規約が例示しているという「国の安全、公の秩序」「道徳」は、きわめてあいまいな言葉で、それこそ国家権力の乱用を招く恐れがあります。それを盾に表現の自由が「制限」されることには注意が必要です。

 しかし、国際人権規約が例示している①の場合、すなわち「他の者の権利又は信用の尊重」のためには表現の自由に一定の制限を課すことができるというのは妥当だ考えではないでしょうか。憲法12条が「濫用してはならない」としているのも、この点においてだと解すべきでしょう。その意味で、憲法は表現の自由に「例外をもうけていない」とはいえないでしょう。「表現の自由には表現の責任が伴う」という前田氏の指摘は重要です。

 ヘイトスピーチはまさに「他の者の権利又は信用の尊重」を踏みにじる最たるものです。根絶へ向けて厳しく規制するのは当然です。何がヘイトスピーチにあたるか(川崎の条例では「外国出身を理由とした排除、危害の扇動、著しい侮辱」と定義されています)など、運用にあたっては慎重な検討・監視が必要ですが、原理的に、ヘイトスピーチの規制が「憲法原則」に抵触することはなく、「社会全体の表現行為が窮屈」になることもないはずです。

 「表現の自由」とともに「表現の責任」をつねに念頭に置きながら、川崎モデルを全国に広げ、ヘイトスピーチの根絶へ向かう必要があります。


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日曜日記79・「会食恐怖症」「「0カ月0日虐待死」

2019年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 「人権週間」にあたりNHKラジオ深夜便が9日から5日間、人権インタビューを放送した。
 1回目=「怒りより、悲しみの共感を」世田谷一家殺害事件被害者遺族・入江杏さん
 2回目=「見放されてきた外国人収容問題」元法務省職員・木下洋一さん
 3回目=「虐待の悲劇を許すな!~無関心は地域のネグレクト~」NPO法人代表理事・大谷順子さん

 いずれもきわめて重要な問題ばかりで、たいへん貴重なお話だった。その中で、これまでその名を聞いたことさえなかった問題で重要な気づきを与えてくれた4回目と5回目の話を書き留めておきたい(1回~5回すべてHPの「聞き逃し」から聴取可能)。

 ☆「“一緒に”食べられない僕はダメですか?」会食恐怖症元当事者・山口健太さん(26

 「会食恐怖症」とは、人前や人と一緒に食べるとき、吐き気、動悸、発汗、パニックなどが起こる症状が半年以上続き、日常生活に支障をきたすことをいう。社交不安症の一種だそうだ。
 会食に困るだけではない。日常的に人前で食事をしなければならない職業、学校教師や保育士などへの就職を断念しなければならないこともある。新入社員の合宿研修も苦難だ。

 山口さんがその症状に陥った原因は、高校時代、野球部の合宿で1日7合のめしを食べることを義務付けられたことだった。食べられなかった山口さんを監督らは叱責した。それで自分を責めた。「周りに合わせられない、“普通”と違う自分が恥ずかしかった」

 回復のきっかけは大学時代の日本料理店でのアルバイトだった。賄いが出たが、とても食べられなかった。勇気をだしてそのことを上司に話した。上司は「無理して食べなくていい。練習と思って食べられるだけ食べればいい」と言ってくれた。
 それで救われた。「食べなきゃ」から「食べなくてもいいや」へ。それで「会食恐怖症」を克服できた。

 「胃袋にも個性がある。緊張すると胃袋が収縮する人もいる。今の学校は“普通”を強制する場になっている。“普通”じゃないことは才能の1つ。それを封じるのはもったいない。自分を“普通”で縛ると他人にもそれを求めてしまう。自分で“違い”を認め受け入れる。“違い”は人と人をつなげる触媒」

  ☆「孤立する妊婦と赤ちゃんを救いたい」NPO法人代表理事・中島かおりさん

 誰にも話せないまま出産し遺棄する「0カ月0日死亡」。統計上でも年50数人。氷山の一角であることは言うまでもない。中島さんは4年前からそういう妊婦への相談・支援活動を行ってきた。4年間で相談者は4700人以上、相談件数はのべ1万8000件以上にのぼるという。

  背景にはネグレクトの重層がある。母親から赤ちゃんへのネグレクト。母親自身のセルフネグレクト。社会のネグレクト(「おなかの大きい人に気付かないわけがない」中島さん)。そして、父親(男)のDV。
 日雇いのバイトを続けながら、ネットカフェに寝泊まりし、そこで出産するケースも珍しくないという。「彼女たちの居場所がない。それは社会の不備、社会の負け」

 そんな彼女たちに魔の手が迫る。性搾取を狙って男たちが手を差し伸べる。「裏の福祉」だ。それを承知の上で誘いに乗る。「彼女たちは傷つくことに敏感になれない。自分を大事にする成育歴がなかった。『表の福祉』が『裏の福祉』に負けている」
 中島さんたちは彼女たちの居場所づくり、「プロジェクト・ホーム」に取り組んでいる。「本来帰る所、ホームを探すための居場所」だ。

 「虐待死の責任を負うのは母親一人ではない。彼女たちに声を掛けるなら、『ひとりで抱えさせてごめんね。ほんとうにしんどかったね、辛かったね』…妊娠が困りごとにならない社会にしたい。学校でも職場でも、妊娠によって何かを手放さなくてもいい社会にしたい。社会全体が妊娠した女性に温かい目で、『おめでとう』という社会にしたい」

 「会食恐怖症」も「0カ月0日虐待死」も、その原因は人権を踏みにじる人間の行為であり、また、それを救うのも人間の言葉・行動だ。しかしそれはけっして個人の問題ではない。社会の反映・社会の問題だ。だからこそ、社会の一員として、私はそれらの問題と無関係ではない。


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「今年の漢字」で元号廃止を考える

2019年12月14日 | 天皇・天皇制

    

 12日、「今年の漢字」(21万6000余の応募の1位)は「令」と発表されました。予想通りですが、これをこのままにしておくわけにはいきません。確かに「令和」は今年を象徴する言葉ですが、その意味は、元号の存在を問い直すことでなければならないはずです。

 元号が「皇帝は時間をも支配する」という古代中国の思想を天皇制に引用したものであることは周知の事実です。元号は、「天皇が時間を支配する」ことを示すためのものです。それはきわめて重大な意味をもつことです。

 生涯を天皇制廃止の思想・主張で貫いた作家の住井すゑさん(1902~1997、『橋のない川』の作者、写真中)は、「浦島太郎」に言及する中でこう語っています。

 「地球の生物は、時間から逃れられないんです。われわれを支配するのは時間なんです。時間以上の王様はいないんです。…どんな権力でも、その人間に平等に通過する時間は妨害できない。人間のつくった権力は、絶対に、宇宙の法則には及ばないんです。時間の前に、すべて人間は平等ですね」(『わたしの童話』1988年新潮文庫)

  時間という「宇宙の法則」はすべての人間に平等。その平等な時間を「人間のつくった権力」が支配しようとする。それが元号であり、天皇制です。

 元号の廃止はけっして「左翼」だけの主張ではありません。少なくとも敗戦後しばらくは。のちに自民党代議士となり、首相にまでなった石橋湛山(1884~1973年、写真右)は、議員になる前のジャーナリスト時代(1946年)、「憲政の父」といわれた尾崎行雄が「改元」によって元号制度を残すことを主張したのに対し、こう批判しました。

  「記者(石橋―引用者)はふるくからその必要を痛感していた事だが、この際さらに一歩進めて、元号廃止、西紀使用を主張したい。…この支那(ママ)伝来の制度の為に常にわが国民はどれ程の不便をなめているか。…欧米との交通のはげしい今日、国内限りの大正昭和等の年次と西暦とを不断に併用しなければならない煩わしさは馬鹿馬鹿しき限りだ。改元を主張する尾崎翁はまだ旧日本の因習に囚われたりと言わねばならぬ」(1946年1月12日号「顕正議」、「石橋湛山全集第13巻」東洋経済新報社より。旧漢字は一部仮名にしました)

  石橋湛山の主張は、天皇制の本質を突いたものではなく、あくまでも西暦との併用の「不便」さが主な理由ですが、それでも元号を「旧日本の因習」と指摘し、西暦との併用を「馬鹿馬鹿しき限り」と喝破していることは重要です。のちに自民党政権の首相になった人物でさえこう主張していたのです。

  元号に対するこうした批判的視点を持たず、それを当然のもののように受け入れる思考停止は克服されなければなりません。安倍政権によって「令和」キャンペーンがふりまかれた今年を振り返り、元号の意味、その使用が事実上強要されている政治的・社会的意味に視点を向け、元号の廃止、さらに天皇制の廃止へ向けた議論を広めたいものです。すべての人間に平等な「時間」を真に平等なものにするために。


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「南京事件」と「ごめんなさいベトナム運動」

2019年12月12日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    

 韓国に「ごめんなさいベトナム運動」という市民運動があります。「ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の真相究明と謝罪を促すため、2000年に始まった」(11月21日付ハンギョレ新聞日本語電子版)運動で、今年が20周年です。

 「韓国軍は、1964年9月から1972年まで31万2千人余りをベトナムに派兵した(韓米軍事同盟によって―引用者注)が、この期間に起きた韓国軍によるベトナム民間人虐殺は80件余り、被害者数は9千人余りに達すると推測される」(4月17日付ハンギョレ新聞)

 20周年を記念して11月23日、ソウル市内で「ベトナム民間人虐殺、いま、国家の責任を問う」と題した文化祭が16の市民団体の共催で行われました(写真中、右。ハンギョレ新聞より)。この問題で国家の責任を問う集会は初めてといいます。そこで次のような要求が行われました。

 「韓国政府のベトナム民間人虐殺被害者に対する謝罪と賠償▽韓国政府のベトナム民間人虐殺問題に対する真相究明の施行▽ベトナムのフォンニィ・フォンニャット村民間人虐殺に対する国家情報院の調査文書公開▽すべての一般教科書にベトナム民間人虐殺問題を追加記載など」(11月25日付ハンギョレ新聞)

 20年前にこの運動のきっかけをつくったジャーナリストは集会でこう述べました。
 「ベトナム戦争での民間人虐殺に対する態度を見ると、韓国は『慰安婦』問題を否定する日本を非難する立場でないかもしれない。韓国政府が日本政府のようにならないようにしてほしい」(同

 こう言われるのは韓国政府がいまだに「証拠資料がないことを盾に民間人虐殺の言及を避けている。歴代大統領も『遺憾だ』『悲劇的だ』という言葉から前に進めていない」(主催団体の運営委員、同)からです。

  ある集会参加者(35歳)はこう述べています。
 「政府の透明な認定が必要だ。韓国人ほど戦争の弊害と実情をよく知る人がいるだろうか。日本に要求するのとは違ってベトナムに対しては何の反省もしないのは、自分の都合のいい言い訳」(同)

 あす12月13日は、82年前(1937年)のこの日、日本帝国陸軍(皇軍)が中国の南京(当時の首都)に侵攻し、虐殺・強姦の限りを尽くして陥落させた、日本人が忘れてはならない「南京蛮行事件」の日です(写真左。事件の実態については2015年12月13日のブログ、事件と天皇の関係については2017年12月16日のブログ参照 https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20151213 https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20171216

 日本政府はこの蛮行の事実を認めていません。もちろん謝罪も賠償もしていません。それどころか、安倍晋三氏ら歴史修正主義者たちはこの事実を隠蔽することに躍起になっています。さらに重大なのは、多くの「日本国民」がこの日の意味を知らず、また知ろうともしていないことです。

 私たちは、上記のソウルの集会での諸発言は「日本人」に向けられたものととらえる必要があるのではないでしょうか。それは「徴用工(強制動員)」問題にも通じることではないでしょうか。
 韓国の「ごめんなさいベトナム運動」から「日本人」が学ばなければならないことはきわめて多いと言わねばなりません。

 

 


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「桜」の陰で進行する政治の翼賛化

2019年12月10日 | 日本の政治と政党

    

 「桜を見る会」をめぐる疑惑追及のため会期延長を要求した野党を振り切って、安倍・自民党は9日、疑惑にフタをしたまま国会を閉じました。政界は「与野党激突」の様相のように見えます。はたしてそうでしょうか。

  たしかに「桜を見る会」問題では野党は安倍政権と対峙しています。疑惑は徹底的に追及される必要があります。しかし、あえて言いますが、「桜を見る会」問題は政治の中心課題ではありません。たとえそれが安倍政権の命取りになるとしてもです。

  戦後、自民党政権は数々の事件・疑獄にまみれてきました。造船疑獄、ロッキード疑獄、リクルート事件…それらの重大性は「モリ・カケ」「桜」の比ではありません。文字通り政権の命取りになった事件・疑獄もありました。
 しかし、政権が代わって日本の政治が良くなったかといえば、答えはノーです。首相は代わっても、自民党政治は変わりません。首をすげ替えるだけです。たとえ安倍政権が倒れても、それだけで日本の政治は変わりません。

 野党が「桜」の追及に一点集中し、メディアがその報道に終始している間に、政府提出の法案はスイスイ通過・成立しました。そして、ほんとうに国会で議論されなければならな重要問題はなんら本質的議論のないまま、国会は終了しました。
 今国会で議論すべきだった重要課題は、少なくとも3つありました。

  第1に、沖縄の自衛隊増強、「本土」のイージス・アショア配備に代表される自衛隊(日本軍)の増強。さらに中東派遣。安保法制下における米軍と自衛隊の一体化の強化。すなわち日米安保のいっそうの危険性(8日行われた自衛隊と米軍の共同訓練の名称が「ヤマザクラ」とはなんとも皮肉です)。

  第2に、「徴用工(強制動員)」問題の真の解決。被害者への謝罪と賠償。根本問題である日本の植民地支配責任の明確化。朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)敵視の克服と正確な情勢分析。在日朝鮮人・学校に対する差別一掃。朝鮮半島(「北朝鮮」ではなく)の非核化・平和実現へ向けた日本の責任。

  そして第3に、「天皇代替わり」儀式の違憲性。「象徴天皇制」と憲法の基本原理との矛盾。廃止を含めた天皇制の今後の方向性。

  しかし、以上の3つの問題については、まったくといっていいほど議論されませんでした(報道から)。なぜでしょうか。この3つの重要問題について与野党間に基本的な理念・政策の違いがないからです。日本共産党の座標軸も大きく「右」に動いています。政治の根本課題において政党は大政翼賛化し、その度合いはますます強まっていると言わねばなりません。
  野党が「桜」に一点集中しているのも、他の課題では政府・自民党を追及し対案を提示することができないことの反映でもあります。

 ここに日本の政治・社会の根本的病巣があります。上記3つの課題について、政府・自民党と真に対決する理念・政策を提示しなければなりません。野党にその力・意思がない中、市民(学者・識者、ジャーナリスト、市民運動、市井の個人)の役割がますます重要です。

 政治を変えるのは理念・政策の論議と転換です。低劣な不祥事の追及や野党の合従連衡で政治は変わりません。


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河井前法相夫婦の逃亡と安倍・菅両氏の責任

2019年12月09日 | 安倍政権

    

 安倍首相は「桜を見る会」をめぐる数々の疑惑にフタをして、今日9日、国会を閉じて逃げ切ろうとしています。とんでもない話です。
 疑惑・追及から逃げるといえば、もう1人、いや2人います。河井克行衆院議員(前法相、広島3区)と妻の河井案里参院議員(広島選挙区)です。

  河井克行議員は妻の案里議員の公選法違反疑惑が報じられたことで、10月31日法相を辞任しました。その際、克行、案里両議員とも「説明責任を果たす」と明言しました(写真左)。

 ところがそれから40日たった今も、何の説明も行っていません。それどころか、2人とも行方をくらましてしまいました。もちろん国会にも1日も出席していません。明白な職場放棄です。
 一般サラリーマンなら懲戒解雇は必至ですが、彼らは「解雇」されないばかりか、給料は支給され続け、あす10日には2人にも期末手当が支給されます(2人合わせて約520万円)。

 2人が説明責任を果たさねばならない疑惑は次の通りです。
 ▶案里議員事務所はことし7月の参院選で、運動員13人に公選法の上限の2倍の3万円を支払った(運動員買収疑惑)▶案里議員自身、今春の広島県議選の期間中に自民党県議に「当選祝い」として現金を渡した(選挙区内有権者寄付疑惑)▶克行議員は法相だった10月、県内の高速道路で秘書に制限速度を大幅に超える時速140㌔で運転するよう指示した(スピード違反指示疑惑)。

 これが事実だとすれば公選法、道交法違反は明白で、逮捕・起訴、議員辞職は免れません。説明責任の「約束」を反故にして雲隠れしていることはこれらの「疑惑」が事実であることを自ら認めているようなものです。

 重要なのは、こうした河井議員夫婦の醜態は、安倍晋三首相、菅義偉官房長官と無関係ではないことです。それはたんに河井夫婦が自民党議員で安倍氏が自民党総裁だからではありません。

 第1に、河井克行氏を法相に任命したのは安倍氏であり、河合氏の「スピード違反指示疑惑」は法相当時のことです。安倍氏には明確な任命責任があります。

 第2に、河井案里氏の初当選は、現職議員だった溝手顕正氏(自民岸田派)を押しのけて議席をもぎ取ったもので(溝手氏は落選)、その裏には菅氏の後押しと安倍氏の支援があったからです(写真中・右)。

 河井夫婦が説明責任から逃れ、姿を消していることに対し、安倍、菅両氏は重大な責任を負わねばなりません。

 「森友・加計学園疑惑」に続く「桜を見る会疑惑」、そして「河井議員夫婦疑惑」。重大な疑惑が浮上するたびにそれにフタをして逃げる。責任回避は安倍首相の重大な特徴です。
 それは、安倍氏が「戦時性奴隷」「徴用工(強制動員)」の歴史的責任から逃避し続けていることと通底しています。

 にもかかわらず安倍政権が今日まで続き、「世論調査」で高い「支持率」を示すのは、安倍氏の責任回避を許しているメディアと世論(市民)があるからではないでしょうか。
 そして、こうした日本社会の無責任体質は、最大の戦犯だった天皇裕仁がその責任追及から逃げ回り、逆に新憲法下でも頻繁に政治に介入し、それを日本社会が許すばかりか「崇拝」さえしてきたことに根源があるのではないでしょうか。

 


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日曜日記78・米軍の空爆を憎んだ中村哲医師

2019年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム

       

 7日夜のNHK・ETV特集は予定を変更して、4日アフガニスタンで殺害された中村哲医師の活動を再放送した(「武器ではなく命の水を」。初回放送は2016年9月10日)。たしか当時見たと思うが、あらためて見て、その活動・思想の偉大さを再認識した。

  中村さんの大きな仕事の1つは、タンベリ砂漠を緑の農地に変えた全長27㌔におよぶ用水路(マルワリード(真珠)用水路)建設だった(2003年~2010年)。

「だれも戦争などやりたくない。家族と一緒に暮らすことを望んでいる」

それには農業ができる土地が必要。用水路建設はそのためだった。

「ISが勢力を伸ばしている地域は、干ばつで作物がとれず、食べれなくなった地域と重なっている」

  作業に携わった男性たちの中には、元タリバン、元政府軍の兵士たちもいた。その中の1人が言った。「また農業をやりたい。自分たちの手でこの国をよくしたい」

 医師である中村さんが用水路工事を設計し、建設現場の先頭に立った。

 作業中、米軍ヘリの空爆にあったこともある。

 用水路だけではなかった。米軍の空爆で破壊されたイスラム教の礼拝所・モスクや学校の修復・再建も行った。

 「モスクが再建されたときは用水路ができたときよりも(アフガンの人々は)喜んでいた。イスラムが悪者のようにいわれてモスクが破壊された。その再建は彼らにイスラムの誇りを取り戻した」

 中村さんは、「私がやっていることは平和運動ではない」と言った。
 「これは医療の延長です。農業ができる、働くことができることでどれだけの人の命が救われることか。働いていれば戦をしているヒマはない。それが平和、結果としての平和です」

 アフガンの長老も用水路で緑の大地に変わった農地を背に語った。「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことは考えない」

  番組は最後に、中村さんの「手記」を読み上げた。

  作業地の上空を盛んに 米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。

  彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。

  彼らはいかめしい重装備 我々は埃だらけのシャツ一枚だ。

  彼らに分からぬ幸せと喜びが 地上にはある。

  乾いた大地で水を得て 狂喜する者の気持ちを 我々は知っている。

  水辺で遊ぶ子供たちの笑顔に はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは 我々の特権だ。

  そして、これらが 平和の基礎である。 

  中村さんは命を守る医師として、国土が破壊され生業が奪われることが戦争の温床になることを痛感し、砂漠に水を引いた。
 だからこそ米軍の空爆を憎んだ。「平和運動」的批判はなかった(少なかった)かもしれないが、活動の根底には、アフガンに介入し国土を破壊したアメリカへの怒りがあった。そのアメリカを全面的に支持してきたのが日本政府だ。

 中村さんの死を惜しみ、偉業を讃え偲ぶなら、こうした中村さんの怒り・思想にまで思いを致さねばならない。それこそが我々が中村さんから学び、引き継ぐべきものではないだろうか。


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もうひとつの「首里城」と宮古・八重山

2019年12月07日 | 沖縄・石垣・宮古・離...

    

 先に「首里城再建」を機会に沖縄(琉球)の歴史を学び直す必要があるのではないかと書きましたが(3日のブログ参照)、学ぶべき問題の1つに、沖縄本島と宮古・八重山諸島(石垣島、与那国島など)の関係があります。そこにはもう1つの「首里城」があるからです。

 首里城は沖縄本島、とくに現在の那覇市周辺の人々にとっては精神的支柱として特別な存在であるといわれていますが、宮古・八重山の多くの人々にとっては、それとは違う負の象徴の意味があるといいます。本島(首里王府)と宮古・八重山には歴史的に支配・被支配の関係があったからです。

  「沖縄と宮古・八重山は物理的距離(那覇―宮古間は約300㌔東京・名古屋間の直線距離に相当、那覇―石垣島は約400㌔東京・大阪間に相当―同書の別の個所から)だけでなく、心の距離もある。
 …1500年、宮古・首里王府連合軍は、兵3000余人で八重山を襲い、石垣島に上陸。…しかし、八重山を討った首里王府も約百年後の1609年に薩摩藩に侵略され、服属下に置かれる。王府は薩摩藩への貢租をひねりだすために、1637年、宮古・八重山に人頭税という差別的な制度をかぶせた。税制史上最悪といわれるこの鬼畜のような税制が廃止されるのはようやく1903(明治36)年になってからである。
 …266年間にわたる人頭税は八重山諸島の発達に深い影を落とし、過疎問題を生じさせ、産業開発を決定的に遅らせてしまった」(仲村清司著『本音の沖縄問題』講談社現代新書)

 人頭税(写真中は人頭税を象徴する「ぶばかり石」=宮古島)の廃止が帝国議会で議決されたのは1895年、日清戦争の翌年です。実際に廃止された1903年は日露戦争の前年。人頭税の廃止は、帝国日本の侵略戦争の戦費調達を目的にした「税制改革」の一環でした。

 こうした支配・被支配の歴史的関係による「心の距離」ははたして過去のことでしょうか。

 今回の「首里城炎上」後、琉球新報、沖縄タイムスは多くの識者の論考を掲載しましたが、私が読んだ20人の論考や両紙の社説はほとんどが日本との関係で論じられており、首里王府と宮古・八重山の関係について触れていたのは、比嘉康春氏(県立芸大学長)くらいでした。比嘉氏は、「宮古や八重山にとっては非常な過酷な歴史が首里城との関係であったと思う」(11月14日付琉球新報)と述べています。

  それだけではありません。宮古・八重山は現在、日米安保条約の下、安倍政権によって自衛隊基地増強・ミサイル基地化・米軍との一体化が強化されようとしており、島民の粘り強い反対・阻止運動が続けられています(写真右は宮古島の自衛隊基地)。しかし、これに対する琉球新報、沖縄タイムスの報道はけっして十分とは思えません。報道だけでなく、それは、宮古・八重山の自衛隊問題に対する沖縄本島市民、平和・市民運動の関心・取り組みの反映でもあるのではないでしょうか。
 焼失後の両紙の「首里城再建キャンペーン」の陰で、宮古・八重山の自衛隊問題報道がよりいっそう圧迫されているように思えるのは、現代における「心の距離」の表れではないでしょうか。

 今後の「首里城再建」論議の中で、本島と宮古・八重山の歴史的関係、本島・離島間格差、自衛隊配備問題が、沖縄と日本(「本土」)の関係とともに議論され、取り組まれることを期待します。

  余談ですが、仲村清司氏は前掲書で、「ウチナーンチュとは元来、沖縄本島の人たちのことを指す。宮古には『ナークンチュ(宮古島の人)』、八重山には『エーマンチュ(八重山の人)』という伝統的な表現法がある」「僕は沖縄本島以外の人には『ウチナーンチュ』という呼び方はしないようにしている」と述べています。知りませんでした。心したいと思います。


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「天皇代替わり儀式」10の大罪

2019年12月05日 | 天皇・天皇制

     

 天皇の代替わりに伴う一連の行事・儀式が、4日の「宮中三殿報告」で終了しました(来年4月19日には秋篠宮の「立皇嗣の礼」=国事行為)。8カ月わたって繰り広げられた行事・儀式が日本の民主主義、日本人の人権感覚などに与えた否定的影響はけっして小さくありません。

 主な「代替わり行事・儀式」は次の通りでした

 ▶4月1日 新「元号」発表
▶4月30日 明仁天皇「退位礼正殿の儀」=国事行為(写真左)
▶5月1日 徳仁天皇即位「剣璽等承継の儀」=国事行為(写真中)
           「即位後朝見の儀」=国事行為
▶10月22日 
「即位礼正殿の儀」=国事行為(写真右)
       「饗宴の儀」(祝宴、4日間)=国事行為
       
「政令恩赦」公布・施行
▶11月10日 「祝賀御列の儀」(パレード)=国事行為
11月14、15日 「大嘗祭」(「大嘗宮の儀」)
▶11月16、18日 「大饗の儀」(祝宴、3日間)

 このほか、「退位」「即位」の儀式の前後には、宮中三殿、伊勢神宮、神武、孝明、明治、大正、昭和各天皇陵への参拝・報告が行われました。

この経過・内容には大きな問題が少なくとも10あります。

 ①    憲法の政教分離原則違反…一連の儀式には常に「三種の神器」(その中の「剣」「勾玉」)が伴われ、天皇を先導しました。これに象徴されるように、一連の儀式は紛れもない神道(皇室神道)の宗教儀式です。それを国の行事(国事行為=上記6件や公的行事)とし、国費を支出し、公務員が公務で出席することは、政教分離(憲法20条、89条など)に反する明白な憲法違反です。憲法の政教分離原則が、戦前の天皇制・国家神道が犯した重大な過ちを繰り返されないために明文化されたことを改めて想起する必要があります。

②    憲法の主権在民原則違反…「退位礼正殿の儀」「即位礼正殿の儀」ではそれぞれ天皇が「お言葉」なるものを述べ、それを受けた安倍首相が一段低い所から「祝辞(寿詞)」を述べました。「即位礼」では「天皇陛下万歳」を三唱しました。国事行為でもない(あまりにも露骨な宗教密儀のため国事行為にしたくてもできない)「大嘗宮の儀」にも安倍首相はじめ「三権の長」らが参列し、午後6時から午前3時まで密儀を見守りました。こうした行為・行動が、憲法の根本原則である主権在民(前文、1条、41条、66条など)に反することは明らかです。

③    税金の無駄遣い…一夜限りの儀式で取り壊される「大嘗宮」は9億5700万円(清水建設が落札)。それを含め「大嘗祭」費用が総額27億円。「代替わり行事・儀式」の総費用は163億円。前回(明仁天皇即位)よりも約30%増です。これが公費=税金から支出されました。

④    全国の自治体取り込み…「正殿の儀」や「大嘗祭」には全国の自治体の首長(代理)が、公務として税金を使って参列しました。「大嘗祭」には全国各地からコメや特産物が取り寄せられました。これは神道儀式に全国の自治体、農家を取り込むものです。全国の特産物は「大嘗宮の儀」のあと、「饗宴」で振る舞われたり、福祉施設に”下賜“されました。

⑤    世界に「天皇元首」の誤ったメッセージ発信…「正殿の儀」「大嘗宮の儀」「饗宴の儀」「大饗の儀」には各国の要人・大使らが招かれ、儀式の模様は世界中に配信されました。それでなくても、法律・条約の公布、大使・公使の接受(いずれも憲法7条の「天皇の国事行為」)など、外国ではで日本の「元首」は天皇だと誤解されています。「代替わりの」一連の行事・儀式はその誤解に拍車をかけ、誤ったメッセージを世界に発信することになりました。

⑥    男尊女卑・女性差別の公然化…「代替わり」儀式では「三種の神器」(皇位の象徴)が登場する場面(「剣璽等承継の儀」など)には皇后は同席しません(できません)でした。伊勢神宮や各天皇陵参拝では、天皇のあとに間をおいて皇后が従いました。これは皇位継承が男系男子に限られているからです。男尊女卑・女性差別は天皇制の属性です。それを公然と社会に表示した罪は軽くありません。

⑦    三権分立侵す「政令恩赦」…「即位礼正殿の儀」に合わせて行われた「政令恩赦」は、更生に資する「個別恩赦」とは違い、天皇の権威を示すために一律に刑の軽減を行うもので、「三権分立」の民主主義原則を蹂躙するものです。「恩赦」(復権)を受けた受刑者には再犯率の高い性犯罪者も含まれています。

⑧    日本人・社会の差別意識・思考停止を助長…天皇制は差別(身分・女性・外国人など)制度そのものです。その儀式が特別扱いされ、天皇の一挙手一投足が重要ニュースであるかのように報じられ、「日の丸」の小旗を振って「歓迎」される(演出された)光景が連日大きく報じられる。それを何の疑問も持たず受信・容認することは、日本人・日本社会の差別意識・感情を助長し、権威にひれ伏す思考停止を深化させるものにほかなりません。

⑨    政界の大政翼賛状況を助長…儀式に「欠席」した政党はあったものの、一連の儀式を正面から批判し、中止を要求した政党は皆無でした。日本共産党を含め天皇制に対する態度は日本の政界の「大政翼賛」状況を示すものです。一連の儀式はそれを助長しました。

⑩    「菊タブー」・メディアの腐敗を深化…すべての行事・儀式を通して日本のメディアはごく一部を除き、天皇・天皇制賛美一色でした。それは「権力を監視する番犬」どころか「権力の飼い犬」の姿でした。天皇(制)への批判を封殺する「菊タブー」は強まり、メディアの腐敗はさらに深まりました。

 以上の「10の大罪」から結論されることは、国の制度としての天皇制を廃止すること、憲法から天皇条項(1条~8条、88条)を削除することが、日本にとって、日本人にとって喫緊の課題だということです。


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