谷村新司氏の紫綬褒章受章から勲章制度の問題を先日書きました(20日のブログ参照)。勲章・褒章を辞退(拒否)した代表例として、作家の大江健三郎と城山三郎(写真中)がいることも何度か書いてきました(3月16日のブログ参照)
その城山三郎の次女の井上紀子さん(64)が、朝日新聞のインタビューに答え、「父はなぜ褒章を辞退したのか」を語っています(24日付朝日新聞デジタル)。以下、抜粋です。
<「僕は、戦争で国家に裏切られたという思いがある。だから国家がくれるものを、ありがとうございます、と素直に受け取る気にはなれないんだよ」。そう言っていました。
いわゆる皇国少年だった父は終戦の3カ月前、17歳の時に志願して海軍特別幹部練習生として入隊したのですが、理不尽なしごきにあい、軍隊と戦争の実態を目の当たりにしたのです。
父の作品の根底に流れているのは、国家や組織に翻弄される個人、権力や体制にあらがう人々の生き方です。>
城山三郎は大江健三郎の文化勲章辞退に感激し、自らも紫綬褒章を辞退しました。当時こう述べていました。
「言論、表現の仕事に携わるものは、いつも権力に対して距離を置くべきだ。権力からアメをもらっていては、権力にモノを言えるわけがない」(1994年10月15日付朝日新聞夕刊)
この精神・思想の背景には「戦争と国家」に対する自身の体験に基づく厳しい批判があったことが、井上さんの話で分かります。
やはり同じ思いで褒章を辞退した作家に辻井喬(1927 ~2013 本名・堤清二、元セゾングループ代表)(写真右)がいます。
栗原俊雄氏(毎日新聞記者)はかつて辻井にインタビューし、その真意を聞いています。栗原氏はこう書いています。
<辻井が褒章を断ったのは、当時、それが昭和天皇の国事行為として行われることが大きな理由だった。それは辻井の国家観、戦争責任観と直接に結びついている。「戦争でいったいどれほど多くの人が亡くなったか。昭和は、敗戦とともに終わるべきだった。昭和天皇は退位すべきだった?そうです」
「天皇は代替わりしましたが、それでも受け取りませんか?」と聞くと、辻井は「うーん」とうなり、数秒考えて答えた。「自分の国でも、時には批判しなければならないこともあります。でも勲章をもらったらできない。批判する自由は持っていたいですから」。城山三郎にも通底する、文学者の矜持である。>(栗原俊雄著『勲章 知られざる素顔』岩波新書2011年)
「戦争と国家」―その犠牲になるのは常に市井の市民です。
戦争体験を風化させない、再び戦争をさせない、そのために「国家」に対する「批判の自由」を堅持する、だから「国家」に取り込まれない―ガザやウクライナの事態を目の当たりにするにつけ、メディアの責任を痛感するにつけ、城山や辻井の言葉が重く響きます。