アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「二つの戦争」のいまだからこそ「死刑廃止」へ

2023年12月09日 | 国家と戦争
   

 京都アニメーション放火殺人事件(2019年7月18日)の論告求刑公判が7日京都地裁で行われ、検察は死刑を求刑しました。

 メディアは論告求刑が行われる前から、死刑へ向けて世論を誘導してきました。

 例えば裁判が行われている地元の京都新聞は、1日付で「極刑以外、考えられない」という遺族の意見陳述を、そして7日付では青葉被告の「命で償う」と言葉を、それぞれ見出しで強調しました(写真中)。他のメディアも大同小異です。

 しかし、世界の趨勢は死刑制度廃止です。日本はそれに逆行しているばかりか、通告の数時間後には執行されること、絞首刑という明治時代からの野蛮な手法がとられていること、情報公開がほとんどないことなど、死刑存続国の中でも非人間性・反民主性が際立っています(2022年10月11日のブログ参照)。

 こうした多くの問題を不問にしたまま、メディアが世論を誘導し、死刑が求刑され、判決が下されようとしていることはきわめて重大です。

 それはいま、とりわけ大きな危険性をもっています。なぜか。

 死刑制度にはいくつも重大な問題がありますが、その中の1つを、作家の平野啓一郎氏はこう指摘しています。

「死刑制度というのは、人を殺すような酷いことをした人間は殺してもよい、仕方がないという例外規定を設けていることになります。事情があれば人を殺すことができるという相対的な態度です。

 はたして、私たちは、そのように相対的に、ある事情のもとでは人を殺すことのできる社会にしてしまってよいのでしょうか。このような例外規定を設けているかぎり、何らかの事情があれば人を殺しても仕方がないという思想は社会からなくならないでしょう」(『死刑について』岩波書店2022年)

 重要なポイントです。さらにつけ加えれば、「事情があれば人を殺すことができる」という権限(権力)を与えられているのは「国家」だということです。死刑制度とは、「国家」による殺人が「合法的に」容認される制度であり、思想なのです。

 このことの重大さをいまとりわけ考える必要があります。なぜなら、言うまでもなくイスラエルによる連日の無差別攻撃(ジェノサイド)によって子どもたちはじめ多数の市民が虐殺されているからです。そしてウクライナでも市民の犠牲が絶えません。

 この「二つの戦争」があらためて私たちに突き付けているのは、人の命より大切なものはないということです。にもかかわらず、「国家」は大義名分をつくって大々的に人を殺す。それが「戦争」です。

 一方で「戦争」によるおびただしい犠牲に心を痛めながら、一方で「国家」による殺人である死刑を当然視し期待すらする。それは大変な矛盾です。

 「戦争」を憎み、人の命が守られることを願うなら、「国家」による「合法的」な殺人を容認すべきではありません。あらためて死刑制度の廃止が求められています。

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