8月2日のNHK「目撃ニッポン」で、沖縄の「幻の女流作家」といわれる久志芙沙子(くしふさこ・本名久志ツル、1903~1986、写真左)の存在を初めて知りました。沖縄と日本(ヤマト)の埋もれた歴史の一端です。
番組は、芙沙子の孫の加古淑(ひで)さん(写真中の左)が沖縄を訪れ、祖母の足跡をたどるというものでした。芙沙子の生涯は、直木賞作家・大島真寿美(写真中の右)の『ツタよ、ツタ』(小学館文庫、2019年)で(フィクションとはしながら)克明に描かれています。
芙沙子は祖父が琉球王朝で総理大臣級の重臣を務めたほどの名門中の名門の出身。それが日本による琉球併合(いわゆる「琉球処分」1879年)で没落。母と二人の困窮生活ののち、19歳で作家を目指して上京。結婚して台湾、名古屋に移ったあと離婚し、7歳年下の学生と駆け落ち同然に再び上京。そこで後に「幻の作家」と言われるようになる「筆禍事件」が起こります。
1932年、「婦人公論」の懸賞に応募し、同年6月号に、「滅びゆく琉球女の手記―地球の隅っこに押しやられた民族の歎(なげ)きをきいて頂きたい」と題した芙沙子の作品が掲載されました(連載の1回目。写真右)。タイトルは編集部が勝手につけたもので、芙沙子がつけたタイトルは「片隅の悲哀」でした。
「主人公の女性の視点を通して描かれていたのは、疲弊した琉球の現実や、琉球の出自を隠して(東京で―引用者)立身出世した叔父、そして故郷に残された老母たちの困窮である。うち棄てられた女たちに「琉球の現実」が象徴されている」(勝方=稲福恵子早稲田大名誉教授、前掲『ツタよ、ツタ』の解説)という作品でした。
これに対し、在京の「沖縄県学生会」が猛烈に抗議。編集部に押しかけ、謝罪と掲載中止を要求しました。学生らは「(琉球の現実は)就職や結婚の妨げとなる「恥」であるから蓋をすべきであると考え(た)」(勝方=稲福恵子氏、同)のです。
「婦人公論」編集部は抗議に屈し、翌7月号に「謝罪文」を掲載するとともに、連載を打ち切りました。そればかりか、芙沙子に「釋明文」を書かせて掲載しました。その内容は次のようなものでした(抜粋)。
「學生代表のお話ではあの文に使用した民族と云ふ語に、ひどく神経を尖らしてゐられる様子で、アイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑するとの事でしたが今の時代に、アイヌ人種だの、朝鮮人だの、大和民族だのと、態々(わざわざ)階段を築いて、その何番目かの上位に陣取つて、優越を感じようとする御意見には、如何(どう)しても、私は同感する事が出来ません」(前掲、勝方=稲福恵子氏の解説より)
「釋明文」といいながら芙沙子はけっして「釈明」などしていません。逆に抗議した学生たちの誤りを鋭く批判しています。これが、1932年(満州事変の翌年)に沖縄出身の女性によって書かれた文章なのですから、目を見張ります。
芙沙子は抗議に屈しませんでした。しかし、これを機に再びペンを執ることはありませんでした。「幻の作家」といわれるのはそのためです。
それから41年後の1973年(「本土復帰」の翌年)、かねて芙沙子の「釋明文」に注目していた沖縄の月刊誌(「青い海」)の女性記者が芙沙子の居場所を突き止め、インタビューを申し込みました(同誌73年12月号に「四十年目の手記」が掲載)。困惑した芙沙子の思いを、『ツタよ、ツタ』はこう描いています。
「無名の女の、それも連載第一回のみしか発表されなかった小説を発端とする、あんな莫迦げた騒ぎが、なぜ、今になって注目されるのだろう?釈明文に至っては文学作品ですらない。…ようするに、四十年、この世界はなにも変わらなかったということか」
それからさらに47年。いま、沖縄と日本(ヤマト)の関係は、琉球、アイヌ、朝鮮など少数・異民族に対する日本社会の実態は、どれほど変わっているのでしょうか。