前頁 桜会 ( 革新幕僚 ) の 続き
軍内革新の奔騰と憲兵警察
いわゆる三月事件の発案者は、宇垣大将だったのか、大川周明だったのか、
あるいは、省部の高級幕僚、二宮参謀次長、建川の第二部長、
小磯軍務局長らの発議によるものか、今になってもはっきりされていないが、
とも角も、陸軍首脳部たちによって計画された、クーデターの陰謀であることには間違いはない。
宇垣陸相を擁して政党を圧伏し、自ら政権の座について政治改革を断行しようと、
一部の幕僚たち、桜会を牛耳っていた橋本中佐や重藤大佐らが、
民間側や森恪 ( 森の背後には北一輝がいた ) の参劃を得て、
昭和六年二月初の頃から計画を進めていたが、
宇垣大将の、いわゆる変心によって中止せられるに至ったものである。
その計画は、
議会に労働法案が上提を予想される三月二十日を期し、
人を殺傷しない爆薬 ( 擬砲弾 ) を以て、政民両党本部、首相官邸を爆撃し、
また、大川の計画で労働者の一万人動員を行い、議会に一大デモをしかける。
軍隊は非常呼集を行って、議会保護の名目でこれを包囲する。
この間、建川少将らが議場に入って、
各大臣に総辞職を強要し 幣原首相代理以下の辞表を提出せしめて、
現内閣をたおす。
大命降下は宇垣大将に降下するよう予め準備しておく。
ざっと、こんなものであったが、この計画によって着々準備が進められていた。
例えば
これに用いる爆弾は、建川少将が自ら歩兵学校長にあてた紹介状を書き、
根本中佐はこれをもって田中弥大尉と共に、
演習出張中の歩兵学校長代理筒井正雄少将と習志野原で会い、
学校副官高浜大尉を伴って、程ケ火薬工場に行き、そこで、学校発行の伝票でもって、
擬砲弾三百個を受領し、橋本、田中、高浜の三人でこれを参謀本部まで運んだ。
参謀本部では、梅津総務部長以下部員の手で、内外の交通を遮断し、
隠密厳戒裡に建川部長室に搬入した。
さらに、これを爆破責任者の大川の輩下 清水行之助に手交し、清水は自宅にかくした。
・
これでもわかるように、三月事件陰謀は省部首脳の総がかりのたくらみであった。
この故に、事件中止ときまると、軍上層部はこれをひたかくししていた。
だから、また、宇垣大将も、後任の南大将もこれが責任者を追及することもなく、
もちろん、このような軍の革新の気構えにも自粛の処置をとることはなかった。
しかし、事はかくされたといっても、すでに民間人の干与もあったこととて、
巷間、これに関する流言が飛んだ。
その具体的な内容は窺知できないが、軍自ら宇垣政権をつくるために、
クーデターをやろうとしたといった噂は、政財界、言論界に専らだった。
もちろん、在京の隊付将校にも、それが洩れていた。
もともと、三月事件は、さきの桜会とは別個に計画されていた。
ただ計画者において、議会騒擾そうじょうの場合、若干の桜会々員を、その誘導に使用するもくろみはあったが、
一般的にいえば無関係であり、桜会は、この事件後も依然として偕行社における会合はつづけられていた。
そこで、橋本中佐らは、この事件が不成功におわると、
「 将官級はダメだ。イザというときには尻込みしてものにならない。
これからは、若いものを獲得して、これを中心に事をあげるのだ。」
と 豪語し、いよいよクーデターの決意を固くしていた。
一方、桜会の穏健中立派は、一部幹部の矯激な言動、ことに待合での大尽遊びを指摘して、
桜会の行き方を非難し、なかでも中立派は、その去就に迷うなど、桜会も混沌としてきた。
だが、橋本中佐はますます強気で、七月に入ると、桜会の急速な拡大を企図して、
全国的に働きかけることにした。
全軍の二十八期以下の将校に対し、『 満蒙問題を解決せよ 』 との檄文を郵送したのも、この頃であったし、
また、在京二十八期以下の尉官の、たて、よこ 二面にわたる会合も催すなど、同志の獲得に奔走した。
在京の隊付将校、ことに、西田に指導統制される青年将校は、
三月事件によって、中央部首脳自らの越軌行動を見た。
そして、上司もまた国家革新を志すものと確認した。
もはや弾圧はないと、その動きは一層活潑になった。
彼らは、全国的規模において同志を動員し、公然と維新運動を展開する機運を示し、
八月から九月にかけては、これが特にはげしく、在京青年将校は、いまにも捨石となって蹶起すべく立ちさわいでいた。
見ようによっては爆発寸前の危機ともとれた。
宇垣陸相は浜口内閣の退陣により軍事参議官に転じ、南大将が第二次若槻内閣の陸相となった。
昭和六年四月中旬のことである。
南陸相の桜会や青年将校運動に対する態度は、これを必要悪とみて、あえて弾圧に出ることはなかった。
当時の憲兵司令官は、峯中将のあとをうけた外山豊造中将だった。
外山中将は、朝鮮憲兵隊司令官より昭和六年八月、その任についたが、
このような部内の険悪な情勢に鑑み隷下憲兵隊長に対し、この種策動を厳重に取締るよう訓示した。
昭和六、八、一七
憲兵司令官訓示要旨
満蒙問題ソノ他時局ニ関シ研究討議ヲ目的トスル青年将校ノ集合等ハ---部外ニ於テ政治的ニ利用セラレ
軍部ヲ却ツテ不利ナル情勢ニ導カントスル虞おそれナシトセズ。
且ツ又、軍制上階級的統制関係厳存スルニカカワラズ、紊リニ横断的団結ヲ講ジ、
事ヲ計ルガ如キハ、洵ニ由々敷大事ニシテ、
建軍ノ基礎ヲ危クスル端ヲ開キ、殃わざわいヲ千載ニ駘スルニ至ルベシ。
陸軍大臣ハ厳トシテ部内ニ於ケル此種策動ヲ一切禁止゛ラルルノ意向ナルヲ以テ、
各憲兵隊長ハ、管下師団当局ト緊密ナル連絡ノモト、コレガ取締ノ万全ヲ期スベシ
だが、いうように、
大臣はこの種策動の一切を禁止せらるる意向というのでは、その取締も手緩いことであった。
ことに策動の中心東京にあっては、ほとんど取締の手が加えられていなかった。
このように、彼らの動きを野放図にさせていたところに、
軍は、のちの十月事件の痛苦を味わさせられる結果となった。
なお、三月事件に関しては、軍は政府からその善処方の申入れをうけている。
この年昭和六年八月頃 若槻首相は南陸相に対し
「 三月事件は軍部のもの一部によるクーデターであったが、
幸いこれは未然に防ぐことができた。
しかし、これに某陸軍大将も参加したやに伝えられているから、
議会までに陸軍として、これが善処をしておいてほしい。」
との申入れがあった。
議会までにというのは、対議会策としてということである。
そこで、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木教育総監部本部長らは、
これが対策を練っていたが、結局、ウヤムヤで結論を得ないまま、満洲事変に突入した。
しかし、そのとき大勢を支配したのは荒木本部長の意見だった。
彼はこういっている。
「 事すでに、ここに至っては、軍は重大な国家の機関であり、
この際、徒に部内において騒ぐことは避くべきである。
もし一部であく迄も三月事件を法に照して処断するが如き軽挙に出るにおいては、
実に皇軍の威信にかかわるものである。
しかし、地方と中央とを問わず、今や世相は荒れにあれてきていることであり、
部内は、この機会に自発的に充分の改革が必要である。
一方また政党に対しても、これも根本より改革する覚悟で、こちらの方も徹底的に調べる代わりに、
同様相手の政党の腐敗についても、徹底して調査を行なうべきである。」
軍の威信、張作霖爆殺もこの名で不問とされ、あとの十月事件もまた同様だった。
臭いものに蓋をする理論づけが、軍の威信であったことは、遺憾ながら軍の常套手段であった。
・
十月事件と国士
昭和六年九月十八日 満洲事変は勃発した。
軍の中央部は関東軍に抑制を加えたが成功せず、一方政府の強圧に困惑しつつ、
関東軍の独断行動を許容せざるを得なかった。
そして事変は進展した。
国民はあげて軍の武勲をたたえて、満蒙問題の解決をここに求め、この事変遂行に全面的支援を送った。
軍中央部が関東軍の独走に引きまわされていた十月中旬に、いわゆる十月事件陰謀が発覚した。
参謀本部の中堅幕僚、橋本欣五郎、根本博、馬奈木敬信、長勇といった急進分子を中心に事は進められ、
大体、十月二十日頃に蹶起して、現政府を打倒し荒木中将を首班とする軍事内閣をつくり、
国家改造にのり出そうとしたものだった。
が、事は洩れ 軍首脳部の説得により押止された。
・
三月事件失敗以来、桜会を中心に同志獲得につとめていた橋本中佐らの一味は、
中央を欺くために、八月頃には、桜会を時局対策協議機関から、
一個の修養団体化に切りかえたように見せかけていた。
ところが、彼らは、満洲事変勃発を契機に、国内改造のため、
いよいよ、クーデターの決行をきめ、ひそかに準備を進めた。
もちろん、橋本らは関東軍と通じていた。
国内改造か、満洲の暴発か、その何れが先着するかに議が争われていた。
橋本らは国内蹶起後に、満洲に事がおこされるのを望んだが、
現地の事情これを許さずとて満洲での独断専行となった。
満洲に事が始まった以上、これに応じて国内改革を断行し、
関東軍の行動を容易ならしめなくてはならなかった。
九月十九日以来、橋本らの一味は、決起の具体策を、ひそかに協議していたが、
かねて同志の一人として参加を求められていた田中清少佐は、
彼らがただ破壊にのみ重点をおき建設計画の皆無なるを不可とし、
これを中止せしめようと、十月十三日になって、池田純久少佐を通じ今村均大佐に善処を求めた。
今村大佐は早速建川第一部長に会って、橋本の中止方説得をたのんだ。
こうして彼らの陰謀は漏れ始めた。
十五日には坂田中佐、樋口中佐など桜会の同志が、橋本を説いて止めさせようとしたが、
橋本はきかなかった。
ところが十五日夜橋本中佐は杉山陸軍次官を訪問し、
近く蹶起すべきにつき同意せよと迫り、
翌十六日には橋本は教育総監部に荒木本部長を訪ね、
共に蹶起の決断を迫ったが却って翻意を説得される始末、
こうして事件は明るみに出た。
陸軍省参謀本部の課長たちは、近衛、第一師団将校の多数の参加が予定されていることを知り、
両師団に対し、とりあえず、参加抑制の処置を講じた。
ところで、そのクーデター計画といったものは、どんな内容だったか、
「 田中少佐メモ 」 によると、
加盟将校
在京者だけで百二十名、参加兵力は、近衛歩兵聯隊から十個中隊機関銃一中隊、
第一師団は、歩一、歩三より約一中隊、参加兵力中、大川に私淑せる中隊は一中隊全部をもって、
また、西田に血盟せる将校は殆んど所属中隊全員を以てする。
外部より参加者は、大川及びその門下、西田税、北一輝の一派
海軍将校の抜刀隊、横須賀より約十名、
霞ヶ浦の海軍爆撃機十三機、下志津より飛行機三、四機
実施
首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下を斬撃する。
長少佐を指揮官とする。
警視庁の急襲占拠、小原大尉を指揮官とす。
陸軍省、参謀本部を包囲し、一切外部との連絡遮断、
ならびに上司に強要して蹶起に同意せしめ、肯ぜざるものは捕縛す。
軍行動に対する命令を下す。
同時に宮中には東郷元帥参内、新興勢力に大命降下を奏上する。
といったプログラムだった。
南次郎 荒木貞夫
事を知った軍首脳部は、十六日陸相官邸に、省部の課長以下が集まり対策を協議した。
南陸相は荒木本部長をして彼らの説得に任ぜしめた。
荒木は彼らの根城、金滝亭にのりこんで説得し、
とも角も、一応は、中止すると長少佐にいわしめて引き上げたが、
その夜、首脳部会議の結果、即時、彼等を憲兵隊に拘留することになり、
大臣は外山憲兵司令官を招致し、この旨命令した。
ところで、橋本らの急進分子は、すでに、十五、十六日頃には、
その成功の見込みをもっていなかった。
というのは、西田一統の青年将校は、幕僚たちが自己の権勢慾のために動いていることを察し、
その不純性に愛想をつかして続々と彼らから離れ、
また、桜会の中堅層をなす佐官級は、事の重大に驚き離脱し、さらに憲兵将校も袂をわかった。
結局、彼らは桜会を背景に事をおこそうとし、桜会や青年将校を引きずろうとしたが引きずけなかったのである。
だから、決行日の切迫と共に脱落する同志を前にして、橋本さえもこの決行に逡巡したといわれる。
ただ、長勇だけは孤軍奮闘、あくまでも初志を貫徹しようとした。
こんな内部状況であったから、橋本の杉山、荒木への蹶起強要のごときも、
どの程度のものであったか、むしろ、これを中止するための口実をつくるためか、
あるいは、やけくその体あたりだったともとれないではない。
それだけではない。
部内にも反対者がいた。
同志として協力を求めた田中少佐は勿論、其他の中堅幕僚にも批判的な者が多かった。
とも角も、憲兵は大臣命令によって、彼らを急拠拘留することになった。
十月十七日午前四時前後、
金竜亭に屯していた橋本、長、馬奈木、田中弥、小原重孝ら事件中心人物は、
憲兵によって東京憲兵隊に連行され、とりあえず、難波東京憲兵隊長官舎に軟禁された。
また、知知鷹二少佐は四谷の自宅から渋谷憲兵分隊長官舎に、
根本中佐、天野勇中尉は四谷の待合から、藤塚止戈夫中佐、田中信男少佐、野田又男中尉外二名も、
それぞれ市内憲兵分隊長官舎に軟禁されてしまった。
こうして彼らは、憲兵監視の下におかれたが、翌十八日には、横浜、千葉、宇都宮、沼津所在の旅館に分宿し、
それぞれ管轄憲兵隊隊員の監視のうちに約二週間軟禁、この間、上司の説得が加えられたことになっているが、
彼らは、そこでは依然として国士気取りで、その素行目に余るものがあった。
「 田中メモ 」 には、こう書いている。
---彼ら収容将校に就きその非難少なからず。
彼等は東京より芸妓を招きて遊興を専らにするごとき、あるいは、放縦不謹慎なる態度ある等これなり
ところが、約二週間たってから、
彼らは行政処分をうけて逐次解放されたわけであるが、
橋本中佐は重謹慎二十五日、長少佐と田中大尉は各十日、
その他は軽易な謹慎処分ですまされてしまった。
陸軍はなぜ、このような寛大にすぎる処置に出たのであろうか。
当時の軍首脳部は、南陸相、杉山次官、小磯軍務局長、参謀本部は、次長二宮治重、建川第一部長、
その頃陸軍は小磯、建川時代といわれ、この二人の羽ぶりが強く、小磯、建川で省部は動いていた。
すでに三月事件で脛に傷もつ彼らには、この事件に厳重な処断はできなかったのである。
憲兵は、事件首謀者を拘留したが、すでに参加を予定されていた右翼の動き、
橋本の指令によって続々上京を予想せらるる事態
( 近衛師団配属将校小浜氏善中佐は、上京組のためステーションホテルに宿泊準備を整えていた )
に対し警戒を要するものがあった。
これがため東京憲兵隊は、
憲兵練習所 ( 憲兵学校の前身 ) 職員学生、横浜、宇都宮両憲兵隊より応援を得て、警備を強化した。
・
外山憲兵司令官は、さきに青年将校運動を厳重に取締ることを令達しておきながら、
なぜ、このような処置に出て彼らを厚遇して名分をあやまったのであろうか。
それは中央より彼らを罪人扱いにすることなく、
武士道精神によって、国士としての礼を失わざることを希望した故である。
荒木伝 ( 『 嵐と戦う哲将荒木 』 ) にはこうかいてある。
・・・将軍 ( 荒木 ) は憲兵司令官に対して、
目下のところまだ別に彼らがこれといって明らかな行動をおこしているわけではないのだから、
これを出来るだけ穏便に納めるようにして、飽くまでも軍の威信にかかわることのないように配慮されたい。
しからざれば、三月事件とからんで事態は、いよいよ複雑となろう。
なお、この際、彼らを隔離する目的は、
彼らが外部の陰謀に乗ぜられて利用されることのないようにするのが主眼であるから、
くれぐれも単に外部との交通遮断の措置でよかろうとの意見をつけ加えた。
とある。
・
中央部の事件態度はあまかった。
あまかったというよりも、事件の重大性を認識していなかったというのが正しい。
南陸相はこの事件について閣議で、こう報告したと伝えられていた。
「 今回現役将校中の一部において、ある種の策謀を企てたが、
これも憂国慨世の熱情から出たもので、他意はなかった。
ただ、これを放置すると、外部の者の策動に利用せられ、また、軍紀を破る行為ともなり易いので、
保護の目的で収容した 」
これでは、彼らは国士だった。
しばらく軟禁優遇されることも当然であった。
大谷敬二郎 著 『 昭和憲兵史 』
二 革新のあらしの中の憲兵 軍内革新の奔騰と憲兵警察/十月事件と国士 ・・から