桜会の誕生と革新幕僚
昭和五年秋、陸軍中央部に在職する一部の少壮幕僚が中心となって、
東京偕行社に、時局対策を懇談的に話合うため集まった。
これが、のちに桜会といわれた国家改造計画とその実行をもくろむ、
組織された団体として誕生したのであるが、
始めは僅かに二十数名のメンバーだったものが、
漸次増加して、昭和六年の春頃には百五十名近くも参会するようになった。
橋本欣五郎
この発起者の中心人物は参謀本部第二部のロシア班長 橋本欣五郎中佐であった。
もちろん、それは東京を中心とした国家革新を志す将校を中軸とした啓蒙運動であり、
同志獲得のための予備的会合でもあったが、
桜会の目的は、国家改造であってこれがためには、武力行使もあえて辞せないとしていたので、
直接行動による国家革新を期する現役将校の集団であったのである。
ところで、こんな政治意図をもった集団がなぜ、組織されたのであろうか。
中心人物、橋本中佐は、のちに、
「 あれは国家改造を心にきめたオレのつくったものだ。
昭和五年の秋から六年の十一月頃まで、オレが引きずりまわしたのだ 」
といっていたが、
しかし、一人の力で、一人の目的のために、有為な幕僚将校たちが躍るものではない。
創立の趣意書を見ると、いろいろ書いてあるが、この桜会ができたのには、二つの動機があった。
その一つは、さきの統帥権干犯問題であり、
あとの一つは、満蒙問題 すなわち大陸政策の遂行であった。
統帥権問題については、これまでしばしば触れてきたように、陸海軍人には大きな衝撃を与えた。
ことに陸軍の幕僚としては国防政策の実行者である。
政府、ことに政党にも基盤をもつ政府が、軍の編成大権を壟断して憚らないようでは、国防は危ない。
それだけではない。
事は、議会政治、議院内閣制を主張する政党政治の軍権抑圧であって、
このまま推移するならば、軍は政党に屈服を余儀なくされる。
しかも、その政党は腐敗堕落して利権あさりに奔命して、あえて、国家国民をかえりみない。
しかも、外には国威を失墜して満蒙の天地は暗澹としている。
満蒙の地は、日露戦争にあがない得た権益だけではない。
実に、わが国防の第一線であって、絶対にこれを失うことはできない。
だが、この政党政府は、
徒に文化外交、平和外交を名として強調追随、退嬰たいえい屈辱をあえてしている。
現に幣原外交は、すでに五ヵ年に及んでいるが、
事、大陸問題に関しては、あくまでも事なかれ主義に終始している。
それは、能う限りの忍耐寛容の態度としてふん飾されてはいるが、
支那をしてますます暴慢をつくさしめて、わが国防の第一線は危殆に瀕している。
かねてからの一部幕僚の間では、大陸問題の解決につき対策が練られていたが、
大陸問題の根本的解決は、国防政策上の緊急な課題だった。
その当面の緊急課題たる大陸政策は、解決どころか、日本はその大陸より しめ出されようとしている。
国防の任にある軍は、自ら立ってこれに当たらなくては国家は危い。
これがため、先ずこの国家を改造しなくてはならない。
すなわち、この国家改造こそ、国防上絶対に必要だとしたことが、
幕僚たちをしてその志向を駆って、これが実行となったものである。
・
桜会は始め幕僚有志の会合であったが、のち、会員の拡大強化策がとられ、
広く一般軍隊、官衙、学校にも門戸を広げたため、
中央幕僚将校だけでなく、一般将校、ことに隊付青年将校も続々と参会するようになった。
しかし、この会の存在や、会合は決して秘密のものではなかった。
所属長の許可を得たというものではないが、一つの研究機関と銘うっている以上、
また、その会合が公開されている限り、秘密性をもたない。
だからこれに参会する将校の上司も、あえて、これに口を出すことはなかった。
・
この名簿を見ると、
そこには憲兵司令部からも、東京憲兵隊からも、憲兵将校が会員として名を連ねている。
これらの人々もこの団体の事情を知るために入会しているのではなく、
一現役将校として参加していたのである。
憲兵司令部からは、植木、三浦両少佐、横山、赤藤、美座、四方、川村の各大尉、
東京憲兵隊からは大木少佐といった錚々たる憲兵将校が会員となっている。
だから、この研究団体は、憲兵隊としても、あえて視察するものではなかったのである。
だが、ここに一つ注目しておくことがある。
それは、この会合に隊付青年将校が参加していることである。
彼等はこれまで西田を中心として、軍の外に秘密に改造運動を進めていた。
ところが、桜会に参会することによって
彼らの国家改造運動が、公然と当局の容認する舞台にのぼったのである。
いまや彼らは誰憚かることもなく、公然と国家改造を論議する場を見つけたことであった。
だが、思想的に見れば、そこでは革新思想の雑居であった。
幕僚の改造意欲は、事、国防に関しての発想であるのに、
隊付青年将校のそれは、国家の現状を憂うることにおいて幕僚と軌を一にするが、
その根本思想は、西田---北の革命原理にあった。
ここに始めから思想の混淆こんこうがあり 国家改造思想の基底を異にするものがあった。
このことは、あとで軍に皇道派と清軍派 ( 統制派 ) という
二つの革新分派をもつ因子を含んでいたともいえるし、
始めから二つの改造原理が併存していたともいえよう。
とも角も、陸軍の中に、幕僚を中心とした国家改造のための組織が、
たとえ研究会という名目であっても、堂々と存在したことは、
現役将校が政治そのものに頭をつっ込んだことであり、
これまでの陸軍の政治への態度を著しく転換したものであった。
少なくとも、宇垣陸相時代までは軍人の政治論議は、法度として守られていた。
だが、国防思想、軍事思想の普及は、軍人として当然のこととされていた。
陸軍には昭和三年五月頃から国防思想普及委員会ができて、
国防思想普及が本格的に進められていた。
そこで、その国防思想の普及には、
当面、満蒙問題の解決を論ずることが緊切な課題とされていたので、
宇垣陸相に代った南陸相は、幣原外相から軍人の満蒙論議に関して、警告をうけたとき、
陸軍がこれを論ずることは政治論議ではないといいきっていた。
そして昭和六年の師団長会議における大臣訓示では満洲問題に関して論及したので、
朝日新聞がその社説でこれを論難し陸軍またこれを反駁するといった波瀾を巻きおこしたが、
とも角も、軍は軍人が国防を論ずることは政治論議ではないと押しきった。
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当時の陸軍がこのような態度であったから現役将校が国家改造を研究論議することも、
国家の現状においては、やむを得ないこととして容認されていたのである。
池田純久氏の回想によると、
池田氏は南陸相とも同郷の関係もあり、かつ、陸軍省軍事課員だったので、
直接、大臣に桜会のような横断的な組織は禁止すべきで、
もし、このような研究が必要ならば、陸軍大臣直轄の研究機関を設けてはどうか進言したが、
大臣は、桜会に対しては何等の処置もしなかった。
それだけではない。
大臣は同郷の友人に、桜会も困ったものだが、しかし現下の時局打開のためには、
このような研究も必要だと 語っていた。
と 書いている。
大臣が、このような意向であったので、
これらの国家改造運動が、合法的な形で進められている限り、憲兵はこれを取締ることはなかった。
憲兵司令官は峯幸松中将であった。
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こうして軍内にまきおこされた国家改造熱は、
三月事件、十月事件と発展していったが、遺憾ながら、軍の警察力は及ばなかった。
しかし、陸軍におけるこの種陰謀の続発は、
こと治安に関し国の警察機関として緊急な目標であったことには疑いはない。
憲兵の警防ないし事後措置には、毅然たるものがなかった。
事毎に、陸軍の威信に籍口するあいまいな態度に、追随妥協したことは、
軍と共に、その批判を甘受せねばならない。
大谷敬二郎 著 『 昭和憲兵史 』
二 革新のあらしの中の憲兵 桜会の誕生と革新幕僚 ・・から
次頁 三月事件と十月事件 ( 革新幕僚 ) に続く