あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

三長官會議・眞崎大將の手控

2018年04月07日 20時46分06秒 | 眞崎敎育總監更迭

眞崎甚三郎關係書類綴


眞崎大將の手控
押第四十二号の三一
其の一、    昭和十年七月十二日
                三長官会議に於て述べたる意見
抑抑よくよく皇軍をして事の今日に至らしめたるもの、
実に三月事件に発するものにして、其根底は全く皇軍将校の思想問題に懸る所たり。
三月事件は当時国内政情に刺戟せられたる皇軍中央部将校が、
部外革新分子と相応じ、政変を惹起せしめ首相に時の陸相宇垣大将を擁し、
革新的政事を行はんと企図するものにして、皇軍としては断じて許すべからざる行為たり。
幸にして御稜威の光に拠り其発動に至らずして終れりと雖も、
此策謀の結果は皇軍思想の上に重大なる影響を及ぼし、再び十月事件の策謀を見るに至れり。
当時、皇軍の一部は挙国支持の下に、満洲の野に皇威発揚の戦に従ひつつありしに因り、
之れが為皇軍の信望を失するの不利なるを察し、敢えて科罰の処断に出でず、
之れを善導し其思想を改禍遷善せしむるの方途に出でたりしなり。
然るに、是等将校の部外者との関係は容易に清算すべくも非ず、
互に彼此相作用して皇軍にして部外者批判の渦中に投ずるに至れるものなり。
真に皇軍をして時難打開の中核たらしむるの責を全からしむる為には、
奉公の一誠に集中する皇軍の結果を強化せしむるを以て唯一の道となす。
然り而して此の結束を固むるの道は適正なる人事を措いて他に之れを求むべからず。
然るに、一昨日陸相が小官に語りたる如く
「 陸軍が現状に立ち至りたるは南大将 及 永田少将の策謀する所にして
満州より帰京後 稍稍
強化せる徴あり 南大将は陸相をして火中の栗を拾はしむ 」
と云ふ事は 小官も或は然らんと疑ふ節あり。
何となれば今回の異動 数ケ月前より、高級文官方面より頻々として伝へられたる風説
並 小官が五月熊本に滞在中 或筋の少佐、大尉級の将校が述べありし事が、
今回の異動案に奇跡的にも符号するを以てなり。
陸相自身に於て斯の如く策謀を認めつつ其人事を断行するに於ては、
皇軍の前途痛心に堪へず、今回の人事は諸種の情況上 一段の慎重を要す。
然るに小官は未だ的確なる所見を述べ得る如く準備整ひあらず。
人事の事務は成る可く早く決定することは可とすること勿論なりと雖も、
此の重大なる問題を事務の為一、ニ日を争ふ可きものに非ず、
依て本案に対する小官の意見陳述には若干の余裕を与へられんことを乞ふ。

眞崎大将の手控
押第四十二号の三ニ
其のニ、    昭和十年七月十五日
                三長官会議に於て述べし意見
従来人事其他に関し小官が執り来りし方針と云ふべきか、
或は心掛けと云ふべきものを述ぶれば、
第一に  殿下の御徳を傷ひ奉ることのなき第一の心掛としたり。
 故に両長官の話合ひの定まらざる間に、殿下の御臨場を仰ぐ様のこと無き様にすること。
 然るに、今回其此所に至らざる前に、御臨場を仰ぐこととなり 小官の恐懼措く能はざる所なり。
第二に  軍将来の威信を保つに心すべきこと、即ち三月事件、十月事件等の外部暴露を防ぎ、
 軍内部のみにて処理する如く心掛けたり。
 従て小官が如何なる悪宣伝を受くるとも
之に対し抗争弁論することなく、 部内関係者とのみ熟議を遂げ、
時の経過と共に自然に解決する如くし 隠忍して今日に及びたり。
第三に  軍統制に関し 其実現の手段を立つること、
 即ち主義方針を明にすること。
 国体を明徴にする如く考察すること、従来の情勢を明にすることなり。

皇軍統制の基準を為すものは、皇軍精神に発したる軍人精神なり、
之に反する者は之を指導教育して正道に則らしむるは上官の任にして、
軍人精神に遠ざかること甚だしき者は之を除外せざるべからず。
人事行政に於ては、常に此精神を主とし 能力、経歴、組合せ等を考慮して、
所謂適材を適所に置かざるべからず。
陸相の著意 元より此所に存するを信ずるも、本案を見るに此根本の大精神の現はれあるを見ず。
陸相は軍の統制を強調す。
而して此統制を紊るに至りたる根本原因は、過日も述べたる如く三月事件に在りと雖も、
近時其中心を為すものは永田少将なり。
小官は必ずしも永田少将のみとは信ぜず。
或は背後に尚ほ何者か伏在せざるかを疑ひあれども、稍稍確実に認識し得るのは、
同少将は所謂三月事件の中心人物にして、其証拠 及 証人は有り余れり。
同少将の持する思想は穏かならざる所あり。 ( 肉筆の証拠は必要の際に示す )
此思想に基き陸相も承認せる如く策動しあるものにして、
彼の五十万元事件、士官学校事件の調査を進むれば
其根元を同少将に発しあることは推定し得る所迄至りあれども、
之を為さざる為 暗雲に包まれあり。

 陸軍士官学校事件 当時も軍務局の某将校は総監部将校に対し
今回は真崎の一味は見事に永田局長の決戦防備の網に陥れり、
局長は実に作戦計画巧妙なりと賞讃せり。
又 永田は警視総監を動かし小官等に監視を附し、
其欠点を摘発せんとせしも遺憾ながら恐らくは発見し得ざりしならん。
之には有力なる証人あり。
斯の如く彼の為すことは 悉く彼の根本思想より発し
之を司法処分 ( 肉筆証拠は司法処分の価値ありと信ず ) に附するには尚 深刻なる調査を要するも、
之を道徳的軍人精神的に見れば其不都合なること既に充分なり。
永田が新官僚派と通じて策動しあることは軍部 並 一般の認識する所にして、
之を処置せずして軍の統制を計らんとすることは、小官の承服する能はざる所なり。
其軍人精神を離るるの度は他の者の比にあらず。

大臣の統制案は此に両派ありと仮定せんか、
交互に一方を圧へつつ権衡けんこうを得んとするに在るが如きも、
此の如きは物品ならば兎に角、人間は益益対立を強化するに至るべし。
統制の要は一定の方針基準を以て或範囲外の者は之を排除し、
其以内の者は之を包容するの外なかるべしと信ず。
次に陸相は去る十二日に小官が原位置を去るを適当とする理由として、
小官は或種閥の中心を為す、之を除く為小官を去らしむることは陸軍の輿論なりとの論なり。
之れ甚だ謂れなきことにして、
小官が閥を忌いまわしみ厭ひしことは人後に落ちず、
人は他を悪口せんと欲せば如何様にも理由を発見し得るものなり、
小官を閥の中心と云ひ得べくんば、
要職に在る者は大小の差異こそあれ 皆 閥の中心と云ひ得べきなり。
又 予を去らしむるは輿論なりとは如何なることを根拠としたるものなるや、
大臣の周囲には特種の目的にて日々集る者は、小官を悪口せんが為にする者多く、
又 中立中正と称する者多くは主義節操信念なきを常とす。
小官の周囲に日々集る者は全然反対のことを主張す。
故に真の輿論を知らんとせば、厳正なる投票でも行はぜれば能はざることとす。
軍内に於て輿論云々を口にすることは慎まざるべからず。
斯る思想は下剋上の風を生ずる最大の原因たり。

次に小官が派閥的の人事を行ふとの評あるが、
仮令 小官に万一斯る誤りたる考ありしにせよ、小官の権能は軍全般に及び得るものにあらず、
人事は凡て三長官に於て協議の上決定せるものなれば、
小官にも勿論責任ありと雖も 人事の主なる責任は寧ろ大臣にありと云はざるべからず。

以上述べたる所は枝葉のことなり、
抑抑よくよく教育総監の地位は
一、教育総監は 天皇直隷にして教育大権の輔翼最高地位に在り。
二、其人事上に於ける地位は、省部担任規定 ( 上奏御裁可のもの ) に明示せられあり。
 陸軍大臣 及 参謀総長との協議に参与する権能を附与せられあり。
三、右権能は 陛下の教育大権 ( 即ち統帥大権の一分派 ) 輔翼者として附与せられたるものなり。
四、教育総監の地位は総監以外よりの示唆はありとするも、
 結局 大御心を拝する総監自身の処決によるの外 動かすべきものにあらず。
 之を紊る時は軍部の建制を同様せしむべし。
五、陸軍大臣は上奏せる省部協議事項に基き、三長官の協議纏らざれば、
人事の決定を為し得ざる所に統帥権の確立存するなり。
、三長官の意 合致せざるに強て之を決行するは
是れ 陛下より協議することを定められあることを無にするものにして臣道に背反する所為なりとす。
七、然るに之を一方意思に於て決定せられ、総監の要求する人事と相容れざる結果、
 総監をも除かんとするは、建軍の大義に反する所為にして、将来大なる禍根を胎すべきものなり。
 教育総監として職を辱ふしある以上 軍の為同意する能はず。
 本問題は参謀総長に関する問題の起る場合に於ても然り。
八、陸軍大臣、参謀総長、教育総監
 何れも一方意思のみに依り強硬的に人事が決定せられざる所に皇軍の本義存し、
 統帥大権 ( 即ち 教育大権も亦然り ) の確立全きを得るなり。
九、聖慮を安んずる道は、三長官の円満協議纏まる範囲に於て人事が行はるべきものなり。

最後に附加すべきものあり。
天皇機関説問題、議会に上りし以来、
政界特に三、四の大臣級の者よりして 小官を退かしむることは現政府の最高政策の一にして、
斯る工作行はれつつありとて 屢屢注意を喚起せられしありが、
爾来此風説日々伝播し、
昨今に至りては政界に関係を有する者の定説確信と称しても差支なき程度に至れり。
小官が機関説問題に関し訓示したるは 其当時の状況之を必要としたるにより、
大臣と協議し参謀本部にては次長とも協議せしめて発したるものなり。
・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する眞崎教育総監の訓示 
国体を明徴にすることは軍人軍隊教育の基礎なり。
此精神こそ国防力の根底を為すものなり。
之なくして何の軍備充実ぞや。
今や共に結束して国体を明徴ならしむることに渾身の努力を要する秋に方り、
小官と数十年来同思想を以て貢献し来りし大臣が、
小官に関する些細たる悪宣伝を以て此非常時に際し、
小官の転職を迫るが如きは小官の了解に苦しむ所なり。
若し世評の如く夢にも政界の事情に依り軍の人事が影響を受くるか、
或は仮令一時誤解にもせよ斯る感を一般に与ふる如きことありては、
我光輝ある皇軍に千載の汚点を附するものにして其結果如何になり行くものなりや。
一真崎の進退に関する軽易なる問題にあらず、
本問題を強行せば大臣は 勅裁の協定を無視することになり、
其位置に留まることを得ざるべし、
大臣留まらずして何人が統制するや、
思ひを玆に致す時 上 陛下に対し奉り恐懼の至りに堪へず。
大臣は更に熟考せられ、
周囲の感情其他枝葉の問題に捉はれたる説に惑はさるることなく、
大義大局より達観せられんことを乞ふて已まざるなり。


眞崎大将の手控
押第四十二号の三三
其の三
覚 ( 相澤公判の承認として立ちたる場合に述ぶる為 )

内容は ・・
『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』 ・に依る

眞崎大将の手控
押第四十二号の三四
其の四、三長官会議意見資料
一、本職〔真崎〕 は教育の重職に在り。
二、皇軍の人事は亦軍隊教育上の観点よりも之を取捨するを要す。
三、之れ最高人事は三長官に於て協議するの規定慣例ある所以なり。
四、故に本職は人事上教育面の最高者なり。
五、夫れ故本職の地位は 大元帥陛下の御意を拝して自ら決定すべきものなり。
六、万一にも総監の地位にして陸相の意のままに動かるる如きことあらんか、総監存置の意義は滅却す。
七、陸相には動もすれば政界空気の浸潤するあり、故に統帥系統の独立は絶対に之を死守せざるべからず。
八、之れ本職が原位置を敢て離れざる根本なりとす。
九、若し夫れ本職にして教育上 及ばざる点あるに於ては他の要求を待たず自ら其職を退くべし。
一〇、殊に現下の如く思想混沌として皇軍精神の浄化未だ充分ならざるものあるときに於て然りとす。

眞崎大将の手控
押第四十二号の三五
其の五、三長官会議意見資料
判決
皇軍現下の情勢は本職辞職の機にあらず。
理由
一、教育總監の天職は軍人軍隊教育に在り。
二、軍人軍隊教育の至上目的は皇軍精神の確立強化に存す。
三、現下皇軍精神は未だ充分に確立強化せられあらず、其の適例は、
1、皇軍人事が南大将、永田少将の策謀に依ると称する陸相の言、
 軍司令官が人事行政に容喙ようかいし、軍務局長が之に参与するが如きは司々を弁ぜざるの行為なり。
2、三月事件以来瀰漫びまんし来りたる下剋上の風潮今尚息まず。
 陸相は人事を為すに当り其理由として斯の如くせざれば部下の統制採れずと称す、又事実然るべし。
3、三月事件当時の中心人物永田少将要位に在り、大臣の言にして真ならば
 南大将と通謀して人事に容喙したるが如し。
4、陸軍高級人事を協議すべき一人たる教育総監に対し、
 陸相が辞職を迫るが如きは非皇軍思想の最大なるものなり。
 元来我軍高級人事は参謀総長、教育総監、陸軍大臣 三人の協議事項と為したる所以のものは、
 統帥大権確保の大精神に立脚して人事の公平を期せんとの 大御心なりと拝察す。
 特に動もすれば政党其他外界の空気に左右せれるる陸軍大臣の専断を
 防止せんとの深慮に出であるものと信ず。
 陸相の要望に依り総監が常に其地位を左右せられが如きことあらんか、
 将来の禍根を生ずること大なり。
四、陸相の要求は陸相の真意にあらずと信ず。
 蓋し陸相は今日迄に常に 荒木、真崎、林三人にて
 軍の大事を負荷すべきを誓言し来りたるものなればなり。
 其一人たる小官に辞職を迫る、他に陸相を動かすものなくんばあらず。
五、現下皇国の情勢は内外共に混沌たるものあり、
 為に軍も亦其波動を蒙り諸事紛糾を見る、
 従て小官に対する非難も亦大なりと雖も、至誠奉公の一点に於て絶対に欠くる所なきを確信す。
六、今や三長官は確乎不動の意思に依り皇軍精神の浄化に努むべきなり、
 之れ 陛下に忠なる所以の途なりとす。
七、粛軍の根本は三月事件の清算に在り、三月事件は法的に之を論ぜずと雖も、
 皇軍人事の上には皇軍精神浄化の観点より逐次之を処断すべきものと信ず。
 尤も特に改過遷善の跡顕著なるに於ては之を用ゆるに不可なきなり。
八、然るに永田少将の如きは身軍務局長の重責に在りながら、
 軍司令官と団結して陸相をして火中の栗を拾はしめんとす、
 其思想今に至るも改まざるものと認む。
九、統帥大権確保の為 予は如何なる世評を蒙るも敢て其地位を去らざるなり。

現代史資料23  国家主義運動3 から


「 武官長はどうも眞崎の肩を持つようだね 」

2018年04月07日 04時51分22秒 | 眞崎敎育總監更迭


齋藤實内閣の陸軍大臣だった荒木貞夫大將が體調を崩したため辭任し、林銑十郎が陸相に就任した。
昭和九年の一月のことであった。
そのことが人事面などで反荒木色が強かった中央の幕僚たち及びその中核ともいえる永田鐵山に絶好の反撃チャンスを与えた。
直後の三月五日、
さっそく要の軍務局長には自他ともにその手腕を認められている永田鐵山が就任した。
統制派が林陸相を掌に載せながら人事をほしいままにし、首相は齋藤實から岡田啓介の時代へと変る。
その總仕上げでもやるかのように
林陸相、永田軍務局長というコンビは突如 敎育總監だった眞崎甚三郎大將を罷免、更迭してしまった。
十年七月十六日である。
後任の敎育總監に就いたのは渡邊錠太郎だった。
かつて齋藤瀏が旭川の第七師團參謀長として赴任していた際、大正十五年に師團長として旭川へやってきた人物である。
蛍雪の軍人というのがふさわしいかもしれない。
苦学の末、上り詰めた軍人だった。
渡邊はヨーロッパ駐在が長かったこともあろう、外國の書物を獨むのが趣味だった。
毎月の給料が丸善の支払いで消えるほどだとの噂もあった。
そんなところも國家の危急存亡を訴える皇道派靑年將校には誤解されやすかったのかもしれない。
眞崎更迭までの經緯はおおよそ次のような順序で進んだ。
陸軍將官級の人事は通常、陸相の原案があってそれを參謀総長、敎育總監という
いわゆる三官衙さんかんが ( 陸軍省、參謀本部、敎育總監部 ) の 長が協議し決定することになっていた。
この時期、參謀總長は閑院宮だったので、
陸相と敎育総監二人が相談してから宮總長に見せるというのが慣例である。
八月の定期異動人事に際して大掛かりな皇道派追放を畫策していた林陸相は、
眞崎敎育總監に相談する前に永田軍務局長と渡邊軍事參議官という同志にまず相談を持ちかけ、密かに周邊を固める工作を優先した。
永田、渡邊らの強い支持を得て林が考えた異動案は、
眞崎直系の秦真次第二師團長の豫備役編入をはじめとする皇道派錚々の一掃だった。
主なところでは、柳川平助第一師團長の豫備役編入、山下奉文軍事調査部長は朝鮮へ轉出、
山岡重厚整備局長を第九師團長に出すなど 徹底したものだった。
代わりに小磯國昭や東條英機など皇道派に睨まれていた人物の中央復歸が人事案としてまとめられた。
七月初め、
永田軍務局長とともに満洲、朝鮮巡視に向っていた林陸相は歸國するや眞崎敎育總監に會って辭任を迫った。
はたして眞崎は林が示した人事案を烈火のごとく怒りをあらわにし、
斷固として辭任はしない、秦、柳川の豫備役編入には絶對反對と言い出した。
十日に再び會談がもたれたが、眞崎は承知しない。
こうしている間に、林陸相の弱腰が周邊の心配を誘い始めたのだろう、
岡田首相をはじめ財界や元老など皇道派を危險視している方面から眞崎を追い込む作戰がとられた。
岡田啓介首相と西園寺の秘書原田熊雄が林の苦境を察し、この間に會っている。
これは重臣クラスが陸相を支持し、皇道派追放人事を期待していた證しともいえる。
例えば 『西園寺公と政局』 には 次のような記述がある。
「 林満鐵總裁も最近來て いろいろ話していたが・・中略・・なほ現在の様子では、
陸軍大臣は両兩方から責められて困っているやうである。
で、結局内閣に累を及ぼすかもしれんから、さういう場合には、
陛下から一言 「 その儀に及ばない 」 といふ お言葉があれば、
その機會に陸軍大臣は ばっさり思ひきつたことがてきるかもしれない。」
「 歸京後、十四日の朝、總理を訪ねて公爵の意を傳へたところ、
「 現に十三日に拝謁して、陛下に現在の陸軍大臣の狀況---萬一の場合についてもいろいろ申上げておいた。
とにかく陸軍大臣を鞭撻して、できるだけ一つの全幅の援助をするつもりであるから、どうか公爵も もう少し見ていて戴きたい。」
と くれぐれも 言つてをられた 」
「 十五日の朝、總理は陸軍大臣に電話をかけて、「 この際、陸軍大臣として一つの思ひきつてやつてもらひたい。
内閣の生命とか、或は内閣が幾つ倒れても、そんなことは問題ぢやあない。
寧ろこの際、八月の異動において、一つできるだけ軍の思ひきつた覺醒をやつてもらひたい。
即ち その禍根である眞崎を動かすことを主たる目的にして、
どうしてもやつてもらひたい。」 と 話したとのことで、「 非常に激励した 」 と 言つてをられた 」
こうして外堀を埋められた眞崎が辭任に追い込まれたのは十五日の三長官會議でのことだった。
林に代わって閑院宮參謀長から最後の決斷を突きつけられた眞崎は遂に抵抗をあきらめた。
 閑院宮   林陸相   眞崎甚三郎大将
相手が皇族であるから眞崎は反論の無駄を知っていた。
林陸相は會議の結果を天皇に上奏し その裁可をもって眞崎の罷免はようやく決着し、
七月十五日夕、眞崎は一介の軍事參議官となったのである。
新總監には豫定通り 渡邊錠太郎軍事參議官が補せられた。
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・・・挿入・・・
「 武官長はどうも眞崎の肩をもつようだね 」
と 昭和天皇が鈴木貫太郎侍從長に述べたことが本庄の耳に入る。
林銑十郎陸相が推進しようとした眞崎更迭案について、
本庄が 「 閑院宮總長 梨本宮元帥と善後策を協議されては 」
と 林の建議を再檢討するよう天皇に進言したことを指す。
それを受けて 『 本庄日記 』 には、
「 宮中では軍の立場を忘れて一切沈黙するしかない 」 と 述懐するに到る。

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本庄は翌十六日、天皇に呼ばれ概略、次のように問われた。
林陸相は眞崎大将將が總監の位置に在りては統制が困難なること、
昨年十月 士官學校事件も眞崎一派の策謀なり。
( 恐らく事件軍法會議処理難を申せしならん乎、
まさか士官學校候補生事件を指せしものにはあらざるべし。) 
其他、自分としても、眞崎が參謀次長時代、熱河作戰、熱河より北支への進出等、
自分の意圖に反して行動せしめたる場合、
一旦責任上辭表を捧呈するならば、氣持宜しきも 其儘にては如何なものかと思へり。
自分の聞く多くのものは、皆 眞崎、荒木等を非難す。
過般來對支意見の鞏固なりしことも、
眞崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結末とも想像せらる。
・・・・と 仰せられたり 」

天皇が西園寺や岡田首相をはじめとした統制派系からの情報を極めて具體的に入手していたことがうかがえる。
ただ、
「 士官學校事件も眞崎一派の策謀 」 の くだりには 本庄も驚き、
注釋で軍法會議の經緯のことを指すのだろうが、と 書き留めている。

それから三日後の二十日、
渡邊敎育總監と眞崎軍事參議官が天皇に挨拶のため參上することになった。
二人の拝謁に先立って本庄武官長は天皇に一言、願い出た。
「 新任者には 『 ご苦勞である 』、前任者に 『 御苦勞であつた 』
 との 意味の御言葉を給はらば難有存ずる旨 内奏す 」
だが、天皇はこれに不快感を示した。
「 眞崎は加藤 (寛治軍令部長) の如き性格にあらざるや、
 前に加藤が、軍令部長より軍事參議官に移るとき、自分は其在職間の勤勞を想ひ、
御苦勞でありし旨を述べし処、
彼は、陛下より如此御言葉を賜はりし以上、御信任あるものと見るべく、
従て 敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、
眞崎に萬一之に類することありては迷惑なり 」

と 仰せらる。
結局、本庄は眞崎が御言葉を惡用するようなことは斷じてございません、
と 申し上げたため、
眞崎にも 「 在職中御苦勞であつた 」 との 御言葉があった。
だが 本庄は日記に、
陛下は自分が眞崎を弁護しているとの ご感想を鈴木侍從長に對しお漏らしだったが、
自分は いずれにも偏してはいない、ただ軍の統一を願うだけだ、
今回の眞崎更迭人事ほど不愉快なものはない
と 記している。
この人事移動をめぐる動きは元老西園寺とその秘書原田熊雄と岡田啓介を結びつけた。
さらに 木戸、原田の宮廷側近グループと永田、東條ら統制派の接近をも促進する結果となる。
天皇に渡る情報が二・二六事件以前から既に反皇道派に絞られていたことも浮かび上ってくるようだ。
また、皇道派に通じていたため西園寺から警戒されていた平沼騏一郎樞密院副議長とともに
眞崎とも親交があった近衛文麿は、この時期から西園寺、木戸との間に距離が生じるようになる。
工藤美代子著  昭和維新の朝  から