あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 「 統帥權干犯の事實あり 」

2018年04月09日 14時43分36秒 | 眞崎敎育總監更迭


磯部浅一 
憲兵訊問調書
昭和十一年四月十三日
東京衛戍刑務所に於て

永田事件に於て、統帥權干犯の事實ありと信ずるに至つた經緯、
蹶起青年將校と眞崎大將 及 平野少將との關係
竝に 柳川 乃至 眞崎内閣説を生むに至つた由來につき述べよ

私は昨年十二月末、
同志村中孝次 及 小川三郎の三人で、古荘陸軍次官を其官舎に訪問いたし、
「 今回眞崎大將が敎育總監を罷免せられましたことは統帥權干犯の事實がある様ですが、之を如何に見て居られるか 」 
と 御尋ねましたら、次官は、
「 眞崎大將が辭表を提出して居られたら、統帥權干犯といふが如き事實はないだらう。
 眞崎大將御自身から辭表を御出しになつたのだ 」 ・・次官
と 云ふ御答へでした。
私は翌日か翌々日に、小川三郎と共に眞崎大將を御宅に訪問し、御尋ねしましたら、
「 辭表は最後迄出さなかつた 」 ・・真崎
といふ御答へでした。
小川三郎は、此時は演習視察か何かでこちらに出張しておりました。
此時はニ、三十分位で辭しましたが、外には別に話をいたしません。
本件が統帥權干犯であると申すことは、
昨年七月二十日、當時早稲田大學の服務將校でした平野少將に、其お宅で私は直接聽きました。
此時の話の内容は、當時怪文書がこれにつき出ましたが、夫と同様なことであります。
即ち、軍閥、重臣閥の畫策により眞崎大將は教育總監を罷免されたと書いてあります。
尚、此時、平野少將の談話の内容を申上げますと、
(一)、七月の統帥權干犯事情は、林、永田両將軍の私情にて爲された疑惑が深く、
 參謀總長宮殿下に對し、南、林、稲垣三郎、建川、永田等が、眞崎派をたゝきのめすために策謀したらしい。
此策謀の一端は、七月十二、三日頃、三長官會議の席上にも表れておる。
即ち、席上、殿下は、
「 眞崎大將は事務の進捗を妨害するのか 」
と 云ふ きつい御下問があります。
(二)、七月十六日、林大臣は三長官會議決裂直後、自動車を駆り葉山に參られ、
 上奏されたのです。
其内容は甚だ畏いが、想像しますに、三長官會議の協議不成立の事情掩蔽えんぺいし、
眞崎大將を辭めさせねばなりませんと云ふことであつたみとを考へますと、統帥權干犯の事實は明瞭であります。
(三)、更に疑惑の根拠として、林、永田、軍務局員二、三人 及 根本大佐等が、
 會議三、四日以降の言動につき、歸納することが出來ます。
七月十日前後、此人達の言動に基き、其思想につき併せ判斷したのであります。
永田少將の統制思想は我國體に相容れぬものであります。
之に關し、七月十日か十二日に、陸相官舎と思ひますが、林閣下と眞崎閣下の問答内容は次の様なものです。
 眞崎大將
「 統制の中心思想は何でありますか。
 私は國體精神から發する軍人精神に統一せなければならないと信ずる。
夫は相當幅の広いものである。
此の広い幅の内に色々の人を含んで居るが、
我國體に背かない人であるなら皆許してやるべきものであると考へる。
此意味で秦中將を第二師團長から辭めさせることはいかんと信ずる 」
右は當時問題になつて居りました秦中將を待命にすると云ふ林大將の案に對し、
眞崎閣下が極力反對されて爲された言葉でありますが、
之を聴かれた林閣下は 「 ギャフン 」 と參られ、遂に本音を吐かれ、
「 實は南と永田の策謀でねー 」
と申された。
恐らく林陸相は永田少將を伴ひ朝鮮視察に參られた時、南閣下との間に爲された策動と思ひます。
眞崎閣下はそこで、
「 そんなら、永田を馘首すればよいではないか 」
「 永田は秦より惡いことをしておる。其證拠は私が持つて居るから見せてやらうか 」 ・・< 註 >
と申されました。
以上、(一)、(二)、(三) 共、私は平野少將閣下より聽きました。
私は之を信じます。

次に申上げますのは、眞崎大將は靑年將校に會ふのを大變きらつておられました。
私が小川三郎と共に前述の如く眞崎大將を訪問いたしました処、
閣下は 「 直接俺のところへ來てはいかない 」 と申されました。
軍の統制を紊すからとのお懸念からと思ひます。
平野少將が九州へ赴任せられましてからは、眞崎閣下の近況を知ることは出來なくなりました。
眞崎閣下は閣下として獨歩して居られ、統帥權干犯を主因として敢然立つた相澤公判には、
私共より以上に其持つ使命について眞劍であつたと思ひます。
私は何もかも、刀の外には解決の望みはないと信じ、刀を抜いたのであります。

次に、早淵中佐と私の關係は、
私が近歩四の次級主計をしております時、中佐は經理委員首座をしておりましたので、知つております。
本事件關係では何も關係はありません。
又、事件前中佐殿を訪問したことも、会つたこともありません。

次は眞崎大將と蹶起將校との關係であります。
閣下は、靑年將校より尊敬されて居りました。
巷間よく眞崎大將により煽動を受けて立つたと申して居りますが、之は靑年將校を見縊った話であります。
私共の行動は信念により決行しましたので、煽動によりやつたのではありません。
閣下の偉い処は斷行力があり、思想、信念につき一致した點があるからであります。
將軍が恰も黒幕の様に疑惑を受けつゝある事は、洵に御氣毒であります。
私共が煽動によりやつたとしたら、自主的に零であります。
全國の靑年將校が眞崎閣下を見る処は、期せずして一致して居ります。
平野少將を通じて見た眞崎大將も同じであります。

次に、私共が眞崎大將に時局収拾を一任したいと申す希望につき、
大分間違つてとられて居る様でありますから、一言申上げますと、
時局収拾の實行力のあるのは閣下丈で、外にないと考へました。
宇垣さんとか南さんでは駄目であります。
実は蹶起後すぐに、參謀本部の意嚮として榊原大尉が私共に傳へましたところは、
皇族内閣とか、平沼内閣ではどうだと申しましたが、皇族内閣は我國體に容れません、
平沼内閣でも若し出來たら私はすぐに襲撃しますと申しました。
眞崎大將に時局を収拾して頂きたいと申しますのは、強ち首相になつて頂きたいと申す意味ではありません。
三長官の一人になつて頂いて、早く此の時局を収拾して頂き、
爾後の処置も、私共の希望する様な社會になして頂く様にお骨折りを願ふといふ意味であります。
首相になつて頂けば、或は尚更よかつたかも知れません。
此意味は、蹶起直後の私共の心境があまりに衝動を受けて居りましたので、
よく私共の眞意が川島閣下に徹底致します様に御達しする事が出來ませんでした。
と申しますのは、丁度、私と村中 及 香田が大臣と對談して居りますと、坂井中尉がやつて來まして、
「 只今、完全に渡邊大將を殺して來ました 」
と 香田に報告し、
外には其部下が血をあびた絨衣袴 じゅういはかま を着て、「 トラツク 」上で銃を上に擧げて、
「 萬歳 」 を連呼して居り、
私共の心も殺気立て落付かなかつたから、明確に御伝ひすることは出來ませんでした。

次に、私共の心裡を述べますと、
柳川閣下と申すのも、同様の誤傳であります。
之は二月二十二、三日、村中と私が山口を訪問しましたとき、
時局収拾は 「 シツクリ 」 思想の一致した人の一人として出た名前であります。
此の運動に没頭して居りますと或る信念を持ち、外の人から見れば其心裡状態は御判りになりません。
結局、相澤中佐と同じで、法律を超越して有する一つの精神界にみ、神の様な気持ちが致し、人を殺すのも何でもないのです。
維新と申す事の内には、凡有難業苦業、流血、投獄、人を訪問して叱られて歸ると云ふ様に、
斯ることは革命家の朝飯事であり、少しも苦痛とはいたしません。
私共の決行する時の考は、
「 あとは野となれ、山となれ 」 と申す様な捨鉢的なものではなく、或一つの望を以ております。
破壊後の建設は誰か適當な人が出て、収拾して下さればよい。
其適當な人は眞崎大將を指すものではなく、實行力のある人なら誰でもよいのであります。

次に、私共が蹶起迄如何なる処置を執りしやといふことを申上げれば、
如斯して立つより外に方法がなかつたことが判るのであります。
私共は、幾度か上司や要路者に各種の手段を盡して來ました。
五 ・一五事件、神兵隊事件、三月事件、十月事件と幾多の尊い犠牲を拂つて來たのでありますが、
更に更に當路者は反省の實が擧らず、軍當局は靑年將校と全く離れて存在して居ります。
之を明治維新史上の大名は志士を中心に討幕策を練つたことゝ比較しますれば、
甚だ遺憾であります。
今日の靑年將校が政治を論じ、上司に意見がましい事を申せば、直に処罰を受ける。
例へば、渡邊大將に天皇機關説につき忠告申上げれば、重謹愼を喰ふという事情であります。 ( ・・對馬勝雄 )
維新運動を阻害し、軍淨化を妨げるものは軍幕僚であります。
之を倒さねば日本は直りません。
私は參謀本部と陸軍省の全幕僚をやつつける覺悟でありましたが、
他の同志の爲め出來ませんでした。
僅かに片倉などゝ申す小者をやりましたのは気の毒であります。

次に、日本が現在如何に維新を必要とするかの一例を申します。
靑年將校が兵に話をしますと、終つてから敎官の後にぞろぞろ澤山ついて來て、
今のお話をもう少し聞かせて下さいと熱心にやつて參ります。
今回の事件を下手に処置せらるゝなら、全國的に庶民運動が起ります。
兵に對する同情は、同年輩の士官候補生出身の將校のみがよく判ります。
私共が事件決行後、何故自決せなかつたかといふ話をよくきゝますが、
そんなつまらぬ考へは私には毛頭ありません。
世人は賞讃するでせう。
然し、私共は賞められやうとか、そんな下らぬ考で國家改造運動に志て居るものはありません。
二月二十八日に、同志のものは自決しやうと申しましたが、私は之を中止させました。

山口一太郎大尉につき申上げますと、
一体に、私共は三十三期以前の人は之を別格と申しております。
山口大尉は夫で、其任務は軍上層部に対する工作を担任いたすのであります。

外に申し立つことはないか
靑年將校と眞崎大將は結託して居ると軍部内に想像しておる人もあると思ひますが、
若し此考へ方があるとしたら、今の軍部は維新階級ではなく、
佐幕階級であると申すことが的中すると思ひます。
惡口を私共に向けるものは、其思想信念に於て支配階級と同じものであります。
佐幕派に好意的な階級であります。
斯る空気がある様でしたら、日本維新の為め由々敷問題であります。
この思想が軍部内にあれば、私共は百方手段を盡して是正いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
永田が立案作成した三月事件の計画書。
事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、
小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、
後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
磯部浅一
憲兵聴取書
昭和十一年五月八日
東京衛戍刑務所に於て

昨年十二月末、村中孝次、小川三郎と其方との三名で陸軍次官を尋ねたのは、如何なる関係で次官を尋ねたか
古荘次官は以前第十一師團長であつた關係上、小川三郎が良く知つており、
閣下の人物が立派であり、良く時局につき心配して居らるゝ方であるから、
一度會つて見よとの話でありましたが、其機會を得なかつた所、
小川が丁度演習の關係上、上京したので三名で御訪ねした譯です。

訪問するのは、其方等に何か目的があつたか
相澤公判の事と國體明徴問題に関して、軍の確固たる決意を促すことを目的として、
行つた様に思つて居ります。

其の時次官より如何なる意志表示が聞きたかつたか
此の儘に放て置けば血が流れることを予想したので、色々事情を申上げ、
軍の確固たる決意を聞かして戴きたかつたのです。

其の時次官から如何なる話があつたか
君達は急進的な事を考へ居るが、其れは出來ない、漸進的にやつて行かなければいかん、
と云はれました。

其の方等が次官を訪問する時の目的に考へ、右の様な答では其方等の意に満たないと思ふが、如何
全く左様であります。
次官は以前より立派な方だと聞いて居りましたが、
維新運動に対する充分なる認識を御持ちにならぬ方だと直感し、
最早話しても駄目だと思ひ、質問することを止めました。

右の様な話だけで次官の宅を辞して後、何か三人で話し合つた事はないか
山下奉文の所へ行つて話して見やうではないかと云ふ事になり、
直ちに三名で山下閣下の御宅を訪ねましたが、御留守でしたので、直ぐ歸りました。

其翌日か翌々日、小川三郎と共に真崎大将を訪問したと云つておるが、其目的は何か
次官閣下を訪問した時、次官より、
「 眞崎大將は御自分から辭表を御出しになつたのだ、云々 」
との事でしたから、其を確めに行つたのです。

右の様に真崎大将を訪問したのは、如何なる事から行く話になつたか。
確か小川は兄の内に泊つて居りましたが、私の宅にやつて來まして一緒に行つたのです。
行く事になつたのは、時期は忘れましたが、
其れより前、小川と二人で行くことに豫め打ち合しておつたのです。

右の様な考で眞崎大將を訪問し、如何なる話であつたか。
小川が單刀直入に、
「 陸軍次官を訪問した処、閣下は敎育總監更迭に関して辭表を出された
と 次官が云ひますが、「 本當ですか 」 と云つたと思ひます。
眞崎大將は、
「 左様な事を言つておるか。そんな事はない 」
と云はれたと覺へております。

右の外、何か話が無かつたか
話に前後あり、斷片的ではありますが、
「 西園寺公には會はれては如何か 」 ・・小川
「 乃公が会ふと大變な噂が出て、誤解を生ずる。
 なにしろ乃公の周囲には、ロシアのスパイが付いて居るので、非常に警戒して居る 」 ・・眞崎
私は成る程なあと思ひました。
「 七月統帥權干犯問題は、
 林大將が陛下に上奏した内容と、其方法態度が問題だと思ふが如何ですか 」 ・・磯部
「 乃公は最後迄頑張つたんだ。林は違勅である 」 ・・眞崎
と云ふ事を、非常に興奮した面持ちで話されました。
私は其処で心證を得ましたから追及しませんでした。

其方 「 七月統帥権干犯問題は、林大将が陛下に上奏した内容云々 」 と眞崎大将に云つた意味は如何
省部規定に対する違勅なることは明かである。
人事に關する勅に對して違勅した事が統帥權に對する干犯である。
陛下に上奏する時に、協議不成立の事實を隠蔽して上奏する林の自恣専斷に依つて、
渡邊大將を推薦したと云ふ場合には、明に統帥權干犯であります。
然し、右の様な事柄は、
砲工學校に於ける渡邊總監の訓示、
東日に報道せられた渡邊總監の車中談等より推察したのであります。

右の様な抽象的な事柄を基礎に推察した丈では、今回の事件に奮起する様な心境にはならないと思ふが、
他に統帥権干犯問題に関し聞いたことありや
陛下が眞崎大將の敎育總監更迭に就ては、「 林、永田が惡い 」
と 本庄侍從武官長に御洩らしになつたと云ふ事を聞いて、
我は林大將が統帥権を犯しておる事が事實なりと感じまして、非常に憤激を覺えました。

右の話しは何時誰から聞いたか
右の話は日時は判然としませんが、昨年十月か十月前であつたと思ひますが、
村中孝次から聞きました。

其の際、何か他の話はなかつたか
其の時であつたと思ひますが、
本庄大將が、「 陸軍の中央部の者が何故之れに憤慨せないのか 」
と云ふ様な意味の事を話されたと聞きました。

右のことを聞いて、其の方は何の事と思つたのか
統帥權干犯問題の事と思ひました。

何うしてそんなに思はれるのか
陛下の仰せられた 「 今度の事は林、永田が惡い 」 の話に續いての話でありますから、
統帥權干犯なる事は明瞭であると思ひます。

村中は誰から聞いたか、話はなかつたか
知りません。

村中は誰から聞いて来たのだと、其の時想像したか
恐らく山口大尉から聞いたのだと思ひました。

一月下旬、渡辺大将の事に就き話を聞いたと云ふが、其の詳細は何ふか
私が渡邊大將を辭職さして戴く様、川島大臣に御願ひに上つた時の話でありますが、
「 渡邊大將を辭職させて戴きたい。天皇機關説の信奉者であるから 」 ・・磯部
「 そんな事はない 」 ・・大臣
「 明瞭じやないか 」 ・・磯部
「 自分から辭職する様になると良いのだがなあ。
君等将校達が渡邊大将に意見を云へば良いではないか 」・・大臣
「 意見は云つて居るのだが、聞かれない。三月に變られる様にしたら何うですか 」 ・・磯部
「 三月には變らん 」 ・・大臣

其の話があつて、何と思つたか。
其時は、既に今度の蹶起の事に就き、私は決心して居りましたから、
三月に變らなければ、殺すより他に致し方がないと思ひました。

右の様な決心で行つたとすれば、大臣には何かそんな事を仄めかしたか
教育總監を更迭せなければ血を見る、と云ふ様な事を云ひました。
渡邊大將が危險だと云ふ意味であります。

右は何処で話したか
大臣官邸で、私と大臣とが對談したのです。

先きに山下少将の宅を訪問して留守であつたと云つたが、其後少将のお宅を訪ねたことありや
其の晩か其翌晩であつたと思ひますが、村中と二人で御宅を訪ね、
大体、
「 現内閣を倒さなければ駄目だ。現狀を早く打開せなければ駄目だ。 此の儘で行けば一部の将將の蹶起を見る 」
と云ふ様な事を骨子として話しました。
閣下からは、 「 其う云ふ事があるであらう。止むを得まい 」 と云ふ様な話がありました。

右の様な事柄で、其の外の方を訪問したる事ありや
村上大佐、今井閣下も御訪ねしました。

村上大佐を訪問したのは如何なる目的か
山下少將を御訪ねの時と同じ様に、私等は既に決心して居りましたので、
成可 血を見ない様に現状打開の意見を申上げに行つたのです。

其方等が其時、現状打開が出来ないとすれば、青年将校が蹶起して、
血を見るより外致し方なしと云つた時、大佐は如何に云はれたか
大佐は
「 煽動するのではないが、こえなつた以上、最早そうするより外致し方なからう 」
と 云ふ事を言はれました。

村上啓作大佐を訪問したのは何時頃か
幾度も行きましたが、最近では本年一月一人で行きました。
右に云つた様な意見は、村上大佐には何度も云ひました。

眞崎大将訪問の際の話は、前に云つただけか
其の時 小川三郎から、
「 此の儘放つて置くと、血を見るかも判りません 」
と云ひますと、眞崎大將は
「 確かにそうだ。血を見るかも判らん。
 其事に就ては各方面にも云つておるのだが、眞崎が靑年將校を煽動してる様に云ふものだから、余り言ぬ、云々 」
と云はれまして、
眞崎大將も私等の蹶起の決心を察しておる様でありました。
思ひ出しましたから申上げます。

眞崎大将を訪問して帰る時、如何なる感じを持つたか
唯勇斷な人であると云ふ事を感じた丈であります。

小川が「 血を見るかも判らん云々 」 と言つた時の眞崎大将の言に対し、其の方達は如何に思ふたか
此の人は、維新的状勢に対する認識が相當ある人だと思ひました。

外に申立つることはなきや
別にありません

二・二六事件秘録 ( 二 )  から