軍神・林聯隊長 (林八郎 の父)
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から
「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との 命に接し、
林聯隊長は憤慨して、
「 陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるか 」
と 烈火の如く怒った
林聯隊長はこの日、
「 兵隊達だけ死なすことは出来ない 」
と、みずから第一戦に進出し
壮烈な戦死を遂げた
軍神・林大八
林大八は
幼年学校のときからロシア語と蒙古語に特別の努力をしていたが、
大正三年参謀本部から満蒙に派遣された。
それから昭和六年までの十七年間に、内地勤務はわずか二年である。
平和時に、これほど長期に亘って治安の悪い準戦地に勤務した軍人は他に例がない。
しかも、この間の彼の仕事は情報収集や特殊工作などの働きであるから、ごく一部の人にしか知られていない。
( シベリヤにおけるパルチザン工作の報告や張作相の顧問をしていた時代の報告などが断片的に残っている。
昭和十年ころ読まれた小説、山中峯太郎著 『 大陸非常線 』 は、林をモデルにしている )
途中の内地勤務二年間は歩兵第三聯隊 ( 東京 ) の大隊長の時代で、
平和時の大隊長は比較的閑職とされていたが、
彼の場合はこの間に関東大震災 ( 大正十二年 ) があり、
大隊を指揮して救難・警備に出勤している。
さらに引続き
大杉栄事件の被告甘粕憲兵大尉の軍法会議に判士として列するなど、極めて多忙な二年をすごした。
それからまた長い大陸の勤務があり、
次の帰国は昭和六年八月、歩兵第七聯隊長 ( 金沢 ) に補せられたときである。
二男 八郎は、既に彼と同じ東京幼年学校を卒業 ( 第32期 ) して 士官学校予科に在学していた。
しかるに金沢の生活も七ヶ月足らず、金沢師団は上海に出勤することとなり ( 上海事変 )、
彼も聯隊を率いて激戦に参加、
七年三月一日、
江湾鎮において陣頭に指揮中、腹部に敵弾を受けて倒れたのであった。
連隊副官は重傷救い難しと見て、連隊旗手を招いた。
覆おおいを取った軍旗が聯隊長の目に映ずると、
彼は副官に手をささえられて御紋章に触れ、
最後のおいとまごいをして 瞑目、多端なりし人生を終った。
時に四十八歳。
・
林大八の言行は、
関東大震災前後と歩兵第七聯隊長着任から戦死まで、
通算しても二年に足らぬ期間のものだけを拾っても、ゆうに一章をなすものであるが、
そのうちから江湾鎮の攻撃開始前後、
聯隊将校全員 ( 大部分は戦場の経験がなかった ) を集めて行った訓示を記しておく。
・・・・諸君は、既に充分の覚悟あろうかと思うが、二つだけ注意を述べる。
一、戦場において最も顕著に現われるのは人間の本能による興奮、恐怖から生ずる現象である。
顔色の青くなる者もいれば、からだの震える者もいる。
けれども、これは決して恥づべきことではない。無理にこれを隠したり、または故ことさらに剛胆を装ったり、
あるいは功名を焦ったりすることは禁物である。
青ざめながらでもよい、震えながらでもよい、ただ任務を正しく実行せよ。
戦場では、責任観念の強い者が、いちばん強い者である。
二、老人、子供、女子は、いかなることがあっても殺してはならぬ。
男子であっても敵対せぬ者を殺してはならぬ。
良民に対しては皇軍の慈しみを忘れないようにせよ。
この訓示が初陣に臨む若い将校たちの心に落着きを与えたことは想像に難くない。
若い中隊長 辻正信中尉も感動しながら聴いていた。
誰かが質問した。
「 聯隊長殿は、女を絶対に殺すなとおっしゃっるが、もし 女が狙撃してきたらどうします 」
聯隊長は笑って答えた。
「 女に殺されるなら、いいではないか 」
戦いを前にして一同、大爆笑した。
毎日新聞社
別冊1億人の昭和史 陸士☆陸幼
日本の戦史別巻10 から
リンク→永田鉄山 『 噫 軍神 林聯隊長 』