あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松の慶事、萬歳!!

2016年11月06日 04時47分23秒 | 澁川善助

澁川善助発西田税      〔 昭和十年四月二十日 〕
復啓仕候
末松の慶事、萬歳!!
欣喜雀躍の至に御座候、
歓哉、好哉、快哉、
あな嬉しいきどほろしきわびし
  はからず聞ける友のよろこび
歌など まどろかしくてこの喜びを表せず候、
この葉書 五月一日以前に配達せらるるや否や 不明に候間取敢へず渡邊氏宛、
謝辭と祝辭と電報にて發信の手続仕置候へども
尚も重ねて宜しく御鳳声被成下度奉懇願候、
下手くその歌にて候へども 花嫁御芳名とし子の君と承り候まづ
  千代八千代末の世までも輝かむ
  とし得て雄々しい松の操は
  末の世の男 の子の鑑雄々しき松
  としごとふやせその彦ばえを
と、渡邊氏宛 右の電報中に、
式の際 披露宴を御願申上置候へども 電文不明を顧慮とて念の爲再度仕候、
何とぞよしなに御取計ひなし被下度懇願の至に御座候、
更に、その佳き日にまのあたり祝盃を献じ得ざるが
小生何よりの遺憾に有之候間何とぞ小生の分も御乾盃なし被下様御願申上候、
小生は此処に於て遥に祝賀仕るべく候、
ああ太平夫妻の顔が見たくなり申候!!
  ×--×―×--×--×--×--
天業恢弘・億兆安堵の  皇謨を扶翼すべく魯鈍に鞭ち微力を盡すこと幾春秋、
わずかに大陸經論の曙光を見しのみにして 内外の暗雲猶ほ重し
わらふべき業務に引かれて囹圄の身となり、
世運忙々の外に閑坐する早くも半歳、
鐵窓を隔てて満帝の御來京を聞く、
想は遠く馳せめぐりて感慨無量なるもの有之候
然り 盛事なり畫時代的盛事なり
噫々 而も 創生安んぜざる如何せん
皇天上席眼文明、或は風
或は雨、春を虐しいたぐる夫れ意なからんや
--×―×--×--
屋外運動も取やめ勝にて、
屋外の桜花心ゆくまで愛でられもせぬ内に早や散り果て申候
ただ春逝不可停、還喜盛夏來、落花眞可憐、男子自不嘆と有居候
愈々明後日 月曜 ( 廿二日 ) 小生の取調 ( 但し檢事の ) 始まることに相成候、
簡單に相濟むらしく候、
益々頑健に罷在候間 何とぞ御放念被成下候
末筆ながら弥々御清穆ぼくの程 伏して奉祈上候
      恐々頓首

〔 ペン書。  封緘葉書。
表、渋谷区千駄ヶ谷四八三 西田税様。
裏、中野区新井町三三六 澁川善助  四月廿日認。
郵便消印10・4・26.
なお 文中
は消去  傍線をほどこした個所は、渋川のペンで書いて後 消されたことを示す。〕

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十月にはいったころのある土曜日、
私は戸山学校に末松太平 の訪問を受けた。
「 きょう午後、わたしにつきあってくれませんか 」
「 だしぬけに何だい 」
私は、末松のいう意味がわからなかった。
「 あんたも知っている例の縁談のことですよ 」
私は、ああそうかと思った。
そのころ末松は、戸山学校の学生時代に下宿していた家のおばさん夫妻から、
しきりに結婚をすすめられて困っていた。
いついかなる事態が起るかもわからぬこの時期に、
結婚でもないもんだというのが末松の心境であった。
相手は久保三郎元千葉県知事の令嬢との縁談であった。
「 その結婚の件で、どうつきあえというんだ 」
「 ことわりたいんですよ、私からはいい出しにくいので、その役をあなたにやってもらいたいんです 」
戦場では金鵄に輝く さすがの末松も、こんなことでは気が弱かった。
「 本気でことわるんだな 」
「 本気ですよ 」
「 じゃ、いっしょに行こう。建設は苦手だが、破壊ならやれそうだ 」
私は縁談のぶちこわし役を引き受けた。
面会の場所は神田駿河台の主婦の友社であった。
その昔、石川武美 主婦の友 社長が雑誌 『 主婦の友 』 を、
肩にかついで行商的販売をしていたころ、
久保元痴ぢが強力な後援を惜しまなかったので、いまでは石河社長はその恩義に報いて、
退官後の久保を顧問として迎えているとのことであった。

久保夫妻は すでにきていた。
名乗ってみると、あろうことか、彼は私の同郷の先輩であった。
「 末松さんは今度の満洲事変で金鵄勲章を頂いたそうですね 」
金鵄勲章にだいぶ魅力があるらしい。
「 別にたいした手柄をたてたのではありませんが、なんとなしにもらったというところでしょう。
運がよかったんですよ 」
と、末松がいった。
「 そうです、運ですよ。
戦場では、きょうの勇者必ずしも あすの勇者ではないといわれます 」
私は、ここで末松の悪口をまくしたてて、一挙に破壊力を集中しようと思った。
「 末松という奴は、金鵄なんかもらったものだから、
ちょっとえらそうに見えるけれども、もともとだいぶ変わりもので、たいした男ではないんですよ。
戸山学校の学生のときも、教官のいうことはきかんし ( 実際はそうではなかった )
でたらめで学校のもてあましものでした。
このままでゆくと、いずれは処罰を食うようになるでしょうし、
悪くすると監獄にもはいりかねない奴ですよ。
こんなことはいうべきことではないかも知れませんが、
大事な縁談のことですから、あえて本人を前にして申し上げたわけです・・・・。
末松、申しわけない、許せ 」
私は、ちょっぴり深刻な顔をして、末松の方を向いて頭を下げた。
縁談を破談に導こうとする目的であったとはいえ、
親しい後輩に悪口雑言を浴びせかけるのは、いささか心苦しいものがあった。
「 かまいませんよ、本当のことだから 」
と、末松は苦笑いしていた。
「 しかし、女に関するかぎり 石部金吉であることは間違いありません 」
私は一つだけほめた。
「 ちかごろの若いものは、そのくらいの元気があってほしいですね、
とくに国家を守らねばならぬ青年将校は、なおさらそうあるべきでしょう。
わたしらは大賛成ですよ 」
久保夫妻はニコニコしていた。
二、三十分雑談を交わしたあと、私と末松は主婦の友社を出た。
「 オレの破壊力も台無しだったらしい。もしかしたら、
破壊と建設とがすりかえられたのではないか 」
「 そうだろうか 」
「 こうなったら、どうだ末松、あつさり男としての覚悟を決めたら・・・・」
「・・・・・・」
末松は黙って歩いた。

やがて末松家と久保家との話が進んで、
十月の菊かおるころ、
偕行社で華燭の典があげられた。

新婚の夢なおさめやらぬ数ヶ月後、
はからずも私が破談のためとはいえ口走った
「 投獄される・・・・」
云々が現実となって、末松は禁錮四年の刑に処せられたのであるが、
そのときの結婚記念写真の中に
いまはなき 西田税 渋川善助 の若若しい面影が、
私とともになつかしい当時を偲ぶよすがとして残されている。
西田は写真を撮るのがきらいであったのか、いまはほとんどその面影が残されていない。

大蔵栄一 著 二・二六事件の挽歌
末松太平 の結婚式にひと役  から