あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

松浦邁 ・ 異聞

2016年11月08日 04時22分30秒 | 松浦邁

ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局
の中に、『 二・二六事件異聞 』 という頁を認めたので 全文を掲載する

二・二六事件異聞
斉共事件の翌昭和
十一年 ( 一九三六年 ) に、
日本の軍隊叛乱史上最大とされる二・二六事件が起こった。
二月二十六日未明、陸軍の一部青年将校らが急激な国粋的変革を求め、
約千四百人の部隊を率いて叛乱を起した。
蔵相・高橋是清、内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎を殺害、侍従長・鈴木貫太郎に重傷を負わせた。
首相・岡田啓介をも殺したつもりだったが、人違いだった。
永田町や麹町一帯を一時、占拠したが、二十九日、鎮圧された。
事件の背景には、陸軍内部の皇道派と統制派の対立があり、皇道派が蜂起した。
皇道派は前陸相・荒木貞夫や前教育総監・真崎甚三郎をリーダーと仰ぎ、
『 日本改造方案大綱 』 を 書いた北一輝を理論的指導者とした。
統制派は、前年八月に暗殺された軍務局長・永田鉄山を指導者とし、多数派とされた。
いずれも軍部の力を強めようとする急進派には違いないが、
統制派は、「 総力戦のためには旧来の財閥とも強力し合う 」 という方針だったのに対し、
皇道派は農村の惨状に心を痛め、財閥を憎んだ。
そして、財閥などと手を結んでいる将軍や幕僚層をも軍閥とみなし、
天皇の正しい政治を妨げている 「 君側の奸 」 と 反感を抱いていた。
「 監軍護法 」 の 憲兵は、当時の二・二六事件の起こる前から彼ら皇道派を 「 一部将校 」
と よんで、その言動を注視していた。
土屋のいたチチハルにも、この一部将校がいた。
土屋の担当は松浦という歩兵38聯隊の中尉だった。
二十四、五歳、小柄で怪異といっていい顔立ちだった。
尾行などを繰り返すうちに、彼がしきりにどこかに手紙を出し、自分も受けていることに気づいた。
手紙の内容が分れば、不穏分子かどうか仲間の有無、行動を起こすとすれば その時期などが
情報として得られ、未然に防ぐことができる。
どうすれば郵便物を見られるか。
わけないことだった。
作戦要務令には 「 通信および言論機関の検閲取締り 」 を 憲兵の任務の一つに挙げていたし、
当時、不穏文書を取締る別の法律もあったように土屋は記憶している。
軍事郵便物は憲兵隊内にあった軍事郵便取扱所で、
普通郵便はチチハルの郵便局というべき郵政局で、見た。
ほとんど連日のように行った。
慣れてくると、勘で、そろそろおかしいのが来るところだなと思う時に行った。
「 イヨッ 」 と 声をかけて中に入り、私信だろうが外国領事館の本国への公文書だろうが、
ジャガジャガ開封した。
必要なものは写し取って情報として報告し、外国のものの多くは暗号文だったから、
やはり写して暗号係に渡した。
写し終えるとノリをつけて、コテでシャッとすると、開封した跡は消えた。
開封はどうしたかというと、湯気をあてるような面倒なことはしない。
指のつめの先で、スッと開ける。
開封したことが絶対わからないように今でもできる。
外国のものには、検閲防止のため円形のロウで封をしてあるものがあったが、
それとて簡単だった。

一部将校の松浦中尉の出す郵便は、内容はほぼ同じだった。
「 天御中主神 あめのみなかぬしのかみ の子孫が天皇である。
 天皇の権力をもっと強めて天皇親政の日本として治めていかねばならない。
ところが、日本の今の政治は財閥に牛耳られ腐敗している。
君側の奸が多すぎる。これを改め、天皇の権力を拡大し、天皇の真姿顕現を図らねばならない 」
いわゆる檄だ。
これを関東軍だけでなく、内地の軍の仲間にも送っていた。
土屋は、その内容を見て 「 なるほど 」 と 同感だった。
天皇の取巻きに悪いのがいる。
日本を天皇中心のもっと強い国に改造しなくてはならない、と。
「 松浦中尉とは何と素晴らしい人か 」 とも 思ったが、検閲は仕事だから続けた。
そして、二・二六事件があった。
情報が流れてきた。
すぐに、松浦中尉はじめ二十四人の皇道派青年将校を検挙した。
取調べは憲兵分隊長が当り、関東軍軍法会議に送検した。
結果は、土屋たちには知らされなかった。
取調べが中国人に対するような、拷問責めなどではなかったことだけは確かである。
松浦中尉は、その後、昭和十五年ころだったと思うが、チチハル以外の戦闘で戦死した。
連日流れてくる戦死者名簿の中に彼の名前を見つけた土屋は、「 一部将校であった 」 と 添え書きして上官に持参した。
この上官は一瞬、ムッとして土屋をにらみつけ、黙ってしまった。
ひょっとして、この上官は皇道派だったのではなかろうか、
土屋にしても、皇道派を非難がましくみていたわけではない。
むしろ、好ましくさえ内心では思っていた。
それは、皇道派が土屋の出身でもある農村の疲弊にも目を向けていたから、というわけではない。
やはり、頭に刻み込まれていた天皇のイメージからみて、皇道派や松浦中尉の主張は 「 なるほど 」 と 思わせた、というほうが近い。
土屋だけでなく、憲兵の中には皇道派に同情的な見方をする人も少なくなかった。
同じ関東軍憲兵隊のある隊では、二・二六事件直後に何人かの青年将校を逮捕したものの、客分扱いだったという。
もっとも、関東軍憲兵司令部は違っていた。
その時の司令官、東條英機は
「 この機会に関東軍内部の皇道派将校と、満鉄および満洲国政府内の親皇道派の一掃を 」
図ろうとして、各憲兵隊に厳しい取調べを要求したといわれる。
昭和十六年(一九四一年) 十月、首相となった東条は、陸軍大臣を兼務し、
憲兵を手足のように使って東條憲兵と悪評されるが、その下地づくりをここでしていたようにもみえる。
このように東京で起きた二・二六事件でははあったが、満洲への波紋も小さくはなかった。
いずれにしても、事件後、
「 財閥の意のままに動く軍部独裁政治へと急速に変わっていった 」
と 土屋は分析する。
「 それにしても 」 と 思う。
皇道派に走り、若くして散った松浦中尉の生き様は、その死は、何だったのか。
これもまた検閲で開封して読んだのだが、中尉の母の手紙を思い出す。
島根県の人だった。
「 お前は藩士だった父の血をうけて過激すぎる。おだやかに往きなさい 」
と あった。
そういう男だった。
と 同時に、だれとも同じように、やさしい母のいた人でもあった、と 思う。
土屋にとっての 「 二・二六事件異聞 」 である。

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茲に登場する 松浦中尉が、
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 の、松浦邁少尉かは判らない
それは
黒崎貞明著の恋闕
の中に下記、 松浦少佐が登場する場面があり
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( 昭和二十年八月 ) 十三日、
松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。

いずれも 二 ・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の 揃い踏み とはいささかできすぎた演出であった。
「 何事ですか 」
「 日本の大事にあたって、何かわれわれにできることはないかと思って様子をみにきた 」
という。
私はポツダム宣言以来の概略を話して、阿南陸相の決定に従うことにしているというと。
「 他に途はないのか 」
というので、
「 軍が二つに割れて、片や皇軍、片や官軍ということになると、収拾がつかなくなるし、
分断占領も、革命もあり得る 」
と 所信をのべると、
「 天皇を擁してあくまで戦うことはできないのか 」
と 迫ってくる。
これは誰かから、軍の中堅将校が阿南陸相に進言したが、
梅津参謀総長がこれに反対したという情報を聞いて、とんできたものらしい。
「 たしかにこの際、天皇を無理にでも市ヶ谷台にお連れして本土決戦を行い、
条件講話にもって行こうという考えがあったことはたしかであるが、それは省部の大勢ではなかった筈だ 」
と 説明し、むしろその後われわれはいかにして国体を護持して、
日本の再建の方途を考えるべきではないかと思うとのべた。
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「 俺は二・二六事件でも死に損なった。あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、
今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようとは思わなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。
俺が、梅津総長と刺し違えれば、なにか別の途が開けるかも知れないと思って、
総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。 俺はまた死に損なった 」
と いってボロボロ涙を流している。
その純粋さには思わず頭が下がった。
基本的な考え方や手段方法についてはそれぞれ異なるであろうが、
この日本の重大な難局にあたって 祖国のために死に場所を得ようと決心することは得難いことでもあり、
尊いことでもある。
・・・・
彼はしかし 二・二六事件にも 連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二 ・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・黒崎貞明著の恋闕

上記の松浦少佐は

末松太平著 私の昭和史
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
の、松浦邁少尉と一致する