森伝 宛
昭和10年10月12日
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拝啓 益々御活躍の御事ならむと奉慶賀候。
九州の片隅にも秋は音づれ、殊に臨海谷間の官舎の獨居には明月一しほ靜寂を覺え申候。
大演習前にて何かと引張り出されて落着き讀書の暇も多からず、
中央の様子は時折りの通信の外、主として新聞に依り推察判斷罷在候。
大演習の際は色々の方々に拝眉出來るかと存居候得共、
尚ほ年末年始は休暇上京致度、其際は拝眉御指導仰げることゝ楽み居候。
川島閣下御就任以來 漸次機關説思想の省内幕僚の更迭も行はれ頼もしく存居候。
唯十一月廿日事件の陰謀組の馘首は出來ざるものかと西海にて實狀に通ぜざるまゝに念じ居候。
又 機關説問題に就ても鞏硬に御進み被下候段感謝罷在候。
此上共々閣下の國體に關する御理解と信念とを益々堅くせられ、
一路邁進せらるゝ様 御輔佐 呉々も奉祈候。
第六師管に於ても國體明徴問題は仲々旺にて、
小生の如きも來る廿日 大分市 及 大分郡兩軍人聯合分會の大會に國體公演をと せがまれ、
若し師團長 及 都崎少將來らざる場合は是非なしと引受け申候次第に御坐候。
大分市は後藤内相の生地、その他県下は政爭も激敷所なれば述べる事も愼重に致す心得に御坐候。
早稲田には別紙の如き一石を投じ候得共、まひせる教職員聯にはさしたる反響もなきかと存居候。
別紙印刷物少き爲 學生の多くに撒布出來ざりしは残念に存居候。
早大日本主義學會の學生聯は幾分動くかと存居候。
川島將軍始め在京將軍方には反て御迷惑相懸け候事を恐れて愚翰差上ぐる事差控へ居候。
別封御一覧の上 川島閣下に差上度願上候。
擱筆せんとして東の窓を開ければ、八月十五夜の明月、
港の彼方早吸女神社の山のはを登り、
隈なく照らすを見れば凡夫の焦慮恥かしき感致しそうです。
御令室始め表の方各位にも宜敷願上候。
横浜の留守宅何かと御世話に相成り居候事と存候。
何卒宜敷願上候。 敬具
十月十二日 平野助九郎
森傳様
尊台下
〔 註 〕 巻紙墨書。
封筒表 「 東京市淀橋区諏訪町一四八 森傳様 親展 書留 」
裏 「 大分県佐賀ノ関町陸軍官舎 平野助九郎 十二日夜 」