あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

永田鐵山 『 噫 軍神 林聯隊長 』

2016年11月11日 10時02分23秒 | 林八郎


噫 軍神  林聯隊長    序文
永田鐵山
満蒙通の国法的権威として惜しまれ、不世出の名聯隊長として仰がれた
故林君の一周忌に接し、
その麾下きかたりし将校団が、君の伝記を編纂せらるるに方あたり、
君の同期生として、幼時から寝食を共にし喜憂を領けた予に、
その序を求められたのは、予の光栄とし感激に堪えない所である。
林君は、その父祖から継承した伝統の武士気質かたぎを多分に持っておった上に、
自己の修養と家庭の訓化によって、それが益々拡充されたのであって、
軍神として万人渇仰の的となったのは決して偶然ではない。
君は小兵であったが、五尺の短身、尽ことごとくこれ胆であった。
恬淡てんたんで磊落らいらくで、剛毅で、運動好きであった。
角力すもうの強いことは同期生随一で、
東京地方幼年学校の柔道場で常に我々の稽古台となった。
大弓も、厳父の嗜たしなみを承けて優秀な技倆を具そなえておられた。
手裏剣なども中々の妙手だった。
その他の武技においても人なみ優れていたが、余り多くの人に知られていない。
けだし内に蔵すること深く、しかも外之を誇らない人と為りの致すところである。
強い反面において君はまた実に情味の豊かな温かいところがあった。
従って交友まことに深いものがあった。
君の戦死を聞いて、御遺族のもとに集った弔電弔辞の中には、
単に一面の識しかない人や、秋季演習の宿舎になった人からのが少なくなかった。
一寸でも君に接した人が、如何に君に懐かしみを感じていたかが判るであろう。
君を慕う者は決して日本人ばかりではなかった。
支那人の中にも、親兄弟を失った様な親身な弔辞を送ってくる者が少なくなかった。
君は弱冠にして大陸に志があった。
地方幼年学校入学とともに露語を習ったのでも明かである。
また早くから満蒙の研究に意を注ぎ、その一生を通じ、
大陸国策の樹立に貢献されたところは実に偉大なものがある。
今日皇軍が満州に赫々かくかくたる勲業を建て、
東亜の一角に王道楽土が建設されつつある裏面に、
君の隠れたる功績と努力とは真に莫大なるものがある。
君の軍人生活の大部分は、実に存外情報勤務であって、
死線を越えたことも幾度であったかも知れない。
この間、国事のために家庭の如き之を顧みるに暇がなかった。
文字通り君国のために一身一家を犠牲としたものである。
この聯隊長を父と慕い、将と仰いで、中支江南の地に奮戦された聯隊は実に幸福であったと信ずる。
その戦闘開始の前夜における訓示を見ても、君の平素の修養が窺うかがわれ、
その徹底した心境は、正に禅の高僧を偲ばせるものがある。
敵前線突破の端緒を拓ひらいた江湾鎮堅壘の攻略は、
この隊長のもとに、勇んで死に就いた幾多勇士の力であったが、
部下を駆って悦んで弾雨の中に突進せしめたのは、君の人格そのものでなくて何であろう。
嗚呼、去年の今日、君は最後の命令 「 前進 」 の一語を残し、
莞爾として死に就いたのである。
国家の君に期待するところはまだまだ多く残されていた。
万人斉ひとしく君の昇天を痛哭つうこくした。
しかしながら天晴あっぱれ江南の花と散った君の気魄は、
きびすを接すべきを信じて疑わない。
一言にしていえば、君は実に文武両道に通じ、恩威ならび備えた武将の典型である。
君の命日は実に満洲國の誕生日である。
天為とでも言うべきであろう。
永年母国を離れ家庭と別れて、或は息も凍る西比利亜シベリアに、
或は朔風黄塵を捲く蒙古の奥に、危難を冒おかし、艱苦かんくを忍んで尽された努力、
今や酬いられて、満洲國の勇ましい呱々ここの声を聞きながら、
君は莞爾として地下に安らかに眠るであろう。


小林友一 著  同期の雪 から


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