日々遊行

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ゴッホ展 こうして私はゴッホになった

2010-12-19 | 絵画

Goghten
フィンセント・ファン・ゴッホ。
世界的に名声を得たこの画家の名前は今やあまりにも大きい。
国立新劇場で明日終わる「ゴッホ展」では、多くの絵画により画家・ゴッホになった過程を解明した興味深い展示会であった。

独学で絵を学んだゴッホは、自分だけしか描けない絵を、と常に自分に問いかけていた。 
そんな彼が愛した画家は「晩鐘」などで有名なバルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレーであった。
ミレーの絵には人が働く真実が描かれていると信じたゴッホはミレーの絵が師となり
ヒントとなった働く人間の姿を模写して多くのデッサンを残した。

試行錯誤を繰り返しながらデッサンの訓練に没頭するゴッホは
絵画に関する画材、技法、色彩論などを研究したが、特にミレーによる「掘る人」からは
何枚もデッサンしている。
そして自らが描いた「じゃがいもを食べる人々」に、労働によって糧を得た人々を力強く表現した。

また、歌川広重の浮世絵はゴッホの心を大きく動かした。
広重の「東海道五十三次」などを見ると構図が非常に大胆である。ゴッホはその大胆さと、自分には明るい太陽が必要だと感じ、
アルルへと移った。
会場には黄色い家に住んだゴッホの部屋が再現されている。

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ゴッホが描いた「ゴーギャンの椅子」

扉を隔てた隣はポール・ゴーギャンの部屋であった。ユートピアであるはずのアルルの生活を
夢みていたゴッホを思うとやはりこの絵には胸がつまる。

印象派から影響を受け、明るい色彩で描いた花の絵には安堵のような気持ちをおぼえた。
そして上のチラシの写真にもある帽子をかぶった「自画像」。
ゴッホが生存中に売れた絵はたった1枚、「赤いブドウ畑」(1888年)だけである。
当時のそんな状況から時は流れ
この自画像が持つ偉大さは彼自身が描いた時と大きな違いで迫ってくるのだ。

アルルの悲劇のあとに移ったサン=レミ療養院でも絵に対する情熱は変わらず
光あふれる庭や植物を静かに描いている。
ゴッホと密接に関係する杉の絵はあまり展示されていなかったが、画家として歩きはじめ、ゴッホになるまでの
壮絶な生涯を思えば、その一部分としてゴッホを知ることができる。

1980年7月、ゴッホ亡きあと弟テオの家に残されたゴッホの絵は1000点以上だったという。
その絵が売れるまでにはあと20年の歳月を必要とした。
収入のないゴッホに最後まで経済的・精神的に支えた続けた弟テオを抜きに、画家ゴッホの存在はあり得ない。 
テオはゴッホを追うように半年後に亡くなるが、妻ヨハンナの尽力により絵は保管され、夫テオの墓をゴッホの横に添わせてあげた。


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