山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

大我と小我

2007-01-18 01:29:38 | 未分類過去
さっき、「オーラの泉」を見ていた。
この番組は、わざわざ放送時間を覚えているわけではないが、夜遅くテレビをつけるとやっていることが多く、興味のあるゲストの場合は見ることが多い。
今日は、「劇団ひとり」だったので見ることにした。

そこで、出た話の中で、「大我と少我」というのがあった。
「小我」は自己中心的な小さい自分を中心とした考え方であり、「大我」は狭い範囲の自分ではなく、周囲の益を考えての自分というか、他人も含めての自分、周囲の人に愛をもっての自分というようなものらしい。

この言葉は初めて聞く言葉だったが、辞書を調べると載っていた。
小我=自分一人にとらわれた狭い我。利己的な立場の主体性。
大我=利己的な立場を克服し、より広く公共的な立場をとる主体性。
とある。

物事を見るときには「小我」ではなく「大我」の精神でいかなくてはならない、と江原さんが言っていた。

私自身、とかく「小我」になっていることが多いと思い、「大我」にならなくてはと思った。
「小我」っていうのは、結局、自分のことばかりを考えている器が小さい人間だ。
自分が人からよく思われたいとか、高く評価してもらいたいというような気持ちで物事を一生懸命やっても、それは良いものとはいえない。仕事でも会社や周囲の人の益になることを第一に考えるべきだ。

それから、美輪さんが言っていたことで印象に残ったのは、「自分を改善する時に感情を廃して理性で対処することが必要だ」というのだった。
感情で怒ったり悩んだりしていては悶々とするばかりで、出口がない。そういうときには、感情を捨て、どういう解決方法があるかを客観的に考え、それを行動に移す。意識的に自分を一旦機械のようにしてしまうのだ。
感情を廃してしまうなんてちょっと妙な気がするが、確かにそれはいい方法だと思った。
そういうのは、本当に心が病むようなことにぶち当たり、それを乗り越えた経験がある人だからこそ、習得した方法であり、説得力がある。感情を廃しなかったら鬱状態になったり自殺してしまったりしてしまうかもしれない。また、逆に愚痴をこぼしたり甘えたりして前進することができないこともある。前進することを妨げるような感情は除外する必要がある。
そういう感情にとらわれることも「小我」なんだろう。

そして、やたら明るく悩まずに前進するのが「ポジティブ」であり、深く考え落ち込んだりするのが「ネガティブ」という捕らえ方はまちがっているのだそうだ。
問題があるのにそれを見つめようともせず楽しくやって行くのはポジティブではなく、ただのバカである。
深く考え落ち込んだ末に改善策を考えて前進していくことがむしろポジティブといえる、と江原さんが言っていた。

そういう姿勢にも「大我」の精神が大切なのではないだろうか。
客観的な視野をもちつつ自分の主体性を持って前進していきたいものだ。

この番組は、いろいろと生き方を導いてくれるが、そのほかにも人間個人に影響を及ぼす科学では解明できない神秘的な力の働きを感じ、魅力がある。

オーラや守護霊、前世といったものが実在するかどうかは証明できないが、少なくともその人間の特質をそういうものであらわすことができると言える。そうしたら、私自身にはどんなものが見えるのだろうか。

ひとりの人間は純粋にその独立したひとりから成っているのではなく、歴史の中の存在であり、多くの人の魂や人間には見えない存在の様々な精神の影響を受けた複合物なのだろう。
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見えるかな?

2007-01-16 23:37:58 | 未分類過去
お正月に田舎に帰ったときの富士山。
これを撮る1時間くらい前はくっきりと見えていたのに、
ちょっとの間にこんなになってしまいました。
後ろの空の色と同化してしまい、かすかにしか見えません。
もっと早く撮ればよかったです。

うちのほうから見ると、宝永火口(?)が正面になります。

春にはもっと富士に近いところに行って、裾野の広がる富士山がみたいです。
静岡のほうに行って石垣苺なんかも食べてみたいなあと思っています。
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放送教材の重要性

2007-01-15 23:54:48 | 放送大学
先週の木曜日と昨日日曜日に放送大学の学習センターに行って「芸術の理論と歴史」のテレビ放送第7回から第15回を視聴した。試験前にこの科目だけは何としても見ておこうというのが新年早々の目標だったので、達成できてほっとした。
そして、この授業はすばらしかった。

まったく恥ずかしい話であるが、この6年間、私は放送教材を3回以上見たという科目は今までひとつとしてなかった。放送時間に合わせてテレビを見るということができないずぼらな性格だし、予約録画する方法もわからないのだ。それで、いつも試験直前になって初めて教科書を一夜漬けで読むというだけの勉強方法をしていた。当然のことながら半分くらいは単位を落としているし、単位をとったところで、ぎりぎりの成績のものも多かった。

「芸術の理論と歴史」も同様にして前回は不合格となった。
とにかく芸術作品を映像で見なければまるで記憶に残らないのだ。教科書の内容が2割アタマに残ればいいほうである。
でも、今回、放送授業を見たら、8割くらいは記憶に残っているような気がするし、なによりもポイントが整理されたと思う。
これで、単位を落としたらばバカではなかろうかと思うほどだ。
ちゃんと放送を見れば普通に単位が取れるものを、今までいかに愚かなことをしてきたかと思う。貴重な授業を利用しなかったなんて、ほんとうに勿体無い話だ。

いやあ、それにしても、本当に青山先生の授業はすばらしいです!!!

今回なんとか頑張って人間の探究コースを卒業するつもりだが、卒業するのがもったいないくらい、今からでもまじめにもう一回勉強しなおしたい気分だ。
もし、卒業できなかったら、当然ながら同じコースに入りなおして未履修の科目を取るとともに、来年の卒業研究などもしっかりとりたい気分である。でも、やはり大卒の学歴がほしいので、卒業することを優先にする。

今回取っているテレビ科目で、他にも見ていないものがいくつかあるが、もはや間に合わない。試験前は学習センターでひとり2本しか視聴できないそうだから、往復の所要時間のほうが長くなってしまう。それでは時間効率が悪すぎる。

「文化人類学」は11回まで見たので、それだけは最後まで見たいなと思う。
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ゲゲッ!!!

2007-01-14 23:59:10 | 未分類過去
今日、パン屋さんに行った。
そのパン屋さんは、パンばさみでパンを挟み、自分でトレーに乗せてレジに持っていくお店だった。
レジに並んでいて、ふと前に並んでいる人の足元にいる2歳くらいの女の子を見ると、な、なんと、お店のパンばさみを加えてべろべろなめていた。
ひえ~っ! だめだよ、なめちゃ。お母さん大変なことしてますよ。早くやめさせて!
と思ったのだが、母親はそれを知っていて何食わぬ顔でレジを済ませていた。
親は親でトレーの上に別のパンばさみを載せている。
そして、会計を済ませるまでそのままにしていた。
女の子がそれを持ったまま出口に向かおうとすると、「それはそっちじゃなくて、こっちよ」と言って、レジの台に何食わぬ顔で置いた。
店員さんは、なめたものとも知らず、後でおかれたパンばさみを無造作に後方にある他の使用済みパンばさみの掛かっているところに投げるようにかけてしまった。
わっ、なめたのが混じっちゃった!!!

私の番は隣のレジに回ってきた。
「あのう、あれは洗うんですか?」といっぱい掛かっているパンばさみを指差して聞いてみた。
「そうです。」と店員さんは何食わぬ顔で答えた。
「そうですか。小さいお子さんがなめていたものですから」
店員さんはそれには答えず、驚きもせず、普通にレジを済ませた。

本当に洗ってくれるんだろうな。
私はあれはきれいなパンをはさむのに使うだけのものだから、ぐるぐる回しているだけだと思っていた。
でも、パンをはさんだ時に、砂糖がついたのなんかもあるから、やはりちゃんと洗うものなのかな。
でも、子供の唾液はちゃんとおちるのかな?

なんか、そういうお店でパンを買うのがいやになってしまった。
子供がくわえてなめまわすなんて想定外だ。

それにしても、子どもにそういうことさせていいのかあ。
あの子は、何歳になったら、やっていいことといけないことを判断できるようになるんだろう。
子犬でさえ生まれたときからいけないことはいけないとしつけるもんじゃないだろうか。
あんな風に育てられた子が、自分のやりたいことを自由にやって大きくなって、成人式の祝辞の最中にステージに上がって妨害行為をしたりしてしまうんじゃないのか?
最近、ハンバーガーの店のテーブルにコンセントがついて携帯の充電やパソコンなどに使えるようなサービスをしているそうだが、そこでドライヤーを使って髪の毛をセットする女の子なんかがいるらしい。その後は床が髪の毛だらけだとか。不潔!それは店のほうでも想定外だったはずだ。飲食店にとっては致命的だ。
今日の子も、大きくなったらきっとそんなことも平気でするんじゃなかろうか。

パンばさみは本当に洗うから支障はないのかもしれない。それで、店の人は注意することでもないと思っているのかもしれない。
お客様に対しては確かに言いにくいだろう。お子様にそういうことはさせないでくれといったら、母親に感じが悪い店だと言いふらされてお客が減るかもしれないと思うかもしれない。でも、他のお客さんのためを思えば、店は言うべきことを言ってもいいんじゃないだろうか。現に私は今後その店でパンを買う気がなくなってしまった。
その子供づれが常連だったら、子供の唾液のついたパンばさみでパンをはさんでいるんじゃないかという疑念が消えないからだ。
パンばさみを念入りに洗っているところでも見ない限りは納得できない。
そして、そういう形式の店では、他にもそういうお客がいないとも限らないわけだ。

店の側からは言えないのであれば、世の中のためには、お客の私がその母親に忠告すればよかったのかもしれない。
いや、忠告するべきだったのかもしれない。
自分自身が口うるさいババアにならなくては、結局世の中は改善されないのかもしれない。
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エッセイストになるためには

2007-01-13 21:00:29 | 未分類過去
エッセイってのは、気楽に書けるもんだと思います。
その辺に売っているエッセイの本でも、そんなたいしたことが書いてあるわけじゃありません。じゃあ、なんで本になって売れているのかというと、そのエッセイがすばらしいわけではなく、そのエッセイはその人物の業績に付随したものだからだと思います。
何かの分野で重要な働きをしている人のエッセイだから、人はそれを読もうとします。
その人がどういうことを考えているのかというのも大きな興味です。
何の肩書きも職業もなく、ただのエッセイストっていうのは、滅多にいないのではないでしょうか?
何かの職業を極めている人、その人のエッセイだから価値があるのですね。

テレビ番組のトークショーで、たわいのないことをしゃべっていても、そのひとは「何者」かであるから、価値があります。クイズ番組でもバラエティーでも同様です。
そこに、一般人を持ってきてもだめです。その人たちは特別な意味のあることをしたり話したり見せたりするわけではなくても、何か別のことで、「プロ」であることが重要です。

なにかのことで一端の「プロ」であることが、その人間の「器」であるからです。
「器」がない人間は価値がありません。

テレビのコメンテーターは「女優」であり「弁護士」であり「医者」であり「大学教授」であったりします。主婦のコメンテーターなどはいません。

「評論家」は書いたりしゃべったりしますが、ある専門分野について研究し論じる人です。まずは、「研究」が重要です。
「記者」も書きますが、まずは取材しテーマを追求することが重要です。

ペン一本で食べていくプロの代表といえば、「小説家」です。
小説家には資格は必要ありません。実力さえあれば認められます。
でも、小説はエッセイのようにはいきません。誰にも書けるようなものではありません。
小説家にはエッセイが書けますが、エッセイストに小説が書けるわけではない。構想がわかないのです。小説はストーリーの展開も描写もエッセイの比ではありません。

文章のプロになりたければ小説家をめざします。
私はいくつかの小説の構想を持っています。しかし、それは個人の経験に基づいたもので、登場人物は今現在この世に存在する人々であり、その内容は驚くに値するもので、とても世の中に公表できるようなものではありません。
事実を変形しデフォルメしないと面白い小説にはなりませんが、そんなことをすると、私自身が変態か狂気の人間だと思われるかもしれません。そんな勇気はありません。
また、実在の人物や法人をそのままに描くことも脚色して描くことも、当人たち、あるいはその集団・組織にとって迷惑となります。
必ずモデルは何かという話になるからです。
私は、その人たちに抹殺されるかもしれないという恐怖さえ抱きます。

私は心の隅に様々な材料を蓄積していますが、実在から得たその素材を使うわけにはいかないだろうと思っています。
しかし、まったく実在しない物事を構想し作り出す力は私にはありません。
だから、小説を書くことは私にとってかなり難しいことだと思います。


何かのプロでなければ「エッセイスト」にはなれない。
まず、エッセイ以外の業績が必要です。
エッセイストというのは本来そういうものだと思っています。
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責任は先祖に

2007-01-13 19:58:57 | 未分類過去
うちの高校生の次女は、肝心なときに家にいない。
クリスマス・大晦日・当人の誕生日、すべて、家族ではなく友人といっしょに過ごしている。その友人というのは中学のときの同級生で、似たり寄ったりの家庭環境・経済状況・アタマの程度、つまり同じ穴のムジナみたいな者たちである。別に不良行為をしているわけでもないので、本人のしたいようにさせている。誕生日も家族はプレゼントなど用意しないが友人が用意してくれた。
本人がハンバーグが好きなので、誕生日にはおいしい手作りハンバーグでも作ってやろうと思っていたら、私が眼精疲労でダウンしてしまい、ハンバーグどころではなくなった。ちょうど当人も帰宅しないのでいつものバイトだと思っていたら、ファミレスで友人と誕生日を祝っていたそうだ。自分の誕生日にバイトなんか入れるわけがないだろうと言うが、家族と過ごそうという気はないのか、この娘は。
でもご馳走も作れない状況だったのでちょうどよかった。それで、ハンバーグは翌日作ったのだが当人はバイトで留守で、翌々日の朝ごはんになってしまった。ケーキも買ってあったが、家族がそろわないのでそれぞれに食べた。どうしようもない家庭だ。

それで、バイトはいいかげんにしろ、あまり働くな、たまには家にいろ、という話になった。だいたい娘がバイトをすると買い食が多くなる。私が会社から戻る前に娘がバイトに出かけ、その前に腹ごしらえなどするためだ。だからと言って、娘のために食べ物を用意しておくほど私はマメではない。
娘はバイトでじゃんじゃん稼ぎ、貯金しているが、週に何千円も食費にかかった経費をレシートを添えて請求してくる。なんか、変じゃないか?娘が毎日働けば働くほど、私が娘にお金をわたさなきゃならないのだ。でも、考えたら確かに、1日500円にしたって7日で3500円になるわけだ。実際にはお菓子だの飲料だの雑貨だので1日当たり500円なんかではおさまらない。週に5000円くらい払っている。

それで、バイトなんかやめちまえと言ったら、親のせいでバイトをしなければならない境遇にあるのだとぬかす。今のうちに溜め込んで置かないと専門学校に行ってからはバイトができないという。親のように貧乏にはなりたくないのだそうだ。親の二の舞になりたくないから、お金を稼げるときに稼げるだけ稼ぐのだそうだ。そういうわけで、親がバイトをするななどと指図するのはお門違いなのだそうだ。すべての原因は親にあるそうだ。

それで、その話から、なんで我が家、つまり私たち夫婦が貧乏なのかという話しになり、個人的な頑張りが足りないだけではなく、そもそも生まれ育った家が貧乏だったからそれが尾を引いているのだという話になった。さらにそれはその親も貧乏だったからである。
だから、代々教育費もかけられないし、資本もないし、援助もなしに来ている。つまり土台となる財産がないから、どの代もゼロからの出発なのだ。それで、娘たちもまたゼロからの出発で、結婚するとか言っても持参金なんかは持たせられないし、家を買うと言っても頭金を援助することもできないのは当然だが、今現在も娘たちに十分な金銭をかけることもできないのだ。

先祖が悪いんだから、私たちに文句を言うなと夫と一緒になって先祖のせいにしておいた。
先祖がアタマが悪かったか、要領が悪かったか、怠け者だったか、とにかく財産を築かなかったってわけだ。
私たちに言っても私たちは被害者なんだ、私たちになんの責任もない、江戸時代の先祖に文句を言え~!
と久しぶりに夫と意見が一致した。

(ご先祖様、申し訳ありません。私たちが元気に暮らしているのはご先祖様から丈夫な体を受け継いでいるからです。一応そのことを充分感謝しろと娘にも言っておきました!)
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今一番欲しいけど、今は買えないもの

2007-01-13 00:59:44 | トラックバック練習・ご意見板
「家」

やっぱり家だ。

今、一番欲しいのは、家族そろって暮らせる家だ。

買えなくてもいい、借りるだけでもいい。
70㎡くらいあればすばらしい。65㎡でもいいよ。
いや、55㎡でもあれば上々だ。
でも、今の経済状態では借りることもできない。
39㎡の公営住宅+6畳1間の民間アパートに分散して住んでいる。
家賃は約1万7千円+6万円。光熱費が2倍かかるから、結構きつい。
しかし、民間を借りたら13万くらいかかる。
だから、この公営住宅から出て行くわけにはいかない。
ネズミが出入しようが風呂場にワラジムシが居ようが、天井が割れていようが、水が赤錆で濁っていようが、東京で暮らしていくためには仕方がない。

3DKで7万くらいの公営住宅に住んでいる人たちは最高だ。
でも、今現在すでに公営住宅に入っていると、公営住宅に応募するとはできない。
もうちょっと格の高い公社住宅、都民住宅は高くて無理だ。
民間はもっと高い。
ひとり当たり2畳以下なら、今の種類でもっと広いところに移動できるそうだが、それは、トイレも台所も入れた面積だから、該当しない。

家族4人分の布団が敷けないから、暮れも正月も1年中家族揃って寝ることはできない。
田舎から上京している大学生は冬休みは実家に帰るが、うちの娘は帰って来られない。
夜は自分のアパートに帰る。夫が夜勤のときだけは、娘が家で寝ることができる。

テーブルセットを買うお金もあるし、ベッドを買うお金もある。
オーブンつきのガステーブルを買うお金もある。
大型のテレビを買うお金もある。
でも、それを置けるような住まいが無いんだ。
だから、どんなにお安くしてくれたって、問題外なんだ。

そういうものを置けるような普通の住宅を買うお金、
または、人並みの住まいを借りて維持していくお金、が無い。

家は今は当然買えないが、将来なら買えるのか?
・・・その見込みも薄い

     

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自分の居場所

2007-01-12 01:32:06 | 未分類過去
2日仕事をして1日休み、明日また1日仕事をしたら、2日休みだ。
まだ、なんとなく正月の休み癖が直らず、体もアタマも常に「働きたくないなあ」という傾向にある。
自分の家に居たい、布団の中がなおよい、という気分だ。

日本語教師をしていたころ、同僚などもよく言っていたが、休み明けの授業はなぜか緊張した。
やはり、休み中にリラックスしすぎていて、物事に臨む緊張感を回復するためのエネルギーの必要性を実感するわけだった。
授業の準備に明け暮れる覚悟を決め、失敗の許されない毎日をこなしていくことの連続が始まる。
今思うと、同僚や学生に対するはったりも常に必要だったから、いつもある程度の緊張感に身をおくのが普通の状況だった。
教壇に立つことは、1つのステージに立つことでもあった。
その緊張は当時は一種の快感でもあったが、そのための準備にとりかかるところからそこに至るまでアドレナリンの分泌が必要なものだと感じた。

しかし、今の仕事は準備もいらないし、人前にさらされるというようなことはないから、休み明けに特別な注意や覚悟などはいらないし、それほどの緊張感が起きるはずがないと思っていた。
でも、なぜか今回、この仕事についてからいまだかつてない緊張感が起きていて、それがなぜなのか判らない状況だ。

もう2年たった。だから、それなりの仕事をしなくてはいけないという気持ちもある。だから、下手な見落としやミスが怖い。
メールの打ち方などという簡単な作業もビジネス文書などの経験がないので、怖い。パソコン操作ももっと高度な方法を知っていれば作業の仕方が違うのかもしれないとも思うと、自分の未熟さがこわい。

居心地の良い慣れた職場のはずなのに、なんとなく緊張してしまうこのごろだ。

ここが「自分の居場所」のはずなんだけどなあ、と思う。

正月休みで、自分の居場所が「会社」ではなく「自宅」になってしまったので、楽なほうへ楽なほうへと進んでしまったのであろう。
人はそうやってニートになってしまったりするのかもしれない。

もとにもどさなくては!

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う~ん、ガンダムか・・・

2007-01-11 01:01:23 | 未分類過去
中年男性でガンダムみたいなもんに惚れ込んでいる人って、やっぱり妙ですよね。
電車男みたいな趣味なのかなあ。
その人の部屋には、合体ロボットみたいなもんとか、フィギュアとか、いっぱい並んでいるのかなあ?

いや、毎年年賀状がそういう図案の人がいるんです。
でも、家に子供がいるとかじゃなくて、独身だそうです。

普通、男の子が女の子に年賀状を出すときでも、女の子が好きそうな図案を選ぶんじゃないんでしょうか?
いくら自分がそういうものが好きでも、それは別にして、大人の常識的な図案を使うんじゃないのかな?

しかし、そこまで歯止めがきかないほど、ガンダムが好きなんだ。
どうしても、その図案を使いたいんだ、きっと。

年賀状に、自分がかわいがっている子供の写真、ペットの写真を載せる人はいるけど、
毎年、ガンダムを載せるってのはめずらしいんじゃないでしょうか?

やっぱ、ちょっと引いてしまいますね。
そんな年賀状をいただいたら、電車男のエルメスさんみたいにはなれないでしょうね。
どんないい人でも、結婚する勇気はでないだろうな。

年始の挨拶というよりも、「ボクのガンダムを見て!」って感じですね。
知られざる一面を知ってしまった・・・

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回復

2007-01-10 23:55:27 | 未分類過去
昨日の不調はすっかり回復しました。

しばらくぶりに仕事で目を使いすぎたと思っていたのですが、ひどい凝りのみならず、なんだか寒気もするし、今朝になっても肩から上のこわばりは治りません。そういえば鼻も詰っているかんじ。会社に行くとき自転車をこぐと、足までだるく筋肉痛のようです。普通じゃありません。これはどうも風邪のひき始めのようでした。

昨夜寝る時に葛根湯を飲み、今日の午前中も飲んだところ、午後には凝りも寒気もなくなり、元気になってきました。

葛根湯はほんとうによく効きます。
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夕張成人式のニュースから

2007-01-08 23:46:07 | 未分類過去
夕張市の成人式の話題が放送されていた。
いつも60万円出る補助金が1万円しか出ないということで、自分たちのお金や地域や全国からの寄付金を集め、自分たちの手作りで成人式を行ったという話である。
お膳立てされた成人式に出席し、感謝の念もなく馬鹿な振る舞いをする人間が現われたような、とある自治体の成人式に比べたら、どんなにすばらしいことであろうか。
お金がないほうが人間は健全に育つんじゃないかと思うくらいである。

しかし、この夕張の美談に少々水をさすようだが、あまりにも各テレビ局で賛辞されて放送されたのがいやな気がした。
その辺は、私が「あまのじゃく」であるからでもあるのだが、実行委員は6人いるのに、そのうちの1人のかわいい顔をした女の子で以前泣いて市役所の人に食ってかかっていた子をクローズアップしすぎているように思った。あの子が責任者なのかな。でもあれだけテレビ画面に取り上げられるのは絵になるからかなあなどと思うのはひねくれているのだろうか。あのように全国に紹介されたら、苦労がサマになり、やり甲斐もあるだろう。本人にそんな気はなくても、テレビであまりに英雄のように放送されてはそのようにも受け取られかねない。他にも頑張った人がいるはずだが、あまりにもひとりに焦点を当てすぎているように思えた。

それから、疑問があるのであるが、夕張では毎年新成人にお金を渡して、新成人が中心になって企画などし、成人式が行なわれているのだろうか?そういうやりかたは珍しいのではなかろうか?
なんかテレビを見ていたら、「成人祭」の補助金がないということで、テーブルを囲んで飲んだり食べたりする新成人の懇親会のようなものが映っていて、ペットボトルやお菓子が並んでいたが、それは今年に限ってそういう形式になっているのだろうか?今までは式典のあとにもっと盛大なパーティーなどがあったのだろうか。

普通どこの自治体でも成人式は式典のみで飲食物などが出ることはないと思うし、ある程度の式の進行は新成人ではなく、役所の人などが決めていると思うのだが、そういうのはいくら財政が破綻したとはいえ、役所の人たちの職務でありそれらは予算とは関係ないのではなかろうか?
予算がなければプロの音楽などのパフォーマンスはできないとは思うが、成人を祝うボランティアくらいは募れるはずである。
会場の光熱費なども出せず、全面的に麻痺状態ということなのだろうか?新成人に対して式典も行わず、市が新成人の実行委員に1万円札1枚のみを渡して、勝手にやれといったような、冷酷無残な仕打ちをしているというふうに放送からは受け取れたのだが、ほんとうにそういうことなんだろうか?情けない公務員と勇敢な若者という絵に描いたような対照的な姿である。

毎年新成人が中心になっていて、役所は補助金を渡すだけという形式だったから、お金のない今年はそんなことになってなってしまったのだろうか。
それとも、今年に限って市役所の人は成人式どころの状況ではなく、別のことに必死にならなければならず、1万円だけ渡して終りにするという行動をとろうとしたのであろうか?

もしかして、普通の自治体の成人式って祝辞にくる偉い人を接待したりするのにもお金がかかっているのかな?だから、大人が企画したら予算がなければできないということなのだろうか?

なんか、その辺が夕張に限らず、全国各地の「成人式」のしくみについてよくわからなくなってきた。成人式というのは市の予算や仕事そのものではなく、補助金という形で協力されるものなのかな?普通、どうなっているんだろう。

まあ、いずれにしても逆境にあって燃えるものを見つけ、打ち込んで、成功を収めることができたことは、夕張の若者にとっていい経験だったと思う。
逆境もなく、打ち込む対象もなく、エネルギーの持って行きどころもなく、どこにいても花形になることのできない若者が、成人式のステージに上って傍若無人な振る舞いを起こし逮捕されたりしてしまうことも起きているのだろう。
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世界最高齢出産ニュースより

2007-01-08 21:06:40 | 未分類過去
2006年12月30日にスペインのバルセロナで67才の女性が双子の赤ちゃんを出産したというニュースがあった。

これを知った時に、すぐ思い出したのが、聖書の中の話で、エリサベツという高齢のおばあさんが子供を産んだ話だった。
この人はザカリヤという人の妻であり、イエスの母マリアの親戚らしいが、若い頃から子供ができないまま年をとってしまった人だった。それが、あるとき夫ザカリヤに妻が妊娠するという天のみ使いからのお告げがあった。夫は信じられなかったが、それが事実となった。そしてその時期と一致してマリアは処女でありながら受胎しイエスを妊娠した。エリサベツの産んだ子供は人々にバプテスマ(浸礼)を施すヨハネであるが、イエスも大人になってヨハネからバプテスマを受けた。

この聖書の中で、すでに子宮の機能がおとろえ果てたおばあさんが、神からのお告げによって子供を産むというのは、神は人間のわざではけっしてできないようなことを成就させる力があるということを物語っている。
そのことと、一見反するようではあるが、聖書は非常に科学的な書物であり、自然科学に反する絵空事や嘘も書かれていないということも聞いたことがあった。

それで、現代においては、人間のわざでも67才もの女性が本当に子供を産むということができるのだと驚いた。(2005年1月にもルーマニアで66才の女性が出産しているそうだ。)
このことから、大昔におばあさんのエリサベツがヨハネを産んだというのも、けっして人間としてあり得ないことではないと認識した。
先日のスペインの話では、アメリカで人工授精したとのことであり、女性ホルモンの投与なども行われたのであろう。

このごろは、日本でも50代の祖母が娘の受精卵で代理出産するなどということもあり、産みの母親であり且つ祖母であるというような複雑な状況が起こっている。人間が科学技術によって自然をあやつって、以前にはありえないようなことを行うことも可能になった。
また、処女を妊娠させることも、神の子かはさておき、現代においては現実的に全く可能な話である。

それで、結局私自身何が言いたいというわけでもないが、
つぎつぎにありえないと思える現実が起こるのを見ていると、やはり聖書に書いてあるあり得ないようなこともあり得るのかと思えてくる。
聖書に載っている様々な奇跡、死んだ人が生き返ったり、水がぶどう酒になったりも可能なことかもしれない。
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今年こそは!

2007-01-08 00:23:19 | トラックバック練習・ご意見板
脱皮したい!

1 「貧乏」からの脱皮
2 「むさ苦しい住まい」からの脱皮
3 「馬鹿」からの脱皮

そのためには
1 無駄遣いを排除し、節約する。充分な対価が得られる活動をする。
2 常に掃除、整理整頓、手入れを心がけ 物の配置、デザインを工夫する。
3 常に賢い者はどのように行動するかを念頭に置き、そのように行動する。
  マイナス思考、愚痴、いいわけ、負け惜しみ、ひがみ根性、怠慢、を捨て去り、
  何事もプラスに向って勤勉に励むこと。
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初学習

2007-01-07 20:47:11 | 放送大学
今日は、放送大学の学習センターに行って勉強をしてきた。
子供がバイトで早く家を出て、ふと、朝から自由な時間があるなと思ったところ、そういえば、昨年から「芸術の理論と歴史」のビデオ教材を視聴しに行く予定を立てていたことを思い出した。正月ボケですっかり忘れていた。
1時間もかけて行くのは面倒くさいなあと思ったのだが、せっかく早く起きたので、思い切って行くことにした。

学習センターには10時すぎについて、午前中3本・午後3本(1~6回分)のビデオを見ることができた。2時頃になるとすごく人が増えて満席になり、空席を待つ人もいるような状況だったから、早く行ってよかった。

正月早々そんなに人がいるとは予測もしなかったが、日曜であるし、試験前に教材を視聴しなければと思うのは皆同じようだ。

「芸術の理論と歴史」は前回単位を落としているので、今度こそ合格しなければいけない。
放送を見ると、教科書を読むだけとは違って各段に判りやすかった。

後半もなんとか視聴しなくては。

(写真は、12月23日に撮影した公園のもみじです。もう落ちてしまったかな?
テンプレートをもみじにしたので、のせてみました。季節外れですが、このテンプレートは障子の向こうにウサギがいたので、気に入りました。)
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帰省

2007-01-06 23:55:25 | 未分類過去
4日の午後から今日の夜まで田舎に帰っていました。
携帯から更新しようと思っていたのですが、
すっかり忘れたというか、なかなか携帯に向かうような時がもてず、
ついに2日間も放置してしまいました。
故郷の家はとにかく寒くて、いつも居間に集っていたため、
自分だけの時間が持てない状況でした。
テレビは電波障害でNHKしか映らないし、
いろいろと文化も環境も違うので、
そこに同化するのは大変なことだと思いました。
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