山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

平等院鳳凰堂

2009-01-18 23:22:07 | 放送大学
宇治の平等院鳳凰堂は十円玉に描かれていて有名であるが、とても美しいということでも有名である。
この平等院鳳凰堂を中学の京都・奈良の修学旅行の時(30年以上前)に初めて行って見ることができた。
“ものすごく美しい”と聞いていたので、見たこともないほど美しいものだろうと期待して到着したところ、視界に入ってきた鳳凰堂は、色あせて古ぼけたものであり、どこがきれいなんだ?という第一印象を受け、正直がっかりした。

中学では修学旅行に行ったときのことを俳句に詠むという課題があった。1人10句くらい作って提出することとなった。クラスの係の者がその中からよさそうなものを選び、1人一句ずつの句を編集し、句集を印刷して配布した。

そのときの私の句は
《 思ったより 汚ったらしい 平等院 》 
というものだった。

これは、ちょっとふざけて、第一印象を素直に書いたものである。
しかし、「きたなったらしい」などという言葉はあまりにも平等院に対して失礼な表現である。
そんな一言で鳳凰堂を結論付けるべきものでないことは自分自身は十重承知していたのだ。にもかかわらず、10句も作らなくてはならないので、その中にふざけてこんなものまで入れて提出したところ、なんと、これが選ばれてしまったのだった。編集係は、単に面白いやという気分で選ぶに至ったのであろう。

この句はクラスのなかで受けていたようだが、みんなが真面目な句を載せているのに、私の句だけが季語も入らずなんとも、不真面目で品格のない句であり、自分としては後味がわるかった。

そのようなわけで、他に私が作った句はどんなものがあったのかはまるで記憶もなく、記録もないのであるが、この句だけは印刷物として残ってしまっており、今でも記憶に残ることとなった。

今、放送大学で日本美術史をとっている。この中に平等院鳳凰堂のことが書かれている。
平等院鳳凰堂は平安中期に藤原頼道が建てたものである。鳳凰堂は東を向いて建ち、周囲に池がある。平等院の特徴は実用性を離れて見た目を重視しているところにある。だから、内部は非常に使いにくい。中心の中堂から左右に翼廊が伸びているが、1階部分の高さに対して2階廊は高さがとても低く、そこは人間が立って歩くことさえできない高さとなっている。そのため、外観は足長のプロポーションとなって空中に浮かび上がるかのような軽快な美しさをかもしだしている。翼廊の上に楼閣があるが、これも内部が非常に狭く中に入ることもできない。中堂も外からは2階建てのように見えるが、実際には内部は1層である。屋根は大きく張り出すようにできているが、これも見た目の美しさのためである。
中堂には阿弥陀如来坐像が置かれているが、そこも非常に狭く、その中で阿弥陀を拝むことはできないようなスペースである。建物全体があたかも鳳凰が羽を広げているかのような形をしている。鳳凰堂は池の前方から眺めて観想することが目的になっており、その位置からの完璧な形の美しさを意図されたものである。
ということである。

なるほどと思う。
このようなことを、果たして就学旅行で誰かが説明をしてくれたのであろうか?もし、このような知識があればもう少し感じるものが違ったのではなかろうかと、今さらながら思った。私の第一印象は、形よりも色や材質の古さだったのである。色はあせているが、確かに形は完璧だと感じることができたはずだったのではなかろうか。
中の阿弥陀如来坐像についても、その特徴の説明などが聞ければ、もっと関心がもてたはずだと思った。

平等院、もう一度訪れてみたいものです。

 

思うこと

2009-01-18 14:10:51 | 日記

ふと気がつくと、放送大学の単位認定試験が1週間後に迫っていた。
いつものごとくさぼり続けているために、5科目の試験勉強は到底追いつきそうもない。
何かを捨てるしかないと開き直ってはいる。
だいたい、考えてみると、好きでもない勉強をしようとしているのだった。
じゃあ、どんな勉強なら情熱をもって取り組めるのかと思っても、特別何もないので、結局は同じことの繰り返しなのかもしれない。

理系の科目は苦手なので、すでに卒業した人間の探究コースの「日本美術史」をとってみたものの、自分はこんなものが本当に好きだったのかな?と思ったりした。
静的なもの、というか、芸術とか美術とか、こういうものを見たり知ったりしたところで、なんになるのだろうか?自分では楽しいと思っていたのだが、本当に自分はこんなものを見たり知識を得たりすることが好きなのだろうか?そして、あまりにも知識も浅すぎるし、今後もそういうものに精通していく時間も暇もないし、第一それほど好きじゃないんだから、それにのめりこめるわけもないんだ、と思ったりするのだった。

仏像や絵画やその他の美術品は、その時代その時代の特徴があって、そのような背景を知ることにより、さらに味わいがでてくる。そういうことを知っていると、今まで寺や博物館などで、国宝になっているものや展示物の前を素通りしていたような自分が、そこで足を止めて、なるほどここに特徴があるのか、などと感心したりすることができる。それはとても楽しいことである。しかし、だから何なの?という、どこか空しい気持ちがする。

自分にはきっと何かもっとするべきことがあるはずだ。
それは自分が単に楽しいと思うことでもないし、将来の収入につながるとか、そういうことでもない。

理系の勉強もなんだか急にヤル気をなくしているのだった。もともとそういう分野が好きではないし、いまさら仕事のためにそういう知識を得ようとして、多少なりともえられたとしたところで、そんなことはもともと仕事場で私に要求されていることではないのだから、基本的には意味がないことである。
自分では必要だと思ってやっていることでも、そんなことはする必要がないといわれてしまえば、それは無意味なことだと位置づけられるわけだ。

派遣や非正規社員でも愛社精神はあるし、仕事に対する情熱もあるはずだ。しかし、会社がただの単純な労働力としかみないのであれば、その人間の愛社精神や向上心というのは、むしろ会社にとって不都合なものとなるのだ。変に愛社精神や向上心があるものは切り捨てにくいからである。それは会社にとってうっとうしいものにさえなるだろう。
会社としては、会社の都合に合わせて、求めるだけの労働力を提供してくれればいいのであり、それ以上のことは要らないのである。となれば、会社の仕事に関して情熱を持つべきではなく、会社とはまるで関係のないところに情熱を向けなければいけないし、会社も自分もそのほうが都合がいいということになるだろう。

そんなことを考えるとアタマがおかしくなるので、考えないほうがいいそうである。
しかし、情熱を向けていたものが無意味であると気がついたなら、即刻理系のコースなんか選択するのをやめて、別のことを始めたほうがよいという結論になる。


不動産動向

2009-01-18 01:58:09 | 日記
といっても、賃貸住宅の状況のことだが、
不動産屋さんの話によると、今年は物件数が少ないそうである。
1月から3月くらいは、普通は住み替える人が多く、賃貸住宅は1ヶ月前に解約予告があるはずなので、2月に引越す家の物件はすでに情報が出てくる時期である。だから例年は貸家の物件情報がいっぱいでてくる。しかし、今年は例年と違って物件数が少ない、とのこと。

なぜならば、今年は、賃貸住宅に住んでいる人が引越しをせずに、契約更新をするケースが多いのだという。
普通、引越す人というのは、就職や転勤など必要に迫られて引越す場合以外では、今住んでいるところより更に良いものを求めて住み替える場合が多い。しかし、今年は不況のため、そういうケースが少ないらしい。
引っ越す場合は、契約時に敷金・礼金・仲介料などまとまった費用がかかり、引越し費用もかかるので、かなりの予算が必要だ。今年は、人々がそのようなよけいな出費をせず、抑える傾向となっているようだ。

とは言っても、大学などが近くにある地域では卒業する学生がいるので、景気に左右されず空き家はでるようである。一方、会社員など社会人の一人暮らしなどが多い地域では空き家が出にくいとのことだ。

このような状況なので、いい物件は取り合いになって早く決まるが、そうではない物件は大家さんが家賃を下げたりして、賃借人の事情を考慮してくれるところも出てきているようである。少し建物が古くなったりすると余計に値を下げるようだ。
家主さんも、家賃を高く設定して賃借人がおらず、空き家になっているよりは、家賃を下げたり管理費をなくしたりしてでも、入居者を確保したほうが得策と考えるようである。

しかし、あまりに値を下げると、かえって何か重要な欠陥があるのではないかと誤解される場合もあるので、この辺は難しい。良心的な計らいがかえって裏目にでてしまう。
逆に高くして、よい物件であるからと主張することもできるが、本当にそうなのかもよくわからない。単に大家さんがけちなのか強気なのかもしれない。大家さんがお金に困っていないような余裕のある人の場合は、値段もあまり高くしないようである。
しかし、値下げ物件については、大家さんが良心的だからなのか、物件に欠陥があるからなのかを判断するのは結構むずかしいことである。