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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

引っ越し先は
https://ask0065.hatenablog.com/です

三島由紀夫没後50年

2020-09-13 13:16:24 | 読書

今日は、週に1度のドライブの日なのだが、運転しながらラジオを聴いていると、どなたか女優さんが話しており、今年は三島由紀夫の没後50年で、それに関して舞台公演があり、それに出演するという話をしていた。

へえ、三島由紀夫の没後50年?

そういえば、昨日偶然にも自分の40年くらい前の日記をみつけ、そこに三島由紀夫のことが書いてあって、そのことをきっかけにして、文芸に掲載されたらしい三島由紀夫の「問と答」まで見つけたのだった。(それは昨日のブログ記事に書いてあるとおり)

なんたる偶然・・・というか、本当に気味が悪いほど私にはこういうことがよく起こるのである。(きっと三島由紀夫の霊がそうさせたんだろう?)

いや、これはたまたまであり、通常は何も知らずに物事が過ぎ去り、世の中の大部分の人が知っているのに、何で私だけが知らなかったのか・・・という出来事の方が、百倍も千倍もあるのが事実なのだが・・・。

とにもかくにも、昨日今日の出来事によって、三島由紀夫が50年前の11月25日に自決したことを確認した。

あの事件は知っている。三島由紀夫事件というのか、なんか演説をしたあと日本刀で腹を刺し、介助したものが首を切り落としたとかで、物々しく亡くなったのだった。

あれはいったい何だったのか?私は10歳くらいだったからわけがわからないが、今でもわけがわからないのである。

三島由紀夫は憲法改正を訴えて自衛隊員を呼んで演説をしたそうである。このままだとアメリカに都合のよい軍隊になってしまうから、自衛隊を天皇に返すべきとか・・・(ささっと読んだだけでよくわかりません)

当時の総理大臣は佐藤栄作であり、防衛大臣は中曽根康弘だったが、この事件は迷惑以外の何物でもないと答えているようである。

本当になんで演説をした後に割腹自殺をしなければならないのかわからない。

三島由紀夫は東京大学法学部を出ており、ものすごく頭がよかったはずである。身長は163cmと結構低い。たしかボディービルなどもやっていたように記憶している。

彼には一種の美学があり、死に方を追求していたのかもしれない。

wikiには、小説家のみならず、政治活動家・皇国主義者と書いてある。

生まれたのは1925年(大正14年)。私の父親くらいの年齢である。
亡くなったのは1970年(昭和45年)。彼が45歳のときであった。

もし生きていれば、現在95歳ということになる。

私が昔読んだ作品は「仮面の告白」「金閣寺」「潮騒」「豊饒の海」の「春の雪」くらい。「豊饒の海」は3部作なので他のを読もうと思っていたが、読まずにそのままとなった。

三島由紀夫のお墓は多磨霊園にあるらしい。

そういえば、今日は多磨霊園のあたりの東八道路を運転している最中にラジオが没後50年だと言っていたのだ。

ひえ~~~~

3部作の残りを読めってことなのね。

晩年は政治活動家としての色合いが濃くなったそうだが、そちらには興味がございません。小説だけ読ませていただきます。

 

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三島由紀夫氏への質問もあった

2020-09-13 00:03:10 | 読書

あ、やっぱりいろいろな小説家に質問していたらしい。

三島由紀夫氏への質問
あなたが一番いやなことは?  人間関係の粘つき
どこに行きたいとお考えですか?  コスタリカ
人生の最上の幸福は?  仕事及び孤独
人生の最大の不幸は?  孤独及び仕事
あなたが寛大になれない過ちは?  私の寛大さにのしかかること
小説の主人公で好きな人物は?  ファブリス・デル・ダルゴ
歴史上の男性では?  二・二六事件の将校たち
歴史上の女性では?  千姫
好きな画家は?  ワトオ
好きな音楽家は?  ワグナー
あなたの好きな職業は?  やっぱり小説家
一番楽しいときは?  仕事のすんだとき
あなたが欲しいもの三つ?  もう一つの目、もう一つの心、もう一つの命
誰になれたらいいと思いますか?  エルヴィス・プレィスリー
あなたの性格の主な特徴は?  軽薄及び忍耐
友人に一番のぞむことは?  わけへだてのある愛情
あなたの主な美点は?  約束墨守
きらいな色は?  なし
好きな花は?  なし
好きな動物は?  猫
好きな食べ物は?  ビーフステーキ
好きな小説家は?  トオマス・マン
好きな詩人は?  伊東静雄
好きな現存の男性は?  なし
好きな現存の女性は?  なし
あなたの癖は? 無意味な哄笑
持ちたいと思う能力は?  剣道七段の実力
現在の心境を一言で?  恐怖
あなたの現在の文学的信条は?  自分のペースを守ること
座右の銘は?  歌道の極意は身養生にあり ― 定家
(文芸・昭和38年12月)

三島由紀夫の回答は単刀直入で、その人らしいものだなと思う。

これはこちらで発見しました。↓
https://note.com/hiroshi0127/n/n0c550e9c4be6

その他、こんなのもありました。https://info.ouj.ac.jp/~sugiura/ewakaba/sugiura%27spage.htm

もしかしたら昭和38年ころ「文芸」が文学者に対して行っていた質問なのかな?と思います。

(この件に関して、何かご存じの方は教えてください。よろしくお願いします。)

 

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石川淳の「問と答」?

2020-09-12 21:52:40 | 読書

前記事、若い時の日記帳に書いてあったアンケートみたいな質問項目だけど、検索してみると石川淳の「文林通言」というもののあとに載っている「附録」の「問と答」とほぼ同じことがわかった。
インターネットの検索機能ってすごいもんだ。

それで、若いころ、何かの機会に、その質問部分を書き写したのだろうか?

全くわからない。私は石川淳なんか読んだこともないような気がする。

問と答

あなたが1番いやなことは? 料簡のいやしいもの
どこに行きたいとお考えですか? 今日の日本でないところ
人生の最上の幸福は? 知らず
人生の最大の不幸は? 幸福をありがたがること
あなたが寛大になれない過ちは? 鈍感の罪
小説の主人公で好きな人物は? お目にかかったことなし
歴史上の男性では? すべての暴君
歴史上の女性では?  さあどなたでせうか
好きな画家は? 一人だけあげればドガ
好きな音楽家は? 好きな音楽といふべきではないでせうか
あなたの好きな職業は? あるわけなし
1番楽しいときは? 無我夢中のとき
あなたが欲しいもの三つ? ほしいものだらけ、たった三つとはなんですkか 
誰になれたらいいと思いますか? 無意味
あなたの性格の主な特徴は? それはこちらからうかがひたい
友人に1番望むことは? たがひになにものぞまないのが友だちです
あなたの主な美点は? いいところづくめ
きらいな色は? 配合の間違った色
好きな花は? たとへば伊豆大島の萼のやうな花
好きな動物は? なし
好きな食物は? 牛肉
好きな小説家は? 好かれるような小説家にろくなものなし
好きな詩人は? ボードレール

好きな現存の男性は? 何の義理もありません
好きな現存の女性は? みなさん
あなたの癖は? 悪い癖がないといふ評判です
持ちたいと思う能力は? スタミナといふやつぢゃないですか
現在の心境を一言で? どうか心眼をもってのぞいてください
あなたの現在の文学的信条は? 何を信じろと強要なさるのですか
座右の銘は? 笑わしちゃいけない

と書いてある。

真面目に答えていない部分が多いが、なかには素直に答えている部分もある。

こういう質問と答えは、インターネットのブログでもよく行われるものだな。答を見るとその人の人物像がわかるものだ。

石川淳のこれそのものを読んだわけではなく、何か別のものに質問だけが載っていたのを見て、興味を持って書いたのかもしれない。

伊豆大島の萼のような花って何だろう?
萼は「がく」と読むので、ガクアジサイのことかもしれない。

この「問と答」は、石川淳氏が、誰か(出版社や新聞社)の設定した質問に答えたものなのだろう。質問項目自体は、当時複数の人々に対して行われていたものなのかもしれない。
(この件に関して何かご存じの方は教えてください。よろしくお願いします。)

 

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

2020-09-11 00:05:10 | 読書

この3~4日の間「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでいて、さっき読み終えたところである。

これは意外に面白かった。多崎つくるがなぜ高校時代の友人たちから絶交されたのかを知りたくて、どんどんと読み進んでしまった。

一種の謎解きのような形で、どんどん読者を引き込んでいく。

そして驚くべき事実が判明していくのだった。

絶交された理由がわかっても、本人に身に覚えのないことで、さらになぜそんな嘘がつかれたのかのかわからないという割り切れなさは最後まで残る。

そもそも人間なんか割り切れるものではないのだろう。

そしてまた、この作品にも死んでいく若い女性の登場。これは一種気味が悪い。風の歌を聴けだっけか、ノルウェイの森だったけか、精神的に生き延びれない女性が登場する。それからまた、指が足りなかったり多かったりすることが描かれる。これがあんまり気持ち良くないのだ。

村上春樹の小説は好きではない、と言いながらも、この小説はそれほどの長さもなく、どんどん引き付けられて一気に読んでしまったのだった。

それこそテレビも見ないし、ブログも書かないし、夜も寝たくない気分で読んだ。

この小説は2013年に出版されたもので、当時は村上春樹が3年ぶりに書いた小説ということで、すごく話題になっていたものだった。

私はアマノジャクなので、人が興味を持つものには一旦そっぽを向く。そうして、世間では完全に忘れ去られたころになってからやっと自分が近づく番がやってくる。

みんなが7年前に知った内容を今頃になって知ったのだ。

今回、この作品を読むきっかけになったのは、せろりさんのコメントで、名古屋のトヨタのレクサスのことを教えていただいたからだ。

それで、この小説の中にそういう場面があるのか、と思ったわけだったが、たまたま図書館に行ったら、この本が書棚にあったため何気なく借りてきた。

表紙は確かに見覚えのあるもので、2013年に新刊として話題になったものだった。

レクサス場面は、高校時代の5人組の一人、アオがディーラーの営業マンであり、つくるがそこを訪ねたからだ。

作品の本筋とは関係ないが、レクサスに行くにはスーツを着て行かなくちゃならないくらいやっぱり高級なところなんだなと思った。
以前、買い物帰りにネギの入ったレジ袋をぶら下げてトヨタに入ったことがあった。スーパーマーケットの隣がトヨタだったからだ。そのとき完全無視されて驚いた。私たちは透明人間なのかと思った。あれはレクサスじゃなかったけど、やっぱりなあと思う。

車について、これも本筋とは外れるけど、海外に行ったこともない多崎つくるが、クロに会うためにフィンランドに初めて一人で行って、いきなりレンタカーを借りて右側通行の道路を走れるものなのかと驚いた。国際免許証を持ってたのか。英語もできるんだなあと驚いた。相当優秀な人だ。

横道にそれたけど、リストの「巡礼の年」という曲が出てきて、題名もそれを示していたのかと初めて知った。

Liszt - Le mal du pays

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コンシュエロ 頓挫

2020-08-26 23:41:01 | 読書

以前、読み始めた、と書いた「歌姫コンシュエロ」(ジョルジュ・サンド)なのだが、132ページあたりまで読んで止まったままである。

正直言って、面倒くさい。これは挫折だ。

図書館では2週間借りられるのだけど、期限を渡過したうえで2回も延長したものの、全然読み進んでいないのだ。

このまま借り続けても、おそらく同じことだろう。

コンシュエロは、ショパンとも友好のあったポーリーヌ・ヴィアルドをモデルにしたものだということで、読み始めたのだが、婚約者アンゾレートとともにオペラ界の契約をこれから結ぶかというあたりまで読んで止まっているのだ。

このアンゾレートとは後に別れることになるみたいだけど、コンシュエロは才能あり性格も良く賢い娘であるものの、アンゾレートは他の女性に目を向けたり、嫉妬深かったりで、色々とやり取りが面倒くさいのである。

こういう人間模様が小説の味なのかもしれないが、もうさっさと物語が進んでくれないかな、と思う。

2人の会話がああでもないこうでもない、と続いているので、こんなものは読んでいる暇はないわと思ってしまう。

これだから、私は小説を読めない人間なのだ。

もう延長しないで、返却することにした。

 

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侘日記・7月26日(上林暁)

2020-08-11 23:18:08 | 読書

7月26日

貧乏な作家があって、彼の作品は、彼が貧乏であるがために人を感動させている。
しかし、彼が一旦貧乏でなくなると、頓に作品に生彩がなくなる場合が多い。
貧乏が如何に作家の心を緊張させるものであるかが判る。
同時にその作家は、貧乏だけに頼って生活していたことを暴露するものだ。
自分なども、貧乏だけを頼って生活している一人のような気がする。
世には富だけを頼っている生活があり、そういう生活は勿論度し難いが、
我々のごとく、貧乏だけを頼りにしている生活も、なんとあらぬ方向に向いた生活だろう。

これは昭和16年に発表された侘日記の中の1つだが、たぶん昭和12年の日記だと思う。

今日はこれを選んでみた。

それはなぜかと言えば、私自身の精神の根底にあるのが、これに似た認識なのだと最近気づいたからである。

それは、7月1日のブログに書いたものに通じる。

貧乏が美徳という考え

なんで、こういう考えに支配されて生きてきたのだろうと思うに、
それは、過去の小説家や詩人や歌人や音楽家や画家などに、一生貧乏で過ごした人が多いからということがあるように思う。

例えば、石川啄木の「一握の砂」みたいなものである

働けど働けど 猶 わが生活 楽にならざり じっと手を見る

このような作品を生み出すには、貧乏でなければいけないのだ。

そうして、そういう人の人生を私自分が尊重しているのだと思う。
そのような人は、ここで上林暁が書いているように、
「貧乏であるがために人を感動させている」面が強い。
だから、私は、無意識のうちに、人間は貧乏でなければいけないと思って生きてきたのだ。

しかし、それは上林暁が書いているように「貧乏だけに頼って生活している」のであった。

一方で、富だけを頼りにして生きている人もいる。
お金持ちになり、贅沢をすることを心のよりどころにしている人がいるのだ。
そういう人はいやだ。

でも、貧乏だけを頼りにするのも、妙な生き方だと思う。

 

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8月10日「散歩者」(上林暁)

2020-08-10 21:31:06 | 読書

暇つぶしに、上林暁の短編集を読むことにした。

その中の何を読もうかと探すが、特別惹かれる題名はなく、無難に「散歩者」というのを選んだ。私が散歩ばかりしているからだ。これは「花の精」の前に載っている作品である。

その内容は、著者は何かにつけて散歩をするのだそうで、その散歩のときに遭遇したことや見かけたことなどを、日常のことと共に綴っているのであった。

A駅からO駅までよく歩くというので、それは阿佐ヶ谷から荻窪だろうとすぐにわかった。上林暁は天沼1丁目に住んでいたそうで、それはほぼ阿佐ヶ谷と荻窪の間である。
ならば私もその辺を歩いてみようかな~、などと思いながら読んでいた。しかし、暑いからやっぱりやめておこう。

そのあたりの地域は、知らない場所ではない。作品の中には、額縁屋や時計屋が出てくるが、そんな店はあっただろうか?大昔のことだから、今はもう無いのだと思う。

ある夜、著者「私」が友人の家から帰る途中、氷屋から出てきた若い女がいた。姿はきれいだが、口を拭うしぐさに、どことなく下品な印象を受けたそうだ。その女は「私」の前を足早に歩いて行ったが、途中で急に歩みが遅くなり、後ろを歩いている私に追い越してもらいたいような様子であった。そして、「私」がもう少しで追いつきそうになったときに、女がそこにあったとてもみすぼらしい古ぼけた家に入っていったのだそうだ。女はきっと、そんな家に帰るところを見られたくなかったのであろう。とのことが書いてあった。

それを読んだ私も、つい先日のことを思い出した。それは仕事の帰り道だ。私の数メートル前を一人の女性が歩いていた。その人は、私よりちょっと若い程度の中年女性だった。私が後ろからついていくような感じだったので、その女性は背後の足音に気づいていたようだった。ほぼ同じ速度で歩いていた。他には誰もいない。私は、もしかしたら前の女性は速度を速めるのではないかと感じていた。

すると、女性は歩きながら振り返って私を見た。怪しい男性がつけているわけでないことが分かったはずだった。だが、なぜかその後、段々その女性の速度が遅くなり、距離が近づいていくのであった。そうしてついに追い越してしまった。

実はその前から、私はその女性はどこまで行くのだろうと思っていた。その道を通るのは、だいたいその道沿いに住んでいる人だからである。後ろを歩いていけば、その人がどこに行くのかが自然に見える。

でも、突然ゆっくりになったから抜かしてしまった。そうして、今度は私のほうが後ろの人はどこまでついて来るのだろうかと気になってしまった。振り返るのも変だが、少し進んだところで振り返ってみた。すると、その女性の姿はない。
たぶん、けっこう高級なオートロックマンションの中に入って行ったと思えた。

「散歩」を読んでいたら、つい最近の自分のそんな体験を思い出したのだった。

それからまた「散歩」の中には、小さな時計屋のことが書いてあった。その時計屋は、若い新婚夫婦がやっているが、妻は身だしなみを整えた、とてもきれいな人であった。店の中で夫の傍らに座って新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、夫の仕事を眺めたりして、いつもそばにいる。著者「私」は、その姿を羨望の思いで見ていたそうだ。

ところが、それからしばらくして「私」が、時計を修理に持って行ったことがあった。すると中から所帯じみた女が出てきて、それは以前見た美しい妻とはまるで違う人だったそうだ。しかし、それが時計屋の妻で有ることは明らかだった。その女は、身だしなみを整えて店に座っているようなこともせず、エプロンをして忙しそうに奥のほうで働いているような地味な女であった。

最初の美しい妻とはうまくいかず離婚し、後妻とはうまくいっているのだそうだ。
結局のところ、仕事もしないで座っているだけの美しい妻より、そっちのほうがよかったという結論だろう。
若くて美しい妻をめとれば、世間ではいかにも幸福そうに見えるものだが、現実は意外にそんなものであろう、との話だ。

それを読んだら、私もある知人夫婦のことを思い出してしまった。この人たちは、数年前に結婚したのであるが、妻のほうはとてもきれいで、とにかく自分の姿や洋服や、家のインテリアなどを完璧な美しさに整えたい人間である。身だしなみ第一で、朝起きれば1時間かけて化粧をし、服もセンスの良いものでなければ着ない、家具や備品なども、質やデザインに徹底的にこだわるのである。

結婚前は、夫はこの美しくセンスの良い女性を妻にしたら、連れて歩いても自慢できて夢のような夫婦生活ができると思ったに違いなかった。女性は女性で、この夫が一流会社に勤めており、かなりの収入もあったので、将来は安泰だと思っていた。

ところが、この女性、もともと家事をするなんていう意識がまるでなく、夫のために食事を作り洗濯をするという所帯じみた現実が苦痛になってしまった。夫のほうでは、妻が家事もろくにしない一方で、かなりの贅沢をして出費がかさむので、不満がでてきた。妻に言わせると、夫は帰宅すればひっくり返って何もせず、酒ばかりのんでいるそうだ。こんな男に尽くす気はますます無くなる。そんなことでぎくしゃくして、ついには離婚に至ったそうである。

この夫婦は、SNSでは、絵にかいたような旅行風景や外食風景を公開していて、他人からは羨望のまなざしで見られていたが、それは、うわべの幸福らしさに過ぎなかった。
この夫は、不細工なセンスもないただの女と再婚したら、うまくやっていけるかもしれない。

今も昔も、人の本質は同じだなあと思う。

そうして、驚いたのは、この作品の最後に「(昭和15年8月10日)」と書いてあったことだ。8月10日は今日じゃないか。

私はよくぞっとすることがあるのだが、著作物を読んでいて、こういう偶然が多々あるのである。
昭和15年って今からちょうど80年前のことだった。上林暁はこれを今日書いたんだ。

私はよく、作者の魂を感じる。
それは、私が選んで読んだのではなく、これを読むように導かれたらしいのだ。

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月見草(上林暁「花の精」)

2020-08-08 08:36:39 | 読書

この頃、月見草のことが気になっていた。
というのは、是政橋のことをブログに書いたことがきっかけで、上林暁の「花の精」という作品のことを教えていただき、そこにたくさんの「月見草」が登場していることを知ったからである。

月見草ってのは、この写真の花のことだよね。待宵草ともいう。

多摩川の河原あたりに群生しているんだったら、そんなにすごい花ではなく、ありふれたものだと思うので、作品の中の情景は、これが、いっぱい咲いていたんだろう想像していたのだ。

それで、昨日上林暁の「花の精」を読んでみると、物語は、まず最初に庭の月見草から始まっているのだった。
その花がもう少しで咲くので、楽しみにしていたところを、植木職人が剪定ばさみで切り倒し、根こそぎ取って処分してしまったのだそうだ。

その残念無念さがおさまらず、是政に月見草があると聞いて、川釣りをする友人と一緒に是政に行くというお話。そうして、河川敷から月見草を掘り出して束にして帰る途中、電車(ガソリン・カア)(←当時電気じゃなかったのか)の中から見えた光景は、周囲一面の月見草だったとのこと。

このお話は、その前に、入院していて家にはいない妻の存在があり、月見草を取っての帰り、是政駅のそばにも妻が入院しているようなサナトリウムがあり、主人公(著者)は妻のことを思い出すのだった。

帰宅して後、月見草を庭に植えた。是政橋の橋番の老人が、なかなか根付かないものだと言っていたが、月見草はたくましく、ちゃんと根付いて花を咲かせた、というハッピーエンド。

月見草を取りにいったのではなく、花の精を求めて取りに行ってきたらしい。
そして、庭の月見草が植木職人によって切られてしまったときに、主人公(著者)が読んでいた、ノヴァリスの「ヒヤシンスと花薔薇」という作品のことが書かれているが、この作品は私には見当がつかないのである。これが花の精の話なのかもしれない。

私は、今朝早く、もういちど是政に行ってみようかと思った。
今度は電車で武蔵境まで行き、そこから西武多摩川線の是政行に乗るという小説と同じ方法が良い。

「花の精」では、是政行は2時間に1本しかないので、北多磨駅まで行き、そこから是政まで歩いたそうだ。北多磨は今は白糸台駅と名前が変わっているらしい。だからそのとおりに歩いてみたい。

でも、今朝はすでに日も高く昇っていて、一駅も歩いたら熱中症になりそうだと思う。
それに、月見草は昼間は咲かない。夕方から夜にならないと・・・。
だから私は、月見草が開いているところを見たことがない。

そんなわけで、是政文学散歩は本日は中止することにした。小説の通り歩くなら6月が良いかな?

・・・

月見草のことを書くなら月見草の写真を用意しようと、ついさっき近所を歩き回ってきたら、少しだけ残っていた。実は、私自身が数日前に住宅周囲の大きな雑草を剪定ばさみでチョキチョキ切ってしまったのだ。その代表的なものが月見草である。雑草としか思っていない。

これは、河原や空き地に咲いていれば、どうということはないが、自分の家の庭に植えようとは思わないし、やはり小説の植木職人と同じ行動をとってしまう。私の場合、面倒くさいし熱中症になりそうなので、ただ根元から切るだけ。小さな草も伸び放題だから、切ったものもそのまんま。

切り逃げである。

たくましいから、絶えることはなかろう。
今度夜咲いているところを見てみようと思う。

・・・・・

追記:

その後考えたのだが、このありふれた月見草のことだとしたら、主人公はわざわざ是政まで行かなくても、そこらへんにあるはずなので、もっと貴重な月見草だったのかなと思ったりもする。

月見草には、白やピンクのものもあるそうだ。また大待宵草だったら、もっと大輪らしい。

「花の精」の中では、帰りは武蔵境から三鷹を通ってA駅まで帰っている。
三鷹では男女ノ川という力士が電車に乗ってきたとのこと。
(みなのがわ という巨体の力士は、私は知らないが、実在の人物)

A駅とは、阿佐ヶ谷駅らしい。上林暁の住まいはその辺だったので、これは事実に近い私小説なのか。

阿佐ヶ谷には、当時こんなありふれた月見草ならいくらでもあったはずだ。

だからよくわからない。

小説は事実ではなく、あくまでも架空の世界。

・・・・・

さらに追記:

上林暁の「花の精」は、昔高校の教科書に載っていたそうだ。
私の教科書には載っていなかったのだが、インターネットで検索すると、現在も大学受験の問題に出ることがあるらしい。

私が図書館で借りた本は「上林暁全集三」(筑摩書房)であった。1966年初版で、1977年と2000年に増補版が出版されている。漢字の旧字体はそのままになっていて文字は読みにくいが、文体はとても読みやすいと思う。

 

 

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また日付の偶然

2020-03-14 12:41:00 | 読書

「つべこべいわずにベートーヴェン」を読んでいたら、荻窪という地名がよく出てきた。

著者が「新宿の母」ならぬ「荻窪の母」という占い師に占ってもらったことや、荻窪で電車を降りるなどと書いてある。

この人は荻窪と関連が深いらしいと思い「砂川しげひさ荻窪」という言葉で検索をしてみた。

すると、「富樫鉄火のグル新」というサイトが出てきて「第231回 バッハのオペラ<村の出戻り娘>」という記事があった。

これが、なんと2019年3月14日、ちょうど昨年の今日書かれた記事で、次のように始まっている。

「 3月6日に亡くなった漫画家の砂川しげひささん(享年77)とは、1990年代の前半、担当編集者としてお付き合いがあった。だが、実際には、仕事を離れて、ご自宅そばの西荻窪駅前の焼き鳥屋で、音楽の話ばかりしていた。
 ご存知の通り、砂川さんは、たいへんなクラシック・マニアである。一時期、漫画よりも、クラシックに関するエッセイ本のほうが多かったくらいだ。
 砂川さんと語り合う音楽の話は、ほんとうに楽しかった。」

砂川さんが昨年の3月6日に亡くなったことを、私は今年の3月7日にwikiを読んで初めて知った。ちょうど1年後だったという偶然は以前の記事に書いた。

77歳で亡くなられたのは早すぎたなと思う。死因は、うっ血性心不全だそうだ。

上の記事より、西荻窪に住んでいたらしいことがわかった。

マンガ家であり、クラシック・マニアとのこと。

そして、この記事は「のぼりつめたら大バッハ」の話でもあった。

砂川さんはバッハのカンタータ約200曲から抜き出した部分を並べて新作オペラ「村の出戻り娘」を作り、CDに録音して富樫さんに送ったそうだ。

宗教曲が人間臭い世俗カンタータになっているそうである。

これが本当に演奏されたら面白いことだろう。そしてこの世俗カンタータ構想については「のぼりつめたら大バッハ」に書かれているそうだ。

私が読んでいる「つべこべいわずにベートーヴェン」は1991年の本である。一方「のぼりつめたら大バッハ」は1993年に出版されたらしい。(今は絶版)

「つべこべいわずにベートーヴェン」出版の時には、まだバッハについては書かれていないので、巻末の書籍紹介にも載っていない。だから、私はバッハの本の存在を知らなかった。

バッハは音楽史上ベートーヴェンの父のような存在である。

ベートーヴェンが長男で、次男がモーツアルトだけど、先に「なんたってモーツアルト」を書き、次にベートーベン、そのあとで父バッハの順で書いたってことなのだなあ。

「つべこべいわずにベートーヴェン」を読みながらユーチューブで「ミサ・ソレムニス」「フィデリオ」などの曲を探して聴いていたら、なぜかナタリーシュトゥッツマンがフォーレの「夢のあとに」を歌う音声映像が出てきたので、関係ないがそれに聴き入ってしまった。それは以前この人の歌をよく視聴していたからなのかもしれない。

私はベートーヴェンがミサ曲やオペラを作ったというのは、以前は全然知らなくて、歌と言えば第九くらいしか思いつかなかったが、この本を読んで歌に関する作品もあるんだなあと初めて知った。

それだったら、私が好きなナタリーシュトゥッツマンがベートーヴェンの曲を歌っていないか?とふと思い、探してみたが、あんまり歌っていないようだ。少なくともユーチューブでの映像はみつからない。バッハ・ヘンデル・ビバルディ・シューベルトあたりが多いような気がする。

で、ちょっとがっかりしたのだけど、砂川しげひさつながりだったら「のぼりつめたら大バッハ」の中に出てくる曲で、ナタリーシュトゥッツマンが歌っている曲がたくさんありそうな気がする。そうしたら、またユーチューブでそれを聴きながら、この本を読むのは楽しそうだ。

ああ、これも神のお導きか!

富樫鉄火のグル新」というのはFCブログの記事らしく、今現在も更新されている。

実は、第231回の3月14日の記事は、昨夜見つけたものであり、厳密にいうとまだ3月13日だったのだけど、もうすぐ日付が変わる時刻だった。

何で1日前?

そう、私がこのことについてブログを書く時間を経ると、3月14日になるってことだから、1日前に発見する必要あり。やっぱりドンピシャ。

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「つべこべいわずにベートーヴェン」(砂川しげひさ)を読み始めた

2020-03-09 00:47:25 | 読書

マイブーム「〇〇ベートーヴェン」ということで、「どこかでベートーヴェン」「もういちどベートーヴェン」(中山七里)の次に続いて、「つべこべいわずにベートーヴェン」を選んだ。

 

図書館で、先週はベートーヴェンコーナーを作るために取り除けられていた書籍たちが、今週になったら、まるで私のために用意されたように、1か所に並べられているではないか。その中から選んだもの。

 

これは、エッセイだ。

面白おかしく軽い文章で書いてあるから、読みやすいだろうと思って選んだのだ。

 

本当は、この本については読み終えてから感想を書こうと思っていた。

だが、ふとついさっき著者の「砂川しげひさ」という人のことを調べてみたのだ。

1941年生まれと本に書いてあるので、かなり年配だ。今は何歳になられるのか?

そしてwikiを読んでみた。

なんと201936日に逝去されていた。ちょうど1年前じゃないか!

 

今これを書いているのは39日に日付が変わったばかりだが、図書館で借りてきたのが37日だった。私は不思議なことに、こういう偶然が多いのである。

 

この方は漫画家らしく、本の中の挿絵もとても面白い。

 

ベートーヴェンさんは、作曲家の中の長男だそうだ。

次男がモーツアルト。3男シューベルト、4男ブラームス、そしてショパン、リストと続いて末っ子がマーラー。マーラーは多くの兄がいるが、彼にとって長男の存在が非常に強い。

ベートーヴェンの父はバッハである。ハイドンは叔父(父の弟)という位置づけ。

異母兄弟がワーグナーで、その弟がシュトラウスなのだとか。

 

これは面白く、わかりやすい。音楽の歴史など、私は全くしらないけど、なんとなくわかるような気がする。

 

ベートーヴェンは整理整頓ができず、部屋はごっちゃごちゃだったが、頭の中だけは整理整頓されていたそうだ。

 

父はテノール歌手で酒飲みアル中、ろくな人じゃなかったらしい。祖父が皇帝歌手(バス)で立派な人であり、その血を引いたようだ。

 

読み進むと、だんだんピアノ協奏曲、バイオリンソナタ、弦楽四重奏等の話になり、私はそれらの曲を知らないので、ユーチューブで聴いてみたりしたが、ちょっとわかりにくくなってきてしまった。

 

今そのあたりまで読んでるけど、引き続き読もうと思っている。

 

この砂川という人、ベートーヴェンの前に「なんたってモーツアルト」という本を書いている。確かに、世の中がモーツアルトブームだった時代があった。

モーツアルトは天才だが、女たらしで人間としては尊敬できるものではなかったというのは世に知られているところだ。

作曲家としての長男はベートーヴェンなので、先にベートーヴェンを書くべきところ、モーツアルトが先になったと後書きに書いてあった。(先に拾い読みしてしまった)

当時は、日本は豊かで快楽を求める世相だったからモーツアルトが合っていたのだろう。

 

このあとがきが書かれたのが1991年で、すでに30年も前のものである。

 

「さて、読者諸君、ここらで、フンドシを締めなおそうではないか。豊かさがいつまでも続くと思ってはいけない。快楽があれば、苦悩もある。来る苦悩の時代のために、今から、心構えをしておきたい。そこで「つべこべいわずにベートーヴェン」と行きたい。」

 

この言葉、まるで今を予言しているようだ。

 

1991年以降、阪神淡路大震災があり、東日本大震災があった。

気候の変動、異常気象、そして今 最もおそるべし新型コロナウイルスの危機にある。

 

今年は本当に苦難に立ち向かわなくてはいけない。

そういう意味では、生誕250年だけでなく、世相もベートーヴェンなんだと思う。

 

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江戸川乱歩で思い出すこと

2020-03-08 09:51:20 | 読書

最近読んだ「どこかでベートーヴェン」「もういちどベートーヴェン」の作者、中山七里氏は、子供のころから推理小説やミステリー小説をたくさん読んでいたそうだ。

その中に江戸川乱歩も入っている。

 

私は今、推理小説を読む趣味はないが、子供の時には、色々読んだような気もする。

その中で、記憶にあるのは、ある友達から借りて読んだ江戸川乱歩の全集(?)である。

それは、子供むけのものだったと思うが、普通の単行本の形をしていて、表紙には絵が描いてあった。

 

これから書こうとするのは、その本のことというよりも、それを貸してくれた友達のことだ。

 

おそらく小6の終わりのころに、すぐ近所に引っ越してきて、その時は別の小学校に行っていたが、中学1年の時にたまたま同じクラスになった子である。名をR子とする。

 

R子は、とても能動的なタイプでいつも向こうからこちらに働きかけてくるような子であった。

自信家というか、上から目線というのではないが、自分の流儀や趣味を得意げにPRしてくるのである。

 

知り合ってすぐに、元からの友人といっしょに彼女の家に誘われていき、ままごとのようなことをして遊んだことがあるが、ご飯茶碗におはじきを入れて、食べる真似をすると思いきや、本当に56個のおはじきを口の中に入れてしまうので驚いた。

 

そのあと、噛んだふりをして、また吐き出すので問題ないのだそうだ。

そんな遊び方があるのかと、目を回した。あなたたちもやりなさいよ、というが、とてもそんなことはできない。おはじきはきれいに洗っているらしい。

(こんな遊びを、中一でするだろうか?だからこそ驚いたのかもしれない。)

 

そうして、その彼女の家には、江戸川乱歩の小説が20冊くらいあったような気がする。

それを、こちらが貸してくれともいわないのに、面白いから読みなさいよと言って、2~3冊ずつ貸してくれたように思う。

 

私は、小学生の頃は結構読書をしていて、姉がいたことからも、家には色々な小説や文庫本などがあったが、彼女を家に招いたことはなかった。

彼女の家には見たところ、その江戸川乱歩のシリーズだけしか本がなかった。

それを得意そうに見せて、読んだことがないという私に貸してくれたのだ。

 

数冊は言われるままに読んで、確かに楽しかったと思うが、内容は何も覚えていない。

 

彼女は、この本に限らず、勉強の参考書なども持っていて、それを使って勉強するのだと得意げに勉強方法を教えてくれた。

 

教科書以外の教材を使う勉強方法やテスト対策など、一度も考えたこともなかったので、へえ~~と驚いたが、だからと言ってその方法を取り入れるでもなかった。

 

そうやって、1学期が済んだころにわかってきたことは、その得意げな彼女よりも、こちらのほうがずっと成績が上だったことである。

それは、私が優秀というのではなく、彼女が中程度だったということだ。

 

彼女は、バスケット部に入ったので、最初のころは、ドリブルの仕方などをこれもまた得意げに教えてくれたものだった。こちらは、その時もへえ~と感心するばかりだった。

 

だがそのうち、部活も忙しくなり、近所に住んでいるとはいえ、私的に遊んだり交流をしたりする時間はなくなっていった。

彼女は、こちらが勉強方法を教える相手ではないということにも気づいたようである。

 

そうして、江戸川乱歩の本は何回か借りたり返したりを繰り返していたが、3冊くらいを借りたまま持っていた時期があった。

 

ある時、R子がその本を返してくれと言ってきた。私はまだ読み終えていなかったが、すぐにそれを返した。

 

そのころは、お互いに友人とするには、波長が合わない相手だとわかってきたころだ。

そして、それ以降、何のかかわりも持たなくなり、交流は終わった。

 

今になってみれば、こちらは彼女から恩恵を受けていたなと思う。

一方、自分は受け身で、何もしなかったのだから、彼女としては何も得るものがなかったのかもしれない。

 

そのR子だが、実はもうこの世にはいない。数年前、50代にして急に亡くなったそうである。

結婚してお子さんはいたそうだ。

気が強い人だったと思うし、今でも思い出すと、インパクトが強かった。

 

R子がいなければ、江戸川乱歩のシリーズ本の記憶は人生の中になかっただろう。

 

あ、しかし、江戸川乱歩は中学2年の時に「悪魔の紋章」という文庫本を読み、それは記憶に残っている。なんと、それはクラスの男子が、これもまた私が貸してくれともいわないのに貸してくれた。

 

たった今思い出したが、江戸川乱歩の小説はなぜか人が勝手に選んで貸してくれた本で読んでいることに気づいた。

 

・・・

追記:今日、ここにR子と江戸川乱歩のことを書いたのは、おそらくR子が既に亡くなっているからである。

数年前、R子が亡くなったと実家の母から聞いていた。実家の母は、私とR子にどのような交友関係があったのかは全く知らなかったようだ。同じクラスメートだったことがあったかどうかも知らなかった。ただ、自分の娘と同年齢の人が若くして急死したことにショックを受けていた。

そして、そのことは私が帰省するたびに、時々話に出る。家族の人が帰宅したときにR子が自宅で倒れていたそうである。

そんな不幸な出来事がなければ、R子との昔の交流を、私は思い出しもしなかったのだと思う。

中山七里氏が読んでいた推理小説は、江戸川乱歩に限ったものではなく、アガサ・クリスティーやエラリー・クイーン、横溝正史など多々ある。

その中で江戸川乱歩が浮き出てきたのは、やはりR子が亡くなったことによって、彼女のことが私の意識の中によみがえってきていたからだ。

 

 

 

 

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久々の読書(中山七里の小説)

2020-03-07 17:04:45 | 読書

コロナウイルスによって、読書をする環境が作られた、というのも皮肉なものである。

 

私はここ数年、小説というものをほとんど読まなくなっていたのだが、なぜかこの1週間で2冊も小説を読んでしまった。

それは、2月の末から、喉と咳の変な風邪をひいてしまって、自宅にこもっていたからだ。(コロナおよび風邪症状(区別がつかん)の人間は自宅待機)

 

熱はないので、コロナではなさそうだし、近くの図書館までウォーキングするくらいの体力は十分にあった。

近頃、ユーチューバーピアニストのフォルテ君に感化されて、ピアノソナタを弾いたりしていて、ベートーヴェン生誕250年ということもあり、ベートーヴェンの生涯を知りたくなったのだった。

 

そこで、ベートーヴェンの伝記を読もうかと図書館に探しに行ったところ、貸出可能図書からみつかったものは中山七里の「どこかでベートーヴェン」「もう一度ベートーヴェン」くらいしかなかった。これはベートーヴェンの生涯とは関係ない架空の現代小説である。

 

なぜ伝記がなかったか?

それもそのはず、その図書館ではベートーヴェン生誕250年を記念して特設コーナーを作るために、ベートーヴェン関係の本を貸し出し図書から除外して準備しているところだった。だから、ベートーヴェンに関する本が無いわけだった。

 

そんなことで、幸か不幸か、中山七里の小説を借りてきて読んだわけだが、これは結果として、「幸」であった。いや、なかなか面白い。

特に岬洋介シリーズは、現在ピアノ曲にはまっている私にぴったりの作品だ。

ということで、ベートーヴェンと名の付く2冊をあっという間に読み終えた。

 

そこで、中山七里という作家についてwikiで調べてみた。

すると、この人は、子供のころから読書家で、作家を目指していたものの、若い時に応募した作品で文学賞が取れなかったので、すぐにあきらめ、普通のサラリーマンをしていたそうだ。しかし、48歳になってまた小説を書きだし、ついに賞を取り、作家になったのだそうだ。

 

1961年生まれというと、私よりちょっと若いくらいで世代はほとんどかわらない。

 

なんか親近感がわく。

ピアノに関しては全くの素人だそうだ。あんなに細密に曲の部分について書いているのに、信じられないようだ。

奥さんがエレクトーンの先生だとか?そして子供が二人いる普通の家庭の人のようだ。

 

作品は、音楽系ではない別の種のものもいくつかあるらしい。

そして、昔から推理小説を読み漁っていたので、素養があるのであろう。

 

48歳からでも作家になれるんだなあ~。しかし、私は60歳だから無理だな~。

でも、読むことへの復帰ならできそうである。

ここ15年ほど、理工系の文書ばかり読んできたので、小説というものにはほとんど接してこなかった。久しぶりに読んでみると、知らない言葉がたくさんでてきて驚いた。やっぱり語彙が偏っていたのだろう。

 

中山七里という作家が気に入ったので、「このミステリーがすごい」大賞の「さよならドビュッシー」が無いかと図書館で探した。

その他にラフマニノフでもショパンでも良い。

だが、その手のものは残念ながら一つもなかった。(貸出中?)

しかたがないから、音楽家とは関係ない題名の1冊を借りてきた。

 

これを読んでいるうちに、コロナがなくなりますように。

 

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どこかでベートーヴェン(中山七里)

2020-03-02 23:33:02 | 読書

本当に何年ぶりかで小説を読んだ。

元々は、ベートーヴェンの伝記を読みたいと思っていたのだが、題名にベートーヴェンが入っているというだけで、中身も確かめずに借りてきてしまった本を読むはめになった。

伝記でもエッセイでもなく、推理小説?

確かに、登場人物の一人が殺され、犯人を突きとめるというストーリーもあるのだが、音楽について、なかなか興味深い内容でもあった。

舞台は高校の音楽専攻コース。主人公、高村亮の母親はピアノ教師。

そして、本当の主役(?)岬洋介は天才的ピアノ少年。

小説の中では、この岬洋介が、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」1~3楽章を弾き、同級生に衝撃を与える。

この曲の演奏の様子に対して、作者中山七里の描写はすごい。曲の細部に至るまで、綿密に描いている。ピアノに詳しい人なのだな。

それから、岬が弾いたもう一曲は、悲愴の1・2楽章だった。

この途中で突発性難聴が発症し、演奏ができなくなってしまう。

ベートーヴェンが聴力を失ったように、岬という天才ピアニストが左耳の聴力を失う。

だが、ちょっとおかしいと思うのは、突発性難聴という病気についてだ。

この病気は治ったり発症したりを繰り返すものではない。

一度聴こえなくなったら、そのまま聴こえないから、なんとか聴力を回復させるべく治療をするのが普通で、その結果、いくらかは聴力が回復する。

元通りに完璧に戻るということは難しいそうだ。

小説の中では、演奏中に急に左耳が聴こえなくなり、左手の演奏ができなくなったなどと書かれていた。

ピアノの演奏は左手の音を左耳で聞き、右手の音を右耳で聴くわけではなかろう。(確かに左が聴こえなければバランスは悪くなるだろうが)

そして、ここでは突発性難聴は、一度発症した人は、何度も突然音が聴こえなくなる症状のように書かれているのだ。だから、恐ろしくて演奏も安心してできない等と記されているが、そういうものではない。

この辺は、思い込みではなく、ちゃんと調べて書いてもらいたかった。

・・・

高校のクラスメートの冷たい仕打ちなど、本当にそんなものなのかとげんなりするくらいだ。

名前のある登場人物は数えるばかりであり、悪い人間と良い人間に分かれる。

 

3/5追記:上記は、下書きのまま放置してあったものですが、一応公開にしておきます。内容は、本当は、ちゃんと書き直さないといけないのですが、とりあえず、読んだってことを記録しておくため、まとまらないままです。未完成です。

 

 

 

 

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放置読書

2018-06-21 22:58:27 | 読書
ハムスターっていうのは、寸前までやっていたことを忘れてしまうそうで、
食べている途中で寝てしまったり、またふと目を覚まして、何かを始めたりするが、
その前にやっていたことなんかまるで記憶にないらしい。

私もハムスターみたいな人間で、何ヶ月か前に読み始めたはずの小説本が、いつのまにか、どこかに放置されていたのだ。

そして、最近気がついた。

そう言えば、あの本、どこに行ったんでしょうね。

読み始めていたことを思い出したけど、いつやめてしまったんだろうね。

その本は、カズオ・イシグロの「浮世の画家」だった。

これは、日本が舞台になっており、カズオ・イシグロの空想の世界というか、本当の日本を見て書いたわけではなく、彼には幼少のときのごく狭い身近な地域の記憶しかないのだそうだから、日本を知らずに日本を舞台に書いた小説だということだった。

そして、この小説の舞台は、戦後の日本であって、戦争で空襲を受けて壊れたりした家屋敷のことも描かれていた。

その家は、立派なお屋敷で、画家である自分が安く譲り受けたものだったが、・・・

そこから始まる物語が始まる前に、放置状態となったまま、私の記憶から遠ざかっていったのだった。

何で放置したのか?
特に理由もないのだけど・・・つまりは、誘引力がなかったんだろう。

これを読み始めて、ちょっと気になったのは、文体がいかにも戦争直後の日本小説のようなかんじだったことだ。

これは、イギリス人の現代の作家が書いた小説ではないのかな?

なんとなく、古臭い、あの時代にありふれていたようなその文体(登場人物の言い回し等)が気に入らない。
この文体はカズオ・イシグロが醸し出したものじゃないような気がする。

そして、紀子はなぜ紀子なのか?
典子でなく法子でなく則子でもなく、どうして紀子になったのだろう・・・

石黒一雄が書いたんだったら、紀子かもしれないが、
カズオ・イシグロが書いた小説だよ。

だったら、紀子はノリコじゃないのかな?

このあとの展開が、日本にあった小説のようではないのかもしれないけれど、

読み始めた最初の方で、起きた違和感。

日本の昔の小説の中に出てくる、ありふれた言い回し。登場人物のやりとり。

それがイヤだ。昔の日本人作家が書いた文みたいなんだもの。

いえいえ、特に嫌気がさしたわけでもなんでもない。
訳者が悪いとか言ってるわけでもないし、そこまで私にはわからない。

カズオ・イシグロが、日本人ってこんな感じの人間…って思っていたから、そのように書かれた小説をそのように訳したのかな?

私は、そのことがいやでやめたわけではなかった。

ただ、途中ですっかり読んでることを忘れたのだ。

意識から消えていたのだ。


思い出したからまた読もうかな。



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「夜想曲集」を読み終えた

2018-04-16 21:33:26 | 読書
カズオイシグロの「夜想曲集~音楽と夕暮れをめぐる五つの物語~」を読み終えました。

読み始めたのが、3月の10日頃だったと思うので、1か月以上もかかってしまった。
最初の3つを読んでから、しばらく放置してあり、最近残りの2つを読んだのだ。

そして、ひとつずつ感想を書こうと思っていたのだけど、それをしなかったので、最初に読んだ作品のことはすっかり忘れてしまい、今さらまとめて感想が書けないので、もう感想は書かないことにする。

ただ、夜想曲というふうに、それらの内容はどこか「終わりかけたもの」「あきらめ」「わりきれないもの」「ある特定の人同士が共感できる感性」「才能」・・・
そういう共通性があるのだった。

もっと楽しい小説が読みたいかも。

自分自身、もう「これから」何かができるという人生ではないので、一抹の寂しさを感じてしまうのかな。

でも、この人の小説、これからも読みたいと思っています。
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