ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

06/04/23 歌舞伎座六世歌右衛門五年祭公演夜の部③「井伊大老」

2006-04-27 23:58:09 | 観劇
2月にTVで「鬼平スペシャル」、歌舞伎座昼の部「幡随長兵衛」と夜の部「人情噺小判一両」を続けて観て、すっかり吉右衛門にハマっている。どうも時代物の吉右衛門は好みではないのだが、世話物の侍や侠客、普通の時代劇はとても味わい深い。これはキリッと渋く決める演技と軽妙な演技のメリハリが活かせるからだと思う。
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さてさて今月の歌舞伎座、北條秀司の「井伊大老」を観た。
三谷幸喜の大河ドラマ「新撰組!」だったと思うが、井伊大老の杉良太郎が好演だった。流し目の杉さまのイメージが強いが、嫌われ者のイメージの井伊大老を気骨ある人物として描いた三谷脚本の功があるが、杉良太郎、ちょっと太めにはなっていたが強面でなかなか魅力的だった。
さて、私には初見の吉右衛門の井伊直弼、これがまたよかった~。井伊家下屋敷の愛妾お静の方の居室の場で桜田門外の変の前夜という場面だけだったのだが、一番愛した女の前で人間井伊直弼の弱さをさらけ出し、その女のひとことで潔く死んでいく覚悟を固めるというそのメリハリの芝居が短時間ながら濃密に味わえた。

この一幕は、ふたりの間のひとり娘の月命日に彦根時代の師である仙英禅師(富十郎)が仏壇の前で読経をしているところから始まる。直弼は元々嫡男ではなかったが、兄たちが次々と亡くなったために井伊家を継ぐことになってしまった。部屋住み時代にふたりが暮らした埋木舎での思い出話になるが、お静は出家して娘の菩提を弔いながら直弼の面影を追いながら余生を埋木舎で過ごしたいと言う。禅師が出家を許すとあわてて撤回。正妻も迎えている直弼は自分をたまにしかたずねてくれないその辛さもあるが、やはり全く会えなくなるのは嫌なのだ。
明日は雛祭りだというのに冷たい風が入ってきて風よけに動かした小屏風には直弼による和歌が書き付けてあり、それを読んだ禅師はお静にその意味を明かす。直弼は死の覚悟をしているという。
そんなところに直弼が娘の命日を忘れずにやってくる。屋敷中が殿様の出迎えに浮き立つところ、禅師はひとり去っていく。仏壇の前で娘に回向したあと、禅師が「一期一会」と書き付けた古笠を残して行ってしまったとわかり、直弼は禅師が全てを悟ったことに気づく。
家来たちにも無礼講で節句の祝いを許し、ふたりで節句の宴を始める。屏風が開いて現れた立派な雛の段飾りが美しく、その前でふたりのやりとりという芝居がとても贅沢だ。
このお静を初役でつとめる魁春がとてもいい。低い身分の出自から側室の身となってはいるが、自分の方になかなかきてくれないことへの嫉妬を可愛くにおわせる。それがまた心地よいらしい直弼。しかしながらやりとりの中でお静が自分の状況をわかっていることに気づくと一気に心の中のものを吐き出す直弼。国政の舵取りとして国難をのりきるために心ならずも尊皇攘夷派の大量処刑を断行し鬼畜と罵られながら生きる苦しみ、まことの夫婦と思うふたりでこのまま死んでしまいたいとまで泣き言を言う。吉右衛門の目が潤んで光っているのが見えて私も涙がにじんできてしまう。

お静の方の「正しいことをしながらも世に埋もれたままの人もいる」という言葉に迷いをふりきる直弼。桃の節句を前に降り出す雪。この雪が降りつもった中で流血の桜田門外の変へ続くのだなとイメージがつながっていく。
その前夜の井伊直弼最後のひとときを濃密に描いた贅沢な舞台。歌右衛門とも組んで何度も直弼を演じている吉右衛門と初役の魁春がとてもいいコンビになっている。富十郎の禅師がその二人の前に実にいい芝居をしているので、三人は同じ板には乗っていないのだが、その三人のバランスがうまくとれた空間が出来上がっている。お静の方付きの老女雲の井役の歌江がまたそのバランスをくずすことなく脇役として要所をうまく締めてくれていた。
こういう芝居を観ることができると「見取り」でもたまにはいいかなあと思うことができるというものだ。

次の吉右衛門を観る舞台は、5/14新橋演舞場昼の部の予定。
写真は「井伊大老」の看板絵。