<1月3日のこと>
ここ数か月の現象として、時ならず睡魔に襲われることがある。睡眠不足でもないのに、ふと眠くなるのだ。いかにも老化現象のようでいい気はしない。
眠気覚ましに散歩に出かけた。
今日は山道を歩いてこようと考えて。
父が健在のときだったから、30年ほど昔に歩いた山道である。
当時は舗装も十分ではなく、人気がなくて、もの寂しい山中の道であった。
色鮮やかな雉子を見かけたことが、妙に印象に残っている。
今は同じ山道でも、かなり開けた感じであった。
一軒家を過ぎると、道は下り始める。
そこに現れたのは、工事現場であった。
ああ、こんな位置に山陰道はつくのかと思った。
回覧板などで、建設の設計図は見ても、現場を想像するのは難しい。
歩いてみて、初めて位置が確認できた。
山道から市道に出ると、山は見上げる位置に削られ、道路が伸びてゆく先の風景もまるで異なっていた。
昔は田圃があったはずなのに、と佇んで眺める。
「桑田変じて滄海となる」という故事を思い出させる変貌ぶりである。
昔の馴染みある風景は、すっかりなくなっていた。
昭和18年に父の仕事でこの地に住み始めたころ、借りた家から通学していた小径は、今も通れるのだろうか? 上から眺めただけではよくわからない。
海に向かっては折に歩き、その歩き慣れた道でさえ、数か月の間が開くと、新しい家ができたり、住む人が不在になったりの変化があることは知っていた。
それにしても、今日見下ろした、昔馴染んだ土地の変貌は、かなりなものであった。
山陰道が出来上がるのは、幾年先のことか知らない。
出来上がった風景を目にすることはまずあるまい。
ものものしい道ができ上がれば、それはそれで後世の人には、馴染みの風景になってゆくのであろう。
大堤も、小さくなったような気がした。
幼い日の記憶は、実物より大きく記憶するのが常であるから、小さく見えるだけで、そう変化はないのかもしれない。
鴨の幾群れかが、水面を移動していた。いかにも、池の風景に不可欠なものであるかのように溶け込んで。(池までは、かなりの距離があり、鴨をカメラに収めることはできなかった。)
以下は、散歩道で出会った花々。