ぶらぶら人生

心の呟き

本はまさに……

2009-07-31 | 身辺雑記
 昨日、書棚に『鳥獣蟲魚』(前登志夫の歌集)を見つけ、その美しい表紙の装丁は、司修であることを、あとがきで知った。

 久しぶりに意識する<司修>の名前であった。
 随分昔、その作品を読んだ記憶がある。文学界に載っていたのではなかっただろうか?
 そんなあやふやな思いを抱きながら、ネットで<司修>を調べた。

 【プロフィル】には、

 <つかさ・おさむ 昭和11年、群馬県生れ。平成5年『犬(影について・その一)』で第20回川端康成文学賞。19年『ブロンズの地中海』で毎日芸術賞。本の装丁でも定評がある。>

 と、簡明な紹介がしてあった。
 上記の二作品を読んだ記憶は蘇らない。
 読んでいるとすれば、『犬』の方であろうけれど……。

 こんなに忘れて大丈夫だろうか?
 <学ぶということ><読むということ><記憶するということ>、そうした集積にどんな意味があるのだろう? そんなふうに考えることが、最近よくある。あまりに記憶が曖昧だからである。
 すべて、忘れるための営みに過ぎなかったような気がしている。
 英語など、10年間学習したのに、生きたものとして身についていない。
 微分・積分などの学習にいたっては、現在の私とどう結びついているのか、皆目分からない。
 懐疑的になってしまう。
 しかし、考えて見ると、目に見えない無形なものとして、身に備わっているのかもしれない。そう信じないと、生きてきたプロセスの意味を失ってしまう。
 <無>と思えるのは、溶解して形を変えているからだろう。
 日々の食事が咀嚼され、形をかえて、血や肉となるのと同じであろう。

 書こうとしたことから、横道にそれてしまった。
 昨日は、司修の<本>について書かれ文章に、ネットで出会ったのである。
 「笑う本」と題した文章に、次の表現があった。

 <(職を辞して自室に帰ってきた作者の)ぼくは8年前のまま居座っている本を整理して売り、その隙間に新しい本を入れよう、と思った。

 雑誌は、惜しいけれど捨てることにしたので、手早くより分けたが、彼らは本箱の中を移動しただけである。何日かけても、何も変わっていないように見える。本はまさに生き物である。忙しそうなぼくを見て笑っているのだ。>

 そのあとに、立松和平から聞いた話として、トラックをチャーターして、古本屋に持っていったが買ってもらえず…、という話が書かれ、

 <もちろんトラック代もかかるから、「本を売る」という考えは、本に笑われることになる、と思い返したぼくは、笑っている本たちに、「おまえら捨てるぞ」といってやったのだ。…>(【仕事の周辺】)

 と、書いてあるのであった。

 司修や立松和平などが所有される本の数は、私の比でないだろう。が、本の多少は別にして、たまりすぎた本の扱いは厄介である。
 ありがたい財産だと思ってきたが、今では、場所をふさぎ、私を脅迫し、困惑の私を<笑っている生き物>(司修の言葉)に思えてくる。
 司修のように、「おまえら捨てるぞ」と、豪語はできないが、業者の手で思いっきり廃棄することをお願いするしかないな、と書棚を眺めているところである。
 本当は無一物同然の身軽さを得たいのだが、それは無理だろう。せめて三分の一の本を処理し、安らぎを得たいと思っている。


             

 昨日、庭木の剪定をしてもらったところ、狭い庭の空間が少し広くなった。
 余分なものをそぎ落とすことによって生じた空間が心地よい。(書斎も、そうなると嬉しい。)
 マンリョウが、金木犀の陰から姿を見せた。
 見ると、花をつけている。(写真)
 赤い実に比べれば、目立たない花である。
 それでも、季節の確実な移ろいを明かしている。

 今日で、七月が終わる。梅雨明け宣言のないままに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする