ぶらぶら人生

心の呟き

雨の朝顔  付・川柳

2009-07-29 | 身辺雑記
 今朝も、雨で明けた。
 軒の下を歩いて、鉢植えの朝顔を見に行った。
 新しい色の朝顔が咲いていた。(写真)
 これで6種類の花が咲いたことになる。

 しかし、雨の日の朝顔は、哀れである。
 太陽の助けなしには、見事な開花は望めないらしい。
 朝、咲き損ねた花は、終日美しい一瞬に恵まれず、命が果てることになる。
 開花の日が、偶然、雨であったということにより、命を咲き満ちることのできない朝顔は、どう考えても、やはり哀れである。
 花びらに張りがなく、生まれながらに萎れている。

            


 今日の朝日新聞の川柳は、7句のうち4句が、麻生首相の「六十五歳以上は…」の発言を受けての作品であった。引用させていただく。

   < 働ける才能ないがよく納め     神戸市 安東 弘恵
     才の字を付けて気配りしたつもり  焼津市 増田謙一郎
     ブレるしか才能のない私です    姫路市 福井いさお
     能無しも不思議と漢字読めてます  福島県 三原 茂雄 >

 上記の句を読んで、代弁者の言として快哉を叫ぶ人は多いだろう。
 私も、テレビで、麻生首相の<老人は働くしか才能がない云々>の言葉を聞いたとき、解散の日に、反省の弁を述べたばかりなのに、またまたひどいことを! と憤慨した。根本的に考え方がおかしいのか、表現が稚拙なのか? いずれにしても、川柳という格好の表現形式で、嘲笑、揶揄の対象となって当然である。
 川柳は世相を映す鏡として面白い。
 
 「かたえくぼ」も、同じ素材を扱っていてうまい。同感である。
 これも、引用させていただくことにする。

   <「働くしか才能がない」
    政党を選ぶ才能もあり
    ますよ
         ――高齢者
   失言連発首相どの
        (浜田・照ちゃん)> 
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母の祥月命日

2009-07-29 | 身辺雑記
 今日は、母の祥月命日である。
 17年前の今日は、猛暑であった。当日だけでなく、死の前後の日々は、容赦のない暑さが続いていたことを覚えている。

 昨日から読み始めた本、池田晶子著『死とは』のとびらに、

 <生(ある)と死(ない)――存在の謎は、果てしなく>

 という表現があった。
 生と死を、<ある>と<ない>で表現してあり、確かにそうだと納得しながら、一方、生死には、<有><無>だけでは片付けられないものもある、と考えた。
 確かに肉体は存在しないが、母は、私の中で生きている。

 母の命を受け継いだかのごとく、裏庭には白い花をつける椿の木がある。
 それは、Kさんからお見舞いにいただいた椿の小枝を、花の終わった後、私ガ鉢に挿し、十分根付いたものを、庭師に植え替えてもらったものである。
 こうして、形として今なお命をつないでいるものもあれば、無形だが、心の中に深く根を下ろしているものもある。

 今日はひととき、理屈を超えて、母を偲ぶ日となった。

 母の思い出につながる椿は、今年も立派な実(かたし)をつけている。(写真)
 贈り主のKさんは、老人ホームで、今もつつがなくお過ごしになっている。


          
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