ぶらぶら人生

心の呟き

墓参

2006-12-15 | 旅日記

 12月4日。羽田空港から新橋のホテルに。
 荷物を置くと、谷中の墓地に向かった。五月の墓参以来である。
 今年は、11月が暖かかったせいか、東京谷中の桜並木も、裸木というには早すぎた。見上げると、まだ葉をつけた木がかなりある。木々の梢と梢の間には、さすがに隙間が広くはなっているが、紅葉した葉もまだかなり残っている。その梢の遥かには青い空が広がり、穏やかな冬日和である。

 桜並木に差しかかると、賑やかなカラスの声が出迎えてくれた。
 この墓地周辺には、幾百のカラスがいるのだろう?
 猫も多い。
 私がお供えをし、お参りをしている間、7,8キロはありそうな大猫が、のそりのそりと様子を伺いながら歩いていた。
 今日のお供えは榊とお花だけ、猫にとってみれば、<なんだ食べ物はないのか>といった心境なのかもしれない。
 この墓地周辺に、痩せ猫などいないところを見ると、みな、甘いものを頂戴して、肥満体になったに違いない。そのうち糖尿病の猫だらけになりはしないだろうか。
 谷中に来れば、谷中に、師の存在があるのだと思う。
 そうして東京の4日間は、東京散策を共にするつもりになるのだ。

 

 5日は、友達と墓参した。
 疎と密の差はあっても、互いにとっての師である。
 私が、師にとも友人にともなく、
 「今日は好物の薄皮饅頭を持ってきましたよ」
 と言いつつ、昨日上野駅で買っておいた郡山のお饅頭をカバンから取り出してお供えした。すると、たちまち一羽のカラスが飛んできて、墓石にとまった。
 友人は、
 「だめ、だめ」
 と言うや、お饅頭を取り上げた。
 「お供えの気持ちは伝わったから、もういいことにしましょう。カラスにやる手はないのだから」
 私も、お供えを目の前でかっぱらわれるのは気に食わないので、同意する。
 カラスは依然として、墓石の上で様子を伺っている。
 「ひとつだけ、やってみましょうか」
 師の家の庭にやってくる鶯や目白に、二人で餌を与えた冬の日々のことを思い出しながら、地面にお饅頭を置いてみた。
 カラスは目ざとくそれを見つけ、墓石から飛び降りて、お饅頭に飛びついた。
 どうするだろうと見ていると、その場で上手に三切れに噛み分けると、嘴に挟んで、近くの木に飛び上がり、ここなら安全とばかり、ゆっくり飲み込む様子であった。
 が、食べ終わると、また墓石に下りてきた。
 「ずうずうしったら!」
 友達が叱りつけた。
 そこへ他の一羽のカラスがやってきて、並んでとまった。
 すると、お饅頭を食べたカラスが、口移しに餌を与えた。カラスにも、牛のような反芻の習慣があるのだろうか。それとも、単に飲み込まずにおいたものを、子ガラスに与えただけなのだろうか。いずれにしても、このところ殺伐とした親子関係の多い人間の社会から見ると、頼もしく、ほほえましく思われた。
 しばらく二羽のカラスは墓石に止まっていたが、もう餌をもらえる気配がないと悟ると、諦めて飛び立った。墓石に白い糞を落として……。
 「なんたることを!」
 「余分なことをしてくれるわね」
 友達はティッシュを取り出して、墓石の糞をぬぐった。白い跡が残った。

 6日。ひとりで墓参。
 お墓のお世話をしていただいているS茶屋によって、桶に入ったお水をいただいた。
 昨日カラスに汚された墓石を洗い流し、花のお水をかえた。
 今日は好物のコーヒーをお供えする。
 ひとりのときは、長々とお話をする。
 肉声の返らぬことは寂しいが、語らいは尽きない。

 7日。お迎えに行く。
 今日は帰郷の日である。
 新井満氏の「千の風になって」の曲が、心の中に鳴り響く。
 私のいるところに、いつも師の存在を感じることで、私は日常を生きている。
 「今日は飛行機で、一緒に帰りましょうね」
 そう言いながら、やはり寂しい。
 昨日まで青空のお天気が続いたのに、今日はうす曇りの空に、かろうじて太陽の位置を見定めることのできる、そんな下り坂のお天気になった。
 本格的な冬が近いのだろう。

コメント
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