今回の上京中に、三つの美術館を巡った。
東京都美術館 『大エルミタージュ美術館展』
上野の森美術館 『ダリ生誕100年記念回顧展』
国立西洋美術館 『ベルギー王立美術館展』
『大エルミタージュ美術館展』や『ベルギー王立美術館展』といった類の展覧会は、関心のある大家の絵から、未知の画家に至るまで、多数の作品が展示されるため、後になってふり返ると、意外に印象の薄い場合が多い。
そこで、最近は、均等に観ることをやめ、心を惹きつけられた作品に、できるだけ多くの時間を割くといった、取捨選択の鑑賞方法をとることにしている。
ただ都会の美術館は、日時に関係なくよく混んでいる。そこで、引き返して眺めなおすことも、思うに任せぬことが多いし、一作品に時間をかけて鑑賞するというのも儘ならぬことが多い。
『大エルミタージュ展』は、友人と一緒だった。が、絵の鑑賞は、一人にかぎると、つくづく思う。人と一緒に出かけると、我侭を自認する私でさえ、やはり気を遣っているらしく、見終わった後に消化不良な感じになる。
一昨年の桜の季節、『ゴッホ展』を東京国立近代美術館で観た。身動きも自由にならないような混み具合だった上に、やはり友人と一緒だった。一度目はゴッホを観た気になれなかったので、翌日、一人でもう一度出直した。混雑の具合は変わらなかったが、一人だと、群集の間からでも、絵に対峙できる。
(私は、いかなる場所でも、群集の多さはほとんど気にならない。空気にも似た存在として受け止められる。が、友人の場合はそうはいかない……。)
今年の5月には、『朝倉彫塑館』にも、友人と出かけたが、そこは小規模な展示室だったので、くつろいで鑑賞でき、なんの問題もなかった。
『大エルミタージュ展』で、印象に残った作品で、出品リストを見ながら思い出せる絵といえば、ルノワールの「扇子を持つ女」、ドニの「婚礼の行列」、シスレーの「サン=マメスの川辺」、モネの「ジヴェルニーの干草」、ゴーギャンの「果実を持つ女」(この作品がポスターや入場券に使われている)、ピカソの「農夫の妻」、ボナールの「汽車と荷物のある風景」「ヴェルノン近郊のセーヌ川」、マティスの「リュクサンブール公園」、ルソーの「リュクサンブール公園、ショパン記念碑」、ユトリロの「マンモルトルのキュスティン通り」など。
『ベルギー王立美術館展』では、ピーテル・ブリューゲル(父)の作品か(?)とされている「イカロスの墜落」が、日本初公開ということで、これを主目的に入館した。今回展示の代表作品であるこの絵は、宣伝や入場券にも使われている。
ほんわかとした光や空気に包まれ、人や動物などの描写も細やかだ。墜落したイカロスは、海面に出た二本の足だけで表現されている。
イカロスは、<ギリシャ神話上の名工ダイダロスの子。父の発明した翼で空中を飛んだが、高く飛び過ぎ、太陽の熱で翼の蝋が溶け海に落ちて死んだという。>(広辞苑より)
ルーべンスの「聖ベネディクトゥスの奇跡」と、それを模写したドラクロワの作品が並んで掲げられており、なかなか壮観だった。二人の画家の微妙な違いも対比できて面白かった。
ベルギーの画家、ルネ・マグリット(1896~1967)を初めて知った。
「光の帝国」と「曲の声」が展示されていた。前者の静謐な美しさに魅せられた。
『ダリ生誕100年記念回顧展』は、ダリの作品がずらりと並んでいるのだから、一人の画家に心行くまで接することができ、見ごたえがあった。
上野の森美術館に至る道や美術館前に、異なる看板があり、それを眺めているのも楽しかった。どの看板にもダリがいる。(写真はその一つ)
独特の口ひげのダリは、ちょっと奇を衒いすぎている。まあ、それがダリらしいところだろうけれど。
子供のころや青年時代の写真を見ると、いかにも良家の子息らしく気品があってハンサムであるのに。
今までもダリはよく分からないと思っていたが、沢山の作品に接すれば接するほどますます分からなくなった。分からないが面白い。
ダリの複雑怪奇な精神構造から紡ぎ出された絵は、凡人の私がしばしば夢でみる説明不能な不可解な世界に似てなくもない(?)ような気がした。
ダリと家族
ダリとシュールレアリズム
ダリとカタルーニャ
ダリと偏執狂的批判的方法
ダリの晩年
という、五つのコーナーに分けて展示がなされていた。
友人のルイス・ブニュエルと一緒に制作された映画、『アンダルシアの犬』も上映されていたが、これまたよく分からなかった。弱い頭が疲れるばかりだった。
ダリ生存(1904~1989)の時代的、思想的背景や交友関係、妻ガラとの関わりなどの詳述された一冊の書、『ダリ』(ジャン=ルイ・ガイユマン著)を、美術鑑賞後に読んでみたが、それがダリの絵の理解を深くしたともいえない。
沢山の絵の中には、頭をひねらなくても分かる絵もあり、不可解な形状の絵でも、総じて色彩が透明で美しいことには感心した。
ダリは分からないながら、今後も気になる画家として、心に居座りそうな気がする。
帰宅後見た朝日新聞に、高階秀爾氏が、『ダリ回顧展』について書いておられた。
その冒頭の文に、
<数多い20世紀の芸術家たちの中で、ダリほど毀誉褒貶のはげしい画家はほかにない。>とある。
その通りだと思う。
私の友人も、「ダリは嫌い」と言って、全く興味を示さなかった。
私は好きというのではないけれど、人間ダリと、その絵に対して、やはり大いに関心はある。
東京都美術館 『大エルミタージュ美術館展』
上野の森美術館 『ダリ生誕100年記念回顧展』
国立西洋美術館 『ベルギー王立美術館展』
『大エルミタージュ美術館展』や『ベルギー王立美術館展』といった類の展覧会は、関心のある大家の絵から、未知の画家に至るまで、多数の作品が展示されるため、後になってふり返ると、意外に印象の薄い場合が多い。
そこで、最近は、均等に観ることをやめ、心を惹きつけられた作品に、できるだけ多くの時間を割くといった、取捨選択の鑑賞方法をとることにしている。
ただ都会の美術館は、日時に関係なくよく混んでいる。そこで、引き返して眺めなおすことも、思うに任せぬことが多いし、一作品に時間をかけて鑑賞するというのも儘ならぬことが多い。
『大エルミタージュ展』は、友人と一緒だった。が、絵の鑑賞は、一人にかぎると、つくづく思う。人と一緒に出かけると、我侭を自認する私でさえ、やはり気を遣っているらしく、見終わった後に消化不良な感じになる。
一昨年の桜の季節、『ゴッホ展』を東京国立近代美術館で観た。身動きも自由にならないような混み具合だった上に、やはり友人と一緒だった。一度目はゴッホを観た気になれなかったので、翌日、一人でもう一度出直した。混雑の具合は変わらなかったが、一人だと、群集の間からでも、絵に対峙できる。
(私は、いかなる場所でも、群集の多さはほとんど気にならない。空気にも似た存在として受け止められる。が、友人の場合はそうはいかない……。)
今年の5月には、『朝倉彫塑館』にも、友人と出かけたが、そこは小規模な展示室だったので、くつろいで鑑賞でき、なんの問題もなかった。
『大エルミタージュ展』で、印象に残った作品で、出品リストを見ながら思い出せる絵といえば、ルノワールの「扇子を持つ女」、ドニの「婚礼の行列」、シスレーの「サン=マメスの川辺」、モネの「ジヴェルニーの干草」、ゴーギャンの「果実を持つ女」(この作品がポスターや入場券に使われている)、ピカソの「農夫の妻」、ボナールの「汽車と荷物のある風景」「ヴェルノン近郊のセーヌ川」、マティスの「リュクサンブール公園」、ルソーの「リュクサンブール公園、ショパン記念碑」、ユトリロの「マンモルトルのキュスティン通り」など。
『ベルギー王立美術館展』では、ピーテル・ブリューゲル(父)の作品か(?)とされている「イカロスの墜落」が、日本初公開ということで、これを主目的に入館した。今回展示の代表作品であるこの絵は、宣伝や入場券にも使われている。
ほんわかとした光や空気に包まれ、人や動物などの描写も細やかだ。墜落したイカロスは、海面に出た二本の足だけで表現されている。
イカロスは、<ギリシャ神話上の名工ダイダロスの子。父の発明した翼で空中を飛んだが、高く飛び過ぎ、太陽の熱で翼の蝋が溶け海に落ちて死んだという。>(広辞苑より)
ルーべンスの「聖ベネディクトゥスの奇跡」と、それを模写したドラクロワの作品が並んで掲げられており、なかなか壮観だった。二人の画家の微妙な違いも対比できて面白かった。
ベルギーの画家、ルネ・マグリット(1896~1967)を初めて知った。
「光の帝国」と「曲の声」が展示されていた。前者の静謐な美しさに魅せられた。
『ダリ生誕100年記念回顧展』は、ダリの作品がずらりと並んでいるのだから、一人の画家に心行くまで接することができ、見ごたえがあった。
上野の森美術館に至る道や美術館前に、異なる看板があり、それを眺めているのも楽しかった。どの看板にもダリがいる。(写真はその一つ)
独特の口ひげのダリは、ちょっと奇を衒いすぎている。まあ、それがダリらしいところだろうけれど。
子供のころや青年時代の写真を見ると、いかにも良家の子息らしく気品があってハンサムであるのに。
今までもダリはよく分からないと思っていたが、沢山の作品に接すれば接するほどますます分からなくなった。分からないが面白い。
ダリの複雑怪奇な精神構造から紡ぎ出された絵は、凡人の私がしばしば夢でみる説明不能な不可解な世界に似てなくもない(?)ような気がした。
ダリと家族
ダリとシュールレアリズム
ダリとカタルーニャ
ダリと偏執狂的批判的方法
ダリの晩年
という、五つのコーナーに分けて展示がなされていた。
友人のルイス・ブニュエルと一緒に制作された映画、『アンダルシアの犬』も上映されていたが、これまたよく分からなかった。弱い頭が疲れるばかりだった。
ダリ生存(1904~1989)の時代的、思想的背景や交友関係、妻ガラとの関わりなどの詳述された一冊の書、『ダリ』(ジャン=ルイ・ガイユマン著)を、美術鑑賞後に読んでみたが、それがダリの絵の理解を深くしたともいえない。
沢山の絵の中には、頭をひねらなくても分かる絵もあり、不可解な形状の絵でも、総じて色彩が透明で美しいことには感心した。
ダリは分からないながら、今後も気になる画家として、心に居座りそうな気がする。
帰宅後見た朝日新聞に、高階秀爾氏が、『ダリ回顧展』について書いておられた。
その冒頭の文に、
<数多い20世紀の芸術家たちの中で、ダリほど毀誉褒貶のはげしい画家はほかにない。>とある。
その通りだと思う。
私の友人も、「ダリは嫌い」と言って、全く興味を示さなかった。
私は好きというのではないけれど、人間ダリと、その絵に対して、やはり大いに関心はある。