「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

(20240524)

2024-05-25 | live2002-2024

〇今回、初めて行った場所がキノシネマ天神という映画館で、キイロイトリがいるのは入口

 
 警固のカイタックスクエアガーデンというビル。こんなところができていたとは。元々天神や警固や大名といったこっち側のお洒落繁華街そのものが自分がほとんど来ないエリアな上に、建物が出来たのが2020年だそうで。確かに綺麗な区画だが、できたて、という感じではなく、数年たっている感じ。考えてみるとちょうど全面的外出禁止の頃で、それで気がつかなかったんだと気づく。何せ同じ福岡市内ですら中央区には数か月も来ることがない生活だったので。
 キノシネマ天神は比較的新しい「名画座」的な映画館だ。その手の映画館は市内だとKBCシネマとか中洲大洋の感じだが、中洲大洋は先日閉まってしまった。
 
 
・National Theatre Live「VANYA」(キノシネマ天神、5/24~)
 ナショナル・シアター・ライブはずっと中洲大洋でやってたのを、この映画館が引き継いでやってるらしいと聞いて、それで初めて来て映画館の位置を知る機会にもなった。スペースも名画座的な規模で入りやすい。
 演目はチェーホフ「ワーニャ伯父さん」からのサイモン・スティーヴンス翻案「ワーニャ」。古典的といっていい有名な話だからだいたいの流れは知っていた(上、広告やサイトのところで言っているストーリーがほぼそのあらすじなのだ)が、翻案で、大事なのは細部なのはもちろん。この劇を一人で8人(男性が4人、女性が4人)を演じてしまうらしいと聞いて、念のために「登場人物名」だけチェックしておいてよかった。台詞が全部英語だから、基本のロシアの人名を、英国的な人名の読み方に替えているのをそのまま理解できる。
 そして実際に見て、劇場中継的に客席も含めた雰囲気が伝わる。これまたアンドリュー・スコット氏「完全一人芝居」という繊細な力業(!)。この2時間が、あれよあれよと進んでいって、あっという間だった。衣装替えもないし舞台もそのままで、ドアを開けたり移動したり台所の水道をひねったり閉じたり、くらいの違いしかないのだが、全部、全員を演じてしまう(ラブシーンまで!)。その感情とか、思惑とか、ちょっとした皮肉とかから慟哭まで、それだけで見てる方にすごく伝わってくる。あ、今度はこの人になった、とその演じ方を追いかけているうちに、頭の中に8人で演じている舞台のイメージが立ち上ってくるような感覚を引き起こしてくる。恐るべし。
 話の意味も、今の自分だから若い時よりもよく実感できるのかもしれない。25年以上勤勉だったルーティーンの信条の、メッキが剥げて崩壊した時のダメージの強さ。これは辛いだろう。本当にそこから「生き直せる」?というようなことは、家族とか会社とか仕事とかいろんなところのどこにでもいろんなレベルでたくさんある。「ワーニャ伯父さん」ってそういう意味で古典だったんだ、と改めて思った。それがこの脚本アレンジと一人の芝居でよく了解できたところも、面白かった。
 はからずも先日から突然Andrew Scott祭りwみたいになっているのだが、前回の映画とまた全然違って、こんな表情もするのか、こんな声も出るんだ、と、一つのイメージだけで捉えられなくなってきた。老若男女のどれでもあるしどれでもないような、変幻自在。男性4人だけでなく、女性4人の演じ分け方もまた秀逸だった。フィルムでもしばしば息を飲んだが、これが生の舞台だったらさぞ強烈なんだろうな。一人芝居というと、そういえば日本にも安田顕という人を見た時に男性とも女性ともどちらでもありどちらともつかない不思議な存在感でえらく衝撃的であった、としみじみ思い出したり。落語、能などもそうで、見ている人の想像力との相乗効果で凄まじく精神を揺さぶってくる。こういうものを浴びると、脳や感覚への刺激なんだろうか、急に全身の細胞レベルで「活性化」されてる心地がする。やはり、演劇にせよ音楽にせよ美術にせよ文学にせよ、そういう刺激を時々浴びること自体が、自分が何か考えたり書いたりすることにとって必要なんだな、と思い直した。

 BGM:Ne me quitte pas / Jacques Brel
 聴いたことある歌だったがタイトルを思い出した曲シリーズの一つ。検索するとDusty Springfieldのカバーがすぐ出てくる(20240524)
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