そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

根室旧海軍牧の内飛行場のこと

2010-10-21 | 戦争

先週、ねむろ九条の会主催の”根室牧の内飛行場 慰霊・踏査”に参加してきた。根室市から101011_6trim_2先は、戦前は全く農家もない地域だった。根室市街から東に20キロほどのところに、海軍の空 港があった。昭和18年(1943年)に建設が始まった空港は「タコ」と呼ばれる、多くの日本人、朝鮮労働者によって建設された。

戦後の多くの資料が焼かれて、詳細は不明であるが相当数の朝鮮人労働者がいたようである。朝鮮人労働者用の「三角兵舎」は6棟あった。平均200名の定員に、250名ほどが収容されたよう101011_23syuku であることから、2000名ほどいたようである。朝鮮人兵舎は板一枚の極めて環境が悪い、半地下式のものだった。当時小学生として、勤労動員で協力した方の話を聞き、当時をうかがい知ることが出来たのは幸いである。

その方の話だと、真冬でも薄っぺらな着るものを付けているだけだった。痩せていて、労働しながらもいつ倒れるか分からないような、ふらふらで働かされていた。何人も死んだようであるが、詳細なことは何一つ残っていない。残されていないと言った方が正しいかもしれない。この方は、日本が中国や朝鮮に謝るのは当然で、何度謝っても償いきれるものではないと、目を潤ませながら話されていた。

終戦直前に発疹チフスが発生し、日本人を含む多くの方が亡くなられたとのことでした。根室市の献身的な医師が、朝鮮人などを治療に尽力されたとのことであるが、その方々(2名?)の医101011_18syuku 師も自ら感染し亡くなられたそうである。

現在残っているのは、コンクリート製の滑走路と、飛行機を収納する掩体壕だけである。木造の兵舎や格納庫や軍の施設や、根室の町から引かれていた鉄道も駅も今は影も形もない。僅かに残る滑走路で犠牲者の供養をした。

根室を訪れる多くの観光客でこの地を訪れるものはないし、地元の方々もほとんど知る人がいない。私達は、戦後ただひたすらにこうした戦争の傷跡を隠しながら走り続けてきた。過去を検証することがなく、新たな愛国心を奮い立たせようと政府もマスコミも躍起になっているように思える最近の風潮である。

コメント (1)
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