田中文科相(文部科学相)の4年制大学の許可申請に対する
不認可発言は、お笑い芸人の感覚だ、といわれても仕方ないで
あろう。第一、許認可に対する国権のシステムを何ら理解してい
ない。官庁は原則として申請に対して認可するというのが原則と
なっている。但し、法に適合しないものは不認可というのも原則で
ある。
たとえば、今回の3申請のうちの札幌保険医療大学申請の場合、
相当に厳しい行政指導がある。それに適合しない間は絶対に認可
されることはない。同大学の場合、文科省と札幌市の建設課と消防
等の行政指導を満たさなければならない。このため、あっちに行っ
たり、こっちに行ったり大変である。何十篇も足を運ばなければな
らない。その下打ち合わせの後で、ようやく建築許可が下りるので
ある。勿論、文科省も内諾していなければ、建設許可はおりない。
文科省でも、本気で申請しているのか、書面だけかを識別する必要
がある。したがって、施設の内容を文科省は点検、確認することは
絶対条件である。これらの長時間の作業が完了して、はじめて認可
されるのである。プランだけで認可されることは少ないのである。
今回は、認可直前になって田中文科相の不認可発言が飛び出した、
というのが実情であろう。すなわち田中氏はその国権のシステムが
全然わかっていなかった、といわざるを得ない。また、岡田副総理も
認可されていないうちから、キャンパスを建築するのはおかしいでは
ないか、という意味の発言をしている。これもトンチンカンな発言であ
る。すなわち、国権の現実をしらない国会議員がいかに多いか、とい
う問題が表面化したといえよう。このような現実を知らない大臣や議
員が「仕分け」などできるはずがない。すなわち、自分で許可申請し
た経験がない議員諸侯が多いということであろう。
田中真紀子氏は頭の良い人である。一を聞いて十を知るタイプであ
る。故田中角栄氏もそうであった。両氏の違いは、政治に対する真剣さ
である。角栄氏は法的に矛盾はないか、こう発言したら、どういう反応
があるか、ということを熟慮した上で発言し、行動した政治家だった。
法律にも詳しかった。真紀子氏は、国民受けすることが先行している気
がする。いわゆるお笑い芸人感覚が多すぎるのではなかろうか。石原
慎太郎前都知事が国会へ進出することを表明した時も、すかさず「暴走
老人」発言を発している。自分も68才の老人であることを忘れているよ
うな発言はいただけない。また、「不認可」から、「認可」へと変更した時、
「良い宣伝。4、5年はブームになるかも知れない」、と発言している。自
分の発言と行動をお笑いで帳消しにしようという感覚である。
故田中角栄氏の思い出として一つだけある。角栄氏が靖国神社に
参拝したことがある。その時、野僧は「田中万歳、靖国反対」という電報
を田中事務所に実名で送ったことがある。そうしたら翌日、野僧の寺の
総代が飛んできた。田中事務所から電話があったらしい。そのぐらい反
応が早かったのである。それからまもなく、反靖国の人たちに対して、
角栄氏が激怒している姿がテレビで放映されるのを見た。効果があった
のか、なかったのか、わからないが。10年前まで野僧は新潟の寺の住
職だったが、隣町まで角栄氏の選挙区だったからである。その総代は、
角栄氏が衆議院選に最初に出た時からの幹部だったのである。最初の
頃は、リヤカーに角栄氏を乗せて選挙運動をしたという思い出話を聞い
たものである。
田中真紀子氏は、もっと慎重な言動をすべきである。
‘あるべき姿’ の内容は、現実にはない。
だから、実況放送・現状報告の言葉では語れない。
日本語には、時制がない。
日本語脳には、未来時制の文章に対応する内容が生成できない。
意思は、未来時制の内容である。
日本人が自己の意思を表す形式を持っていれば、もっと口数が少なくなる。
意思を表す形式がないので、歌詠みが多くなる。空念仏が多くなる。
‘それで、どうした’の問いには、答えが出せない。
自分自身の’あるべき姿’ に関する内容を持っていないからである。
つまり、論拠がない。それで、議論にならない。
未来時制の文章があれば、辻褄の合った未来の内容がはっきりと見えている。
未来時制の文章がなければ、一寸先は闇。日本人の未来に関する発言は、矛盾を含んで支離滅裂となる。
考えれば考えるほど不安でたまらない。
日本人は、未来に関する内容で団結できない。鬼も笑いだす。
だから、未来社会の建設に着手することもない。
現在 (現実) に関する内容で団結もし、争いもする。これは、この世 (世俗) における序列に基づく日本人の活動の原動力にもなっている。むなしい。