今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

心理戦の高校野球決勝

2009-08-27 09:26:55 | Weblog
 全国高等学校野球選手権の決勝を甲子園球場
で初めて見た。落胆と期待、絶望と希望という
両極端に激しく揺れるエキサイティングな好ゲ
-ムだった。7年前まで新潟に住んでいた私は、
これが最初で最後の決勝進出になるかも知れな
いという思いから急きょ応援に行った。
 一回表に中京大中京の堂林選手の先制2ラン
がいきなり出た時は、ワンサイドケ゜-ムにな
るのではないかと思った。しかし、2回3回と
日本文理が一点づつ取り同点に追い付き期待感
がふくらんだ。
 しかし、中京が6回に6点取り、7回に2点
取った時には勝負は決したと思った。
 ところが、文理は7・8回に一点づつ取った。
その時点では時すでに遅しの感があった。その
差は6点である。文理のアルプス席で応援して
いた私は、「あと7点取れば勝てるぞ」と大声
で応援していた。しかしながら文理の追撃もこ
こまでだと私もスタンド全体もそういう雰囲気
に包まれていた。
 運命の最終回になって早くも2アウトになっ
てしまった。あと一人で終わりである。9回に
自分の希望で再登板した堂林選手は2アウトま
でとりながら最後の一球を取れなかった。結局
3点をとられ降板した。さらに文理は一点を取
り、なおも一・三塁に走者がいた。スコア-は
文理9点、中京10点の一点差である。この時
点で球場内の雰囲気は一挙に頂点に盛り上がっ
た。ほとんどの観客は文理を応援しているよう
な感があった。両校の選手たちも鳥肌が立った
であろう。しかし、結果はあっけなかった。好
い当たりのライナ-が三塁手のグラブに吸い込ま
れてしまった。文理の追撃はすさまじかった。
文理は「試合に負けたが、勝負にかった」とい
えよう。どちらが本当の勝者なのか分からない
ぐらいの名決勝戦だった。今後、このような決
勝戦は恐らくないのではなかろうか。
 この好ゲ-ムで感じたのは、両校の精神状態
である。初回に2点とった中京は、その時点で
ワンサイドゲ-ムになると思ったはずである。
また、6回に6点取った時点でも中京は勝った
と思ったはずである。その慢心が心にスキをつ
くったのではなかろうか。また、9回になって
あと一人、あと一球の難しさは精神状態の結果
としか思えない。その極限状態を云い現わして
いるのが「野球は2ダンから」という意味であ
ることが実感できた。「試合が終了するまで楽
観するのは禁物」である。「スコンスコン打た
れて投げる球がなくなる」のも精神状態の一つ
である。プレッシャ-であろう。「弱きを見て
あなどらず、強きを見て恐れず」という兵法の
基本は意味深長である。
 中京はよく頑張った。文理は大健闘した。両
校の選手、関係者に拍手を送りたい。日本文理
は5年前に春の選抜でベストエイトに進出して
いる。今後、中越、東北、北海道などの雪国な
どの高校の活躍が楽しみである。駒澤大学苫小
牧高の優勝が起爆剤になっているのであろう。
頑張れ全国の高校球児。

実現してほしい国立追悼施設

2009-08-17 06:36:26 | 宗教と戦争
 いよいよ衆議員選が始まる。これまで例のない各党
のマニフェストが出そろい興味津々である。その中で
も、「国立追悼施設」の設置をかかげた民主党の公約
が最重要であると考えている。これは野僧ばかりでな
く、神道信者などを除く全宗教者や平和希求運動家な
どの最大関心事であろう。
 かって靖国法案が廃案になった。その際の一番の問
題点は、靖国神社を無宗教化すべきかどうかという一
点が争点だったのである。神道はこれまでどうり神道
形式の祭事方法をを主張した。これに対し他の宗教関
係者や文化人は、無宗教の施設にすべきだと対立した
のである。その結果、神道形式を否定した靖国神社は
神道を否定するものであり賛成できない。一方、これ
までどおりの神道形式では反対だ、として双方の反対
で廃案となった経緯がある。
 この靖国神社の問題は、その後も「喉に刺さったト
ゲ」のように賛否両論の問題点として今日まで継続し
た社会問題となっている。先の大戦を全面的に肯定し、
何ら反省、否定しない神道関係者や好戦的な自民党政
治家の言動が注目されてきた。まさに好戦主義者の牙
城のシンボルとなっているのが現在の靖国神社である。
その中にあって無宗教の追悼施設の設置を主張した福
田元首相などは立派である。これらの問題は日本ばか
りでなく、近隣諸国、特に中国や韓国、さらには北朝
鮮の批判にさらされる一番の問題点となってる。それ
らの国にとっては、父母や兄弟が殺された怨みは永遠
に消えないだろう。その単純な理屈を理解できない与
野党の日本の政治家が多い。だから経済や技術は一流、
政治は三流といわれる所以の一つである。それから脱
皮する最大のチャンスである。
 しかし、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国
会議員の会」の中に民主党議員もいて、この15日に
2名の参議院議員が靖国に参拝している。したがって、
無宗教の追悼施設をかかげる民主党を全面的に信用し
ていいのか、という疑問が残る。
 一方、麻生首相は追悼施設について「選挙という騒
々しいところで話されるべきではない」、と14日発
言している。(読売新聞15日朝刊参照)。この思考
方法は逆である。日本国内はもとより諸外国が関心を
寄せる問題点を選挙の争点に据えるのは当然のことで
ある。場合によっては日本の将来に明暗を分けること
になるかも知れない重大事である。麻生発言は典型的
な利己主義といわれても仕方ないであろう。
 また、この15日に開催された「戦没者の追悼式」
は無宗教で執り行われた。しかし、その式典は立派な
ものだった。神道形式を執らなければ立派な式典にな
らないという発想は妄想であることを証明したといえ
よう。さらに、戦没兵士に対する追悼の念は日本国民
全員のものである。しかし、戦没兵士が「神(軍神)
」になるという発想は虚飾な考え方で幼稚な発想であ
る。
 また、「戦没者の追悼式」では軍人・軍属約230
万人、空襲や原爆で亡くなった一般市民約80万人も
慰霊の対象になっている。この点も靖国神社とは異な
っている。 
 民主党の掲げる「国立追悼施設」構想は、素晴らし
い政策といえよう。一般市民も対象にした追悼施設の
設置に期待したい。日本国民全員が何のわだかまりも
なく参拝できる追悼施設は必要である。また、何の宗
教であれ、自由に慰霊できる国立追悼施設は必要であ
る。もう一度戦争したいと誤解されるような現状の施
設は必要ない。第一、不愉快である。

核廃絶はシステムの点検から

2009-08-07 20:55:20 | 幸福の追求
 毎年8月になるとNHKは「第二次世界大戦」の
特集番組を放映する。戦争の残酷さ、悲劇、核兵器
の恐怖、人権の蹂躙、人生の破滅、平和運動の紹介
など内容はバラエティに富んでいる。見る人は誰も
が納得する内容である。有意義なものでもある。そ
れにもかかわらず、現実世界から戦争はなくならな
い。核兵器の保有国は増える一方である。なぜだろ
うか。
 その理由は簡単である。表面的な悲劇を訴えてい
るだけだからである。なぜ戦争は起こるのか、なぜ
核兵器を持ちたがるのか、などという根本原因の追
及が脆弱だからである。すなわち、政治家という国
家権力者の人間心理や、根本的なシステムの研究が
ほとんど取り上げられていないからである。
 結論を先に云えば、人間の欲望がシステム化して
いるのが現実世界の現状である。はっきり云えば、
悪システムである。他の国より豊かになりたい、他
の国より金持ちになりたい、他の国より豊かな生活
がしたい、他の国を支配したいという欲望である。
さらには、自国内でも他人より金持ちになりたい、
などという欲望がはびこっている。その根本は煩悩
である。このような現実世界を動かしているシステ
ムを根本的に否定しなければ、本当の平和、人間尊
重、真の幸福は実現できない。宮沢賢治が云うよう
に、「全世界が幸福にならなければ、個人の幸福は
ありえない」という貧富や戦争や核兵器のない理想
世界は実現できるはずがない。
 これらを簡単にまとめると、貨幣経済が諸悪の根
本である。野僧の著書で再三再四紹介しているとお
りである。それを否定しないで幸福論や平和論を弁
じても何の役にもたたない。空疎な無力感に陥るだ
けである。
 本当の平和を探求するならば、貨幣経済の根本問
題に突き当たるはずである。それを解決しないで理
想論を説いても人類の幸福はありえない。ブッダの
言葉を再吟味してほしい。そのブッダの考え方を批
判するならば、論理的に否定すべきである。日蓮も
云っている。「智者に我が義、破られずば用いず」
と。論理なき批判は、批判にあたいしない。世界中
にいくつ大学や研究機関があるかしれないが、無益
という範疇から脱していないのではないか。