「日蓮正宗聖典」の「相伝」に掲載されている
「法華本門血脈相承事」(本因妙抄)は偽書であ
る。その理由を列記しよう。
(1)「本因妙の行者日蓮之れを記す」とあるが、
「本因妙」という言葉を使った日蓮聖人の
真筆の御書は一つもない。造語である。
(2)「本因妙抄」の中で、見逃すことのできな
い一節がある。「脱益の法華は本迹共に迹
なり」とある。これは、「末法の世では役
に立たない法華経は、本門も迹門も、共に
迹である」という意味であろう。そこまで
法華経を否定するならば、なぜ「南無妙法
蓮華経」と唱えるのであろうか。自己矛盾
である。
尚、「脱益」を「役に立たない」などと
正宗などは解釈しているが、それは間違っ
た解釈である。「脱益」とは、「解脱の益
」という意味である。すなわち、解脱によ
って得られる利益のことである。したがっ
て、「脱益」という言葉から、「役にたた
ない」などの解釈は出てこない。この点に
ついては、「ブッダのレクイエム」(8章
)の中で説明しているので、ご覧いただき
たい。
(3)「名を日蓮に仮って本迹一致と云う邪義を
申し出して多くの衆生を当に悪道に引くべ
し」、とある。しかし、日蓮在世の時は、
本迹論争は激しくなかった。「本因妙抄」
は、後世になって書かれたものである。
(4)「久遠元初」という言葉は、日蓮の真筆の
御書のどこにも出てこない。
(5)「産湯の口決」とあるが、「産湯相承事
」は偽書である。このことは「ブッダのレ
クイエム」の本文中に書いたので省略する。
偽書で偽書を固めたようなものである。
(6)「本因妙抄」の書かれた日が、弘安5年1
0月11日となっている。しかし、日蓮が
死ぬ2日前頃は、相当体力が弱っていたは
ずである。筆を持つ力はすでになかったは
ずであり、偽書である。
その根拠は、弘安5年10月8日、日蓮
は六老僧を指名している。その時、日蓮に
書く力がなく、日興が書きとどめている。
ましてや長文の「本因妙抄」なるものを書
ける力はなかったはずである。
(7)弘安5年10月11日に、「本因妙抄」を
日興は、日蓮から賜った、と「日蓮正宗富
士年表」に書いてあるが、これもおかしな
話である。日興自身が書いた「御遺物配分
事」には、日興は「御馬一疋(鞍皆具、御
足袋一、頭帽子)、小袖一」となっている。
(8)この、「本因妙抄」の真偽について、執行
海秀先生(立正大学元教授)は、「日時本
は『本因妙抄』の正本によったものかどう
か、正本の所在を明らかにせずして写本の
みが正本に代わって現存していることいさ
さか疑問である。
富士宗学要集の編者は『本因妙抄』の
写本を挙げているが、もしそうであれば、
聖人滅後120年前後のものとなる。しか
し、聖人滅後120年頃には雑多な偽書が
成立した頃なので、この時代に『本因妙抄
』等が成立していたと見ても、さほど珍し
いことではない。このような立場からうが
っていえば、日時本は写本というより、む
しろ日時によって書かれたものと見ること
ができないではない」(「興門教学の研究
」執行海秀著。海秀舎刊)参照。
以上の理由で「本因妙抄」なるものは、偽書と
断定せざるを得ない。
なお、「昭和定本」(第3巻。2150頁)に
掲載されている「法華本門宗要鈔」なるものも偽
書である。その理由は簡単で、これが書かれたの
は、「弘安5年7月」となっている。この中で、
「六老僧」の名が挙げられている。「六老僧」が
聖人によって指名されたのは弘安5年10月8日
であって、矛盾している。日蓮が「法華本門宗」
という言葉を使った御真筆の御書は一つもない。
「法華本門血脈相承事」(本因妙抄)は偽書であ
る。その理由を列記しよう。
(1)「本因妙の行者日蓮之れを記す」とあるが、
「本因妙」という言葉を使った日蓮聖人の
真筆の御書は一つもない。造語である。
(2)「本因妙抄」の中で、見逃すことのできな
い一節がある。「脱益の法華は本迹共に迹
なり」とある。これは、「末法の世では役
に立たない法華経は、本門も迹門も、共に
迹である」という意味であろう。そこまで
法華経を否定するならば、なぜ「南無妙法
蓮華経」と唱えるのであろうか。自己矛盾
である。
尚、「脱益」を「役に立たない」などと
正宗などは解釈しているが、それは間違っ
た解釈である。「脱益」とは、「解脱の益
」という意味である。すなわち、解脱によ
って得られる利益のことである。したがっ
て、「脱益」という言葉から、「役にたた
ない」などの解釈は出てこない。この点に
ついては、「ブッダのレクイエム」(8章
)の中で説明しているので、ご覧いただき
たい。
(3)「名を日蓮に仮って本迹一致と云う邪義を
申し出して多くの衆生を当に悪道に引くべ
し」、とある。しかし、日蓮在世の時は、
本迹論争は激しくなかった。「本因妙抄」
は、後世になって書かれたものである。
(4)「久遠元初」という言葉は、日蓮の真筆の
御書のどこにも出てこない。
(5)「産湯の口決」とあるが、「産湯相承事
」は偽書である。このことは「ブッダのレ
クイエム」の本文中に書いたので省略する。
偽書で偽書を固めたようなものである。
(6)「本因妙抄」の書かれた日が、弘安5年1
0月11日となっている。しかし、日蓮が
死ぬ2日前頃は、相当体力が弱っていたは
ずである。筆を持つ力はすでになかったは
ずであり、偽書である。
その根拠は、弘安5年10月8日、日蓮
は六老僧を指名している。その時、日蓮に
書く力がなく、日興が書きとどめている。
ましてや長文の「本因妙抄」なるものを書
ける力はなかったはずである。
(7)弘安5年10月11日に、「本因妙抄」を
日興は、日蓮から賜った、と「日蓮正宗富
士年表」に書いてあるが、これもおかしな
話である。日興自身が書いた「御遺物配分
事」には、日興は「御馬一疋(鞍皆具、御
足袋一、頭帽子)、小袖一」となっている。
(8)この、「本因妙抄」の真偽について、執行
海秀先生(立正大学元教授)は、「日時本
は『本因妙抄』の正本によったものかどう
か、正本の所在を明らかにせずして写本の
みが正本に代わって現存していることいさ
さか疑問である。
富士宗学要集の編者は『本因妙抄』の
写本を挙げているが、もしそうであれば、
聖人滅後120年前後のものとなる。しか
し、聖人滅後120年頃には雑多な偽書が
成立した頃なので、この時代に『本因妙抄
』等が成立していたと見ても、さほど珍し
いことではない。このような立場からうが
っていえば、日時本は写本というより、む
しろ日時によって書かれたものと見ること
ができないではない」(「興門教学の研究
」執行海秀著。海秀舎刊)参照。
以上の理由で「本因妙抄」なるものは、偽書と
断定せざるを得ない。
なお、「昭和定本」(第3巻。2150頁)に
掲載されている「法華本門宗要鈔」なるものも偽
書である。その理由は簡単で、これが書かれたの
は、「弘安5年7月」となっている。この中で、
「六老僧」の名が挙げられている。「六老僧」が
聖人によって指名されたのは弘安5年10月8日
であって、矛盾している。日蓮が「法華本門宗」
という言葉を使った御真筆の御書は一つもない。