今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

日比谷公園水没(海面上昇)予測を防げるか?

2021-05-30 14:33:56 | 幸福の追求

日比谷公園水没(海面上昇)予測を防げるか?

 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は2019年9月に「IPCC

海洋・雪氷報告書」を発表した。その中に「地球の平均気温が4°上昇すると海面

は8m以上上昇し、東京の日比谷公園まで水没する可能性があると記されている。

他にニューヨーク、上海などの都市名があげられている。もし日比谷公園まで水没

すると、東京駅も含まれることを意味するものである。一大事といえよう。

この話になると「まだ何十年も先のことだろうし、大きな壁を海岸沿いにつくる

のではないか」、という楽観論が出てくることが多い。しかし、よく考えれば東京湾

全体が対象になるのではなかろか。いずれにしても、例えば高さが10mか15mの

巨大な壁を造ったとしても、壁内の河川や雨水や生活排水などを海にどう放流する

のかという問題が出てくる。うまく放流できなければ、本土内が水浸しになり大被害

が出ることになる。河口からの放水と、海水浸入を同時に解決する方法は不可能に近

い問題である。それらを考えれば、単純に壁だけで解決できる問題ではないことに気

づくであろう。このように考えると、単に東京だけの問題ではなく、日本全体、世界

全体の大問題であることが理解できるはずである。

いずれにしても今世紀末には日比谷公園まで水没するだろうとの予測である。ただし

、これまで通りのCO2が排出されればという条件付きである。したがって、CO2

の排出量を人類の智慧で抑制できれば水没から免れると読み取るべきであろう。し

かしその実現は至難の術ではない。化石燃料の代わりに太陽光発電、風力発電等が

あるが、太陽光発電の太陽光パネルは風害に弱い。風速40m(秒)以上の風で飛散

物がパネルに突き刺さったり、風速で太陽光を受けるパネルが吹き飛ばされようになる

のは目に見えている。風力発電器は風速40m(秒)以上の風でプロベラが折れたり

、発電器そのものが倒壊したりする重大の脆弱性がある。簡単に脱化石燃料の代替品と

いってもきわめて困難性を含んでいるのである。

 さらに、今回のコロナウイルス感染症は、実は2500年前から予測されていたので

ある。「長阿含経」には「(人間以外のもの)が毒を吐くから病気が蔓延する。そ

れに遭えばたちまち命を落とす。治療して救うのは困難である。」とブッダは説いてい

る。コロナ感染症は2021年5月28日現在、世界中の感染者は1億6897万人、

死者は3321万人である。今後さらに増える可能性を否定できない。その責任を日本

や世界中の為政者や官僚の責任だとして追及するのは妥当ではない。誰もが分からなか

ったことだったからである。ただし、私の粗書「地球成仏」(1998年出版)の中で

詳しく紹介し、今後、注意していただきたい、と明記している。しかし、私の主張

というより、仏典に明記していることを無視されて今日に至ったことは残念に思ってい

る。決して首相や諸大臣だけの責任ではないと考える。政治家諸侯全員の責任であろう。

この病災は今回で終わりではない。すでに次期の危険性ウイルスとして「モリウイリス」

の名前があがっており、対策を考慮すべきであろう。次から次と病災に悩まされるであ

ろう。

また、病災の次は「飢餓災」がくると説かれており、温暖化による高温化

によって農産物などが不作となり、食品不足による飢餓の時代がくる、とブ

ッダは説いている。暑さで農作物は実にまで育たないからである。灼熱地獄

を考えれば、身が縮む思いがする。その一例を紹介すれば、「アブ」という「

はえ科」の仲間で、刺されると猛烈な痛さをかんじる。それと同時にかゆさ

もある。いわゆる「痛がゆい」のである。子供の頃、昼寝をしているとアブ

に刺されて痛がゆかったことを思い出す。昨日の世界ニュースで、一頭の牛

がアブの大群に襲われて死亡するテレビ放映を見た。考えもしなかったこと

が現実になった場合、大変な事になると直感した。刺されるというが、実は

人間などの皮膚を食い破って血を吸うのが実体である。これはほんの一例で

ある。灼熱地獄は予想外の展開をするようで恐怖を感ずるものである。

さらにブラスチックゴミによって魚類が汚染されはじめた。プラスチック

が細分化され、そのマイクロプラスチックを飲み込んだ魚が増えている。こ

れらの現状から海産物も食べられない時代がすでにきているのかも知れない。

もっと学術的な研究が進めば、魚介類への影響がはっきり分かるようになり、

食の不安が今ひとつ増えることになるだろう。いずれにしても飢餓災は厳しい

ものとなる可能性が強い。人類は、これを食べると人体に悪いと知りながら、

飢餓に我慢できず、何でも食べざるを得ない時代になると思われる。

 いずれにしても、病災と飢餓災を繰り返し、文化・文明は滅び、最終的には

そまつな草衣(草などであんだ衣服)をまとった人たちが、わずかの食物や草

衣を奪い合う戦いで人類は滅亡するとブッダは説いている。その時、手にする

武器は木の枝や石という原始的な殺し合いだという。このような人類による最

後の戦いを刀災という。

 人類は病災と飢餓災を何回も繰り返し、最後には7日間にわたる原始的な戦い

(刀災)をして人類は滅亡することを「小の三災」とブッダは云っている。

その第一歩が病災なのである。コロナウイルスはコウモリに宿主し、さらに他の

動物に移って人間に感染する、とも聞いている。いずれにしても、コロナウイル

スは、ブッダの云う「病災」の第一歩ではないかとかんか得ざるを得ない。

 オリンピックを開催すべきか否か、という論議がテレビを賑わせている。私な

りに考えれば、外国から来るオリンピック選手と役員専用の10%分の病床を

日本側が用意できるかどうかが、第一の問題点であろう。第二に、日本人の病床

をどのくらい確保できるのかが第二の問題点だと思っている。その両方に政府や

地方自治体に自信があるならば、オリンピックを開催してもかまわない、と思っ

ている。その自信がなければ、オリンピックは開催できないのではないか、と考

える。


「親を捨ててもいいですか」(NHK)に反論する!

2021-05-28 12:05:06 | 幸福の追求

  NHK「クロ-ズアップ現代」で5月6日に上記の表題で放映された。「親を捨て

てもいいですか」―自分を虐げた親の介護― という副題がついているものである。

しかし親というものは、子供の幸せを第一に考えて子に接するものである。放映内容

を見ると、親の冷たい仕打ちを怨みと子は感ずるようである。また女の子が、小さい

時から母親からなぐられて折檻されたことに怨みを抱いているようである。それらは

親の気持ちをくわしく聞いてからでないと、一概に親だけせめるわけにはいかないの

ではなかろうか。親は、子の幸せを念ずるものである。社会人として大人になった時

に、恥をかかないようにと思って子に接し、養育するものである。子に血が出たり、

怪我をするような折檻を親はしないものである。私には6人の子がいるが、一度も子

を殴ったことはない。勿論、普段から怒ることは再々あった。しかし、子に手を挙げ

たことはない。

 あるとき夕食の席で、子の一人が「どもり」の話し方をした。女房やその他の子供

たちは面白がって笑った。そのとき私は大変なことになりそうだと思った。「馬鹿なま

ねをするな」といって本気で怒ったのである。「どもり」とは、言葉をなめらかに云う

ことができず、つかえて同じ音を何度も繰り返したりする話し方である。「あ、あ、あ

明日はあ、あ、あ、雨かな」というようなことを「どもって」云った。これは学校で

誰かの真似をして面白がっておぼえてきたに違いない、と思った。私が大声で本気で

怒ったのでその子は泣き出した。このようなときは、一緒に笑ってはだめである。な

ぜなら、本当の「どもり」になるからである。怒るのが「どもり」を防ぐ1番いい方法

なのである。その子はこれを契機に「どもる」まねを止めた。一般的には一度どもると

大人になってもなかなか直らないものである。自己嫌悪におちいる場合があると云う。

このことを教えてくれたのは父である。教えてもらっていてよかった、とつくづく思っ

たのである。それ以後、6人の子供達は一人も「どもった」話し方をする子は出なかった。 

放映の中で、母親から再三なぐられた、という女性は、本人の将来を心配した母親の

愛のムチだったのではないかと推測している。怪我するほどの鉄拳制裁ではないと思わ

れる。母親が怒るのは、それなりの理由があるのではなかろうか。女性の「自分は正しい

のに」という自己中心的な考え方をいましめた結果ではなかろうか。母が怒るのは、それ

相当の理由があるはずである。

  • NHKの表題がおかしい。「親を捨てても」という表題は間違っている。親の介

護で子が職業に専念できないのであれば、親を入所する福祉施設を推進すれば問題解決

できるはずである。その取り上げがたをせずに、「親を捨てても良いですか」という直接

的な問題提起の方法が間違っているのではなかろうか。

 母親は子供を受胎したときから、生まれてくる子のために体を大事にするものである。

健康で良い子がうまれますようにと祈念し、実行するものである。父親も同じ心境である。

さらに生まれた後も大事に育てるものである。それが本当の両親の姿である。この親心は

世界中おなじである。また親は自分の死を前にすると、子の安寧を祈り死後の世界

に旅立つものである。これを「究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩」と経典に説か

れている。「親を捨ててもいいですか」という表題だけが一人歩きして「親を捨てて

もいいんだ」という誤解を生み出す可能性がある。副題が付いているとはいえ慎重

にしてほしいと思っている。日本では「親孝行」という言葉自体が死語になっている

かのような現状ではあるが、世界中どこに行っても「親や老人を大切に」という考え

方は生きている。

 最後に、「岸壁の母」という双葉百合子の歌謡曲がある。私の大好きな歌の一つで

ある。「もしかして戦地から我が子が帰って来るのではないかと思って、帰還船が舞

鶴港に着くたびに母親が迎えに出るが、我が子は帰ってこなかった」、という歌詞で

あるが、「岸壁の父」も何人かいたと云われている。我が子を思う心は父と母も同じ

である。