今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

北朝鮮の蛮行に立ち向かえ!

2010-11-26 10:57:14 | 戦争と平和
 23日、北朝鮮は韓国の延坪島(ヨンビョンド)を砲撃した。民間人2人と海兵隊
員2人が死亡し、15人が負傷したと報じられている。韓国は北朝鮮に経済援助など
をして平和的に接しているにも拘わらず、北朝鮮が一方的に武力介入する事例は、歴
史上数えきれないくらいあったものと思われる。このような北朝鮮のような国家は、
前米大統領のことばを借りれば、「ならず者国家」といわれても仕方ないであろう。
 今回のように、片方の国家は平和的態度で臨んでいるのに、一方の国家が武力介入
する場合、どのように対処したらよいのかという命題はブッダにとって重大な問題だ
った。ブッダの結論は、「国王は国民の生命と安全と財産を守る義務がある」、「そ
れは自国民の安寧のため」の自衛権を明確に説いている。ブッダは人を殺すな、とい
う不殺生戒を説いているが、例外的に、他国が不法に侵入、または武力介入した場合
は、勇敢に戦って侵入軍を追い出せと説いている。その結果、敵軍兵士を殺すことに
なるが、止むを得ないことだと説いている。いわゆる自衛のための戦争は肯定してい
る。「何よりも自国民を守るため」である。この意味からしても、我が国の自衛隊の
存在を正しく認識すべきである。
 いずれにしても、今回の北朝鮮の砲撃を正当化することはできない。蛮行という以
外にない。このような無法国家を根絶することが今後の世界市民の義務であろう。そ
のためには、一刻も早く「世界軍」を創設し、世界中で無法国家に立ち向かうシステ
ムを構築する必要がある。一国対一国では全面戦争になる可能性があり、多大な犠牲
者を出す危険性がある。しかし、「世界軍」と全面戦争になれば、世界中の国家群と
一国が戦うことになる。それは、いかなる無法国家といえども戦う意思を削ぐもので
あり、蛮行行為はもとよりより、無法国家の存在そのものが不可能、不成立となるこ
とを意味している。
 今回の北朝鮮の残虐行為に対して褒美を与えることだけは避けるべきである。罰を
与える必要がある。無法国家に対して自虐的、卑下した態度は間違っても取るべきで
はない、と考える。

感動的な「なかにし礼・不滅の歌謡曲」

2010-11-20 09:45:23 | メディア
 NHK「プレミアム8」・「なかにし礼・不滅の歌謡曲」を見た。前篇1時間30分、後編
1時間30分の二部構成となっていた。なんとなく録画した。最初の一回は、大ざっぱに見た。
何の感動もなかった。真剣に話を聞かなかったからである。二回目は懐かしい歌につられて見
た。礼氏の話に興味がわいた。3回目はメモを取りながら真剣に見た。感動的な内容だった。
 現在の歌謡曲やポップスは音楽ではないと思っている。礼氏のヒット曲の時代までは歌謡曲
も良かった。現在の歌は聞くに耐えないと感じている。むしろ不快に感じる時がある。どうし
てこんなことになったのか不思議に思っていた。昔の音楽はメロディ-が主体だった。現在は
リズムが主体だと云われる。特に高齢者にとっては同じ思いの人が多いのではなかろうか。
 次に、歌謡曲の歌詞は生々し過ぎる、と思っていた。特に男女の愛を歌う歌詞が身近に感じ
られていやだった。反面、欧米などのジャズやポップスは歌詞の内容が分からず、メロディや
リズムを楽しんでいた。また、バンド演奏だけの曲が野僧は好きだった。自分の夢想の世界に
ひたることで満足した。
 しかし、今回の「なかにし礼・不滅の歌謡曲」は感動的なものだった。日本の歌謡界の認識
を完全に反転させられる説得力のある内容だった。とくに大正時代は自由、平等、博愛を求め
る社会情勢の中で、歌謡曲は3拍子だったという。
 昭和になって軍国主義が押し進められる中で、軍歌中心の2拍子となった。その中で、古賀正
男氏の名曲「影をひたいて」は、「まぼろしの影をひたいて」という女性を追慕する女々しい
男の歌だった、と礼氏は分析している。結局、この歌は軍国主義に抗することを意図したもの
だったのではないかと、と礼氏は云いたかったのではなかろうか。しかし、その後、古賀氏は
軍歌を数多く作曲するようになった。軍部からの要請と圧力があったのかも知れないと推測さ
れる。特に、「建設の歌」は、多くの若人などを積極的に中国などへ入植させ、命を落とす原
動力になったと礼氏は分析している。また、礼氏は古賀氏の自宅へ何度も招かれることがあっ
たという。その時、観音像を安置しているのを確認している。おそらく、若人を入植させ、死
地に追いやる結果になったことに対する贖罪から、観音像に手を合わせる日々だったのではな
かろうかと礼氏は見ているようである。一方、山田耕筰氏も「大陸の黎明」という軍歌を作曲
している。いずれも魂を売り渡す戦争犯罪人として連合国から罰せられるのではないかと心配
したと云われる。幸いそれは杞憂にすぎなかった。
 ところで礼氏が作家になったのは石原裕次郎氏からの偶然の誘いがあったからだと告白して
いる。昭和38年、伊豆のホテルで石原裕次郎氏の新婚さんだけのディナ-ショ-があった。
そこに礼氏も出席していた。ショ-の始まる前に、石原氏から礼夫妻は指名され、石原氏のそ
ばに座らされたという。実は、ロビ-で新婚さんの品定めを石原氏はしていたという。その中で
礼氏夫妻が一番かっこが良い、ということになったということである。そして何をしているの
かと聞かれ、シャンソンの翻訳をしていると答えた。日本人なんだから日本語の歌を作詞して
はどうかと進められたという。歌ができたら石原プロに持ってきてほしい、協力できるかもし
れないと云われたという。当時、石原氏は「太平洋ひとりぼっち」という映画の撮影中だった
という。この映画をぜひ見てほしい、と石原氏はいったという。その映画ができて見たら、礼
氏が忘れられないシ-ンがあったという。それはヨットの中で、短波放送を聞いていて、村田
秀男氏の「王将」の一節に「」ふけば飛ぶよな将棋の駒に、かけた命を笑わば笑え」という部
分で、「ふけば飛ぶよな小さなヨットに、かけた命を笑わば笑え」と石原氏が歌い、一粒の涙
を流すシ-ンに感動したと礼氏はいっている。それから「涙と雨にぬれて」という曲を礼氏は
作詞・作曲した曲を石原氏のもとにもっていったという。裕圭子、ロスインディオスの歌で発
売され、20万枚のヒット曲になったという。また、石原氏に頼まれて作詞したのが、「わが
人生に悔いはなし」で、発売2ケ月後に石原裕次郎氏は他界した。また、美空ひばり氏に歌っ
てもらった「さくらの唄」は、礼氏が自殺したいぐらいに落ち込んだときの曲で、そのエピソ
-ドも感動的な内容であった。
 一方、日本の歌謡界に新風を吹き込み、幅を広げたのは「ブル-シャト-」だったと述懐し
ている。しかし、現在のような歌謡界になった原因に対する分析は今一だった。なかにし礼氏
は今後ともわれわれ日本人に好い歌を作ってほしい、と期待している。

尖閣問題と中国の品格

2010-11-11 10:22:29 | 戦争と平和
 尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件は中国の国家としての品格のレベルを
象徴している。今回の事件は、尖閣諸島の地下の資源を求める中国の強
引な政治手法を示したものである。すなわち、国土の拡張欲をストレ-
トに表現したものである。これまで中国は南方でもほぼ同じ行動をして
いる。
 古くはチペット侵略では百万人以上のチベット人が殺され、あるいは
手足を切断されるなどの地獄の様相を呈していたと云われている。さら
にはチベット人の住む村々を回って避妊手術をしてチベット人の絶滅を
はかってきた。(『中国はいかにチベットを侵略したか』、マイケル・
ダナム著、山際素男訳、講談社。参照)。
 また、同書によれば、チベット侵略から世界の耳目をそらすために、
北朝鮮をそそのかして韓国に侵攻させたと思わざるを得ない事例が示さ
れている。いずれにしても、中国は国土の拡張欲のためには地獄の手段
もいとわない国といえるのではなかろうか。
 さらには最近、チベット族の学生に中国の共通語である漢語を強制し
ていることに対する抗議デモが青海省などで起きているという。今月の
6日に来日したダライ・ラマは「チベットで文化的虐殺が起きている」、
と訴えている。同じ地球人として、同じ仏教徒として中国のチベット政
策には憤慨せざるを得ない。
 また、国内の民主化を求める人々を平気で武装弾圧するミャンマ-の
軍政を支持している。さらに、国民を弾圧し、隣国なとに核の脅威を吹
聴して憚らない北朝鮮を支持する中国は、民主主義を否定する国家と云
わざるを得ない。世界の民主化の動きと正反対だからである。また、人
権などをまったく無視し続ける国といわざるを得ない。いかに中国が
経済的な影響力を持っているとしても、国家としての品格は低いもので
あって、尊敬される国家としての品格はない。
 最近、これらの状況から日本では核武装を訴える人々もいる。確かに
核開発は日本にとって、きわめて簡単なことであろう。しかし、太平洋
戦争にたいする反省から世界の平和と民主化の重要性にめざめた日本は
核武装することはあり得ないだろう。したがって、中国や北朝鮮、さら
にはミャンマ-などは自制すべきである。「寝た子を起こす」べきでは
ないと考える。
 一方、日本国内でも尖閣問題等、慎重に対処すべきであろう。一番安
全なのは、国連に訴えて対策を練る国連中心主義で行動すべきではない
かと思われる。

「COP10」の視点

2010-11-04 19:33:43 | 環境
 「COP10」が10月30日に閉会した。その「名古屋議定書」と「愛知タ-ゲット」を
見ると、一見筋の通った説得力のある内容に思えるが、どこかかみ合わない違和感を感じる。
 たとえば「20年までに森林を含むすべての動植物の生息域の損失速度を可能ならゼロに
近づけ、少なくとも半減し、劣化や破壊を大幅に減らす」、「魚類と無せきつい動物資源お
よび水生植物の管理、収穫については、持続的、合法的で、生態系に配慮した方法をとる」、
「20年まで、知られている絶滅の危険がある種が絶滅することを防ぐ」など納得できる内
容に見える。(読売新聞、北海道新聞、参照)。
 しかし、その視点は、「人類は滅びない」という先入観と願望の上に立った人類の目から
見たものであって、大局的、客観的な視点から見た公正なものとは云えない。逆説的には、
絶滅危惧種といわれている白クマやその他の動植物の立場から見れば、「人間様よ、我々の
ことを心配する余裕はあるのかい。あんたたち人間様が一番の絶滅危惧種であることを見落
としているのではないのかい」と、云うかもしれない。すなわち、視点そのものが間違って
いるのである。
 2030年頃には、東京などの夏の常温は40度になると予測する科学者もいる。また、
その科学者は2050年頃には東京などは人間の住める温度ではなくなるとも予測している。
さらに東京が水没する場合もあり得る、と真剣に対策を考え始めたとも報じられている。こ
の期に及んで、まだ温暖化を認めない非科学的な人種がいる。救いようのない現状である。