「中共がチベット国民、道徳、人種、宗教、
それら社会集団を丸ごと抹殺することによって
絶滅しようとしたことが、1948年の国連ジ
ェノサイド協定に触れるのは明白である」、と
いう報告書を1959年6月、国際法曹委員会
が出した。その報告書の中で、「チベットは歴
史的に独立国であり、中国の一部でないことは
明白である」、と結論づけているのは非常に意
義深い。(「中国はいかにチベットを侵略した
か」参照)。
今年3月に発生したチベット暴動の際、数種
のマスコミがチベットは中国の国内問題として
報道したのは間違っている。確かに、チベット
自治区として中国の一部であるのは事実である。
しかし、チベットが中国に侵略され、併合され
る過程で、中国側の強引な手法と欺瞞の協定に
よってなされた事実は消しがたい。
8世紀頃にはチベット、中国国境はまったく
定まっていなかった。1949年、チベットと
中国との国境線は、中国側が河の東側の領有権
を主張するリチュ上流域を挟んで争われていた。
当時、毛沢東の中共軍の勝利につぐ勝利で蒋介
石は敗走の一途をたどっていた。1949年1
0月、毛沢東は新生中国を名乗った。それと同
時に、チベットを「帝国主義者」から解放する
ために人民軍をチベットに侵攻させる用意があ
る、と発表した。
しかし、その当時チベットにいた外国人は8
人だけだった。毛沢東の詭弁であることが分か
るであろう。中共軍がチベット侵攻を開始した
のは翌年の1950年3月のことである。その
年の6月25日、北朝鮮が38度線を突破した。
歴史的な見方を変えれば、毛沢東が北朝鮮を故
意に38度線を突破させた、という見方も一理
あるのかも知れない。それは、中共軍のチベッ
ト侵略を国際監視とマスコミの目から反らすた
めだったと考えられる。世界の目を朝鮮戦争に
釘付けにさせようとしたかったからではなかろ
うか。毛沢東の狡猾さを感じざるを得ない。こ
のようにして、国際的な目を気にしないでチベ
ット侵略を毛沢東は実現したのである。
翌、1951年5月、全権を委任されてもい
ないチベット代表団は、北京にいた。その時、
「17箇条協定書」が代表団に突きつけられた。
「わが代表団は協定のどんないい換えも、示唆
も許されなかった。侮辱され、罵られ。暴力を
振るわれ、チベットを軍隊で占領してやると脅
迫され続けた」、その結果、その代表団のアポ
達は、その脅迫に負けて署名させられた。その
際、チベットの代表団は国璽をもってこなかっ
た。当然である。全権を委任されていなかった
からである。しかし、中国側は、偽の国璽と判
を直ちに作って署名させたのである。
その「17箇条協定書」の内容は、仏教、信
仰、チベット人の風俗慣習は尊重する。僧院は
保護される。僧院の収入に干渉しない。チベッ
ト軍は再編成され、人民解放軍に吸収される、
というものであった。しかし、最後の2項目以
外はすべて嘘であった。これまで紹介した中共
軍の残虐行為を見れば、一目瞭然であろう。人
間ここまで嘘をつけるのであろうか。
いずれにしても、チベットは、チベット人に
まかせるべきである。
それら社会集団を丸ごと抹殺することによって
絶滅しようとしたことが、1948年の国連ジ
ェノサイド協定に触れるのは明白である」、と
いう報告書を1959年6月、国際法曹委員会
が出した。その報告書の中で、「チベットは歴
史的に独立国であり、中国の一部でないことは
明白である」、と結論づけているのは非常に意
義深い。(「中国はいかにチベットを侵略した
か」参照)。
今年3月に発生したチベット暴動の際、数種
のマスコミがチベットは中国の国内問題として
報道したのは間違っている。確かに、チベット
自治区として中国の一部であるのは事実である。
しかし、チベットが中国に侵略され、併合され
る過程で、中国側の強引な手法と欺瞞の協定に
よってなされた事実は消しがたい。
8世紀頃にはチベット、中国国境はまったく
定まっていなかった。1949年、チベットと
中国との国境線は、中国側が河の東側の領有権
を主張するリチュ上流域を挟んで争われていた。
当時、毛沢東の中共軍の勝利につぐ勝利で蒋介
石は敗走の一途をたどっていた。1949年1
0月、毛沢東は新生中国を名乗った。それと同
時に、チベットを「帝国主義者」から解放する
ために人民軍をチベットに侵攻させる用意があ
る、と発表した。
しかし、その当時チベットにいた外国人は8
人だけだった。毛沢東の詭弁であることが分か
るであろう。中共軍がチベット侵攻を開始した
のは翌年の1950年3月のことである。その
年の6月25日、北朝鮮が38度線を突破した。
歴史的な見方を変えれば、毛沢東が北朝鮮を故
意に38度線を突破させた、という見方も一理
あるのかも知れない。それは、中共軍のチベッ
ト侵略を国際監視とマスコミの目から反らすた
めだったと考えられる。世界の目を朝鮮戦争に
釘付けにさせようとしたかったからではなかろ
うか。毛沢東の狡猾さを感じざるを得ない。こ
のようにして、国際的な目を気にしないでチベ
ット侵略を毛沢東は実現したのである。
翌、1951年5月、全権を委任されてもい
ないチベット代表団は、北京にいた。その時、
「17箇条協定書」が代表団に突きつけられた。
「わが代表団は協定のどんないい換えも、示唆
も許されなかった。侮辱され、罵られ。暴力を
振るわれ、チベットを軍隊で占領してやると脅
迫され続けた」、その結果、その代表団のアポ
達は、その脅迫に負けて署名させられた。その
際、チベットの代表団は国璽をもってこなかっ
た。当然である。全権を委任されていなかった
からである。しかし、中国側は、偽の国璽と判
を直ちに作って署名させたのである。
その「17箇条協定書」の内容は、仏教、信
仰、チベット人の風俗慣習は尊重する。僧院は
保護される。僧院の収入に干渉しない。チベッ
ト軍は再編成され、人民解放軍に吸収される、
というものであった。しかし、最後の2項目以
外はすべて嘘であった。これまで紹介した中共
軍の残虐行為を見れば、一目瞭然であろう。人
間ここまで嘘をつけるのであろうか。
いずれにしても、チベットは、チベット人に
まかせるべきである。