最近、「和尚とよばれた牧師」(地引き網出版)という本
を読んだ。著者の三浦光世師は、キリスト教のパブデスト派
の牧師である。牧師になる前に、仏教を知りたいと駒沢大学
に入って、首席で卒業した。その後、当初の予定通り神学校
で勉強し、牧師となったユニークな人物である。
その著書の中に、「放蕩息子、家に帰る」という章がある。
「放蕩息子の譬え話は、四福音書の中に見られる主イエス
の数多くの譬え話の中の白眉とも言うべきものであろう。繰
り返し聞いても、何かジーンと心にしみる感動が常に伴う。
法華経の信解品にも、これによく似た長者窮子(ちょうじゃ
ぐうじ)の譬えというのがある。それはあくまで、煩悩の虜
になっている窮子(放蕩息子)を、長者に扮した仏が悟りに
導くという内容であるが、いささか技巧的で、不自然な印象
を免れない。それに較べて、ルカによる福音書15章11節
の放蕩息子の話は、いかにもリアルで、父なる神の我ら罪人
に対する劇的な愛を如実に表していると思う」と書かれてい
る。
「新訳聖書」の「ルカの福音書(15)」に、「放蕩息子
のたとえ」が載っている。(「聖書」新改訳2001年7月
第11刷。いのちのことば社)参照。要約すると、
「ある人に息子が二人あった。弟は『お父さん、私に財産
の分け前を下さい』といった。父は、身代を二人に分けてや
った。それから、幾日もたたないうちに、弟は遠い国に旅立
った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってし
まった。何もかも使い果たした後で、大飢饉がきた。彼は食
べる物に困り果て、飢え死にしそうになった。父のところに
は、パンがあり余っている。こうして父のもとに行った。家
までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、
走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さ
ん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しま
した。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』。
ところが父親はしもべたちに言った。『急いで一番良い着物
を持ってきて、この子に着せなさい。手に指輪もはめさせ、
足に靴をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て料理
して食べようではないか。』そして彼らは祝宴を始めた」。
この場合の父とは、「神」を意味し、放蕩息子は一般大衆
を意味する。
これに対し、「法華経信解品(しんげほん)第四」の「長
者窮子」の譬え話は、次のようなものである。
「ある富裕な長者に一人の息子があった。父は財をなした
が、その息子は50年もの間、諸国を流浪し、知らぬまに、
落ちぶれて故郷に戻って来る。息子の帰りを待ち望む父の家
の前までくるが、彼にはそれが自分の実家であることさえわ
からない。かえって威徳ある父の姿を見て、恐れおののき、
逃げ去ってしまう。しかし、父は息子に気づき、使いをやっ
て彼を連れてこさせる。息子は恐怖に震えながら、引きずら
れ、ついに失神してしまう。父は事情を察して彼を自由にし
てやり、息子は貧民窟へと戻る。長者は一計を案じ、息子を
傭い人として次第に打ち解けて行く。父であることを打ち明
けずに、こうして20年を経て、死期の近づいたことを知っ
た長者は、親族の者たちを集め、彼が実の息子であり、財産
をすべて譲ることを告げる」。
この場合、長者は仏(ブッダ)を意味し、息子は衆生を意
味している。仏は思慮深い父として、衆生を次第に自分の方
に引き寄せ、最後に仏の世界に入ることを譬えたものである。
この放蕩息子と、長者窮子の譬え話は、表現こそ違え内容
は、そっくりである。古来から、どちらが先にできた話なの
か、という論争がある。
まず、「新約聖書」の「ルカの福音書」の執筆年代は西紀
61年以前といわれている。カイザリヤで書いたとすれば5
7年か58年、ローマで書いたとすれば59年か60年であ
る。(「新改訂」ルカの福音書、緒論)参照。
一方、「信解品」が書かれたのは、紀元前1世紀頃という
布施浩岳説がある。また、西紀40年頃という中村元説があ
る。布施説は、文献的な言語学の立場からの結論である。一
方の中村説は、社会、経済史的な観点からの結論である。
(「法華経」上。岩波文庫。429~438頁)参照。
布施説に立てば、法華経の信解品の方が、「ルカの福音書」
よりも、約100年早く書かれたことになる。中村説に立てば、
両書ともに同時期に書かれたことになる。中村先生は、同時説
の立場から、「慈悲が東と西とで、ほとんど同時に特に強調さ
れるようになったのは興味深い符号である」と言っている。(
「比較宗教から見た仏教」中村元著。東方出版。159頁)参
照。
この論争に際し、見逃せない「ルカの福音書」(2ー25~
35)の記述がある。それと対象する意味で、最古の仏典とい
われる「スッタニパ-タ」の中の「ナーラカ」を要約して紹介
しよう。
「予言者アシタ仙人は、須弥山に住んでいる神々が大喜びし
ながら歌い踊る幻を見た。その理由を聞くと、『無比のみごと
な宝であるボディーサットバ(菩薩)がもろびとの利益安楽の
ために人間世界に生まれた。シャカ族の村に。ルンビニーの聚
落に。だから我らは嬉しくなって非常に喜んでいるのです』と
答えた。それからアシタはカピラ城に尋ねて行き、『王子はど
こにいますか。わたしもまた会いたい』と頼んだ。アシタはこ
ころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。『これは無
上の方です。人間のうちで最上の人です』と声を挙げた。しか
し、自分の行く末を思って涙を流した。シャカ族の人は心配し
てアシタに聞いた。『われらの王子に障りがあるのでしょうか
』。アシタは答えた。『わたしは王子に不吉の相があるとは思
っていない。彼に何の障りもないでしょう。この方は凡庸では
ありません。よく注意してあげて下さい。この王子は最高のさ
とりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々
のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。こ
の方の清らかな行いは、広く弘まるでしょう。ところが、この
世におけるわたしの余命はいくばくもありません。(この方が
さとりを開かれる前に)わたしは死んでしまうでしょう。だか
ら、わたしは悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです』。(「スッ
タニパータ」中村元訳。岩波文庫)参照。
これに対し、「ルカの福音書」(2-22~34)には、似
たような記述がある。
「モーゼの律法による清めの期間が満ちたとき、両親は幼子
(イエス・キリスト)を主にささげるためにエルサレムに連れ
て行った。そのとき、エルサレムにシメオンという人が
いた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められる
ことを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
また主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお
告げを受けていた。彼が御霊(みたま)に感じて宮に入ると、
幼子イエスをつれた両親が、その子のために律法の習慣を守る
ために入ってきた。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神を
ほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたのしもべを、みこ
とばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなた
の御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えら
れたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄
です』。父と母は驚いた。また、シメオンは両親を祝福し、母
マリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多く
の人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、反対を受ける
しるしとして定められています。剣があなたの心さえも貫くで
しょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです」。(「
イエスは仏教徒だった?」エルマーグルーバー+ホルガー・ケル
ステン著。市川裕+小堀馨子監修。岩坂彰訳。同朋社発行。
角川書店発売)参照。
このシメオンとアシタ仙人は酷似している。「スッタニパ-
タ」は最古の仏典といわれ、ブッダが生きている時に、実際に
言った言葉が含まれているのではないか、と言われている。恐
らくブッダ入滅の年に開かれた第一結集の時に編纂されたもの
と思われる。紀元前4世紀のことである。これに対し、「ルカ
の福音書」の執筆年代は西紀61年以前といわれている。これ
らの年代を比較した場合、ルカは仏典を見るか、聞いて書いた
としか思えない。これはあきらかにコピーである。
ルカはパウロの弟子である。パウロはイエス・キリストの死
後にキリスト教徒になっている。いずれにしても、ルカはキリ
ストの孫弟子にあたる。
このように、ルカは一部分であれ、仏教に精通していたよう
である。そんなに長文でもない「ルカの福音書」の中に、仏教
と共通する話が二つも出てくるのは偶然であろうか。不自然で
ある。おそらくルカは「法華経の長者窮子」の話を知っていた
のではないか、という疑問を完全に払拭することはできない。
これらを総合的に考えれば、「ルカの福音書(15)」の「
放蕩息子」の話は、「法華経」の「信解品第四」の「長者窮子」
のコピーの可能性があるのではなかろうか。
「キリスト教が仏教から直接の影響を受けたと信じる人が次
第に増えている」と「イエスは仏教徒だった?」の著者は言っ
ている。上記のほかに、「ヨハネの福音書」も仏教の影響が色
濃く見ることができる。いずれかの機会に紹介したい。
を読んだ。著者の三浦光世師は、キリスト教のパブデスト派
の牧師である。牧師になる前に、仏教を知りたいと駒沢大学
に入って、首席で卒業した。その後、当初の予定通り神学校
で勉強し、牧師となったユニークな人物である。
その著書の中に、「放蕩息子、家に帰る」という章がある。
「放蕩息子の譬え話は、四福音書の中に見られる主イエス
の数多くの譬え話の中の白眉とも言うべきものであろう。繰
り返し聞いても、何かジーンと心にしみる感動が常に伴う。
法華経の信解品にも、これによく似た長者窮子(ちょうじゃ
ぐうじ)の譬えというのがある。それはあくまで、煩悩の虜
になっている窮子(放蕩息子)を、長者に扮した仏が悟りに
導くという内容であるが、いささか技巧的で、不自然な印象
を免れない。それに較べて、ルカによる福音書15章11節
の放蕩息子の話は、いかにもリアルで、父なる神の我ら罪人
に対する劇的な愛を如実に表していると思う」と書かれてい
る。
「新訳聖書」の「ルカの福音書(15)」に、「放蕩息子
のたとえ」が載っている。(「聖書」新改訳2001年7月
第11刷。いのちのことば社)参照。要約すると、
「ある人に息子が二人あった。弟は『お父さん、私に財産
の分け前を下さい』といった。父は、身代を二人に分けてや
った。それから、幾日もたたないうちに、弟は遠い国に旅立
った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってし
まった。何もかも使い果たした後で、大飢饉がきた。彼は食
べる物に困り果て、飢え死にしそうになった。父のところに
は、パンがあり余っている。こうして父のもとに行った。家
までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、
走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さ
ん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しま
した。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』。
ところが父親はしもべたちに言った。『急いで一番良い着物
を持ってきて、この子に着せなさい。手に指輪もはめさせ、
足に靴をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て料理
して食べようではないか。』そして彼らは祝宴を始めた」。
この場合の父とは、「神」を意味し、放蕩息子は一般大衆
を意味する。
これに対し、「法華経信解品(しんげほん)第四」の「長
者窮子」の譬え話は、次のようなものである。
「ある富裕な長者に一人の息子があった。父は財をなした
が、その息子は50年もの間、諸国を流浪し、知らぬまに、
落ちぶれて故郷に戻って来る。息子の帰りを待ち望む父の家
の前までくるが、彼にはそれが自分の実家であることさえわ
からない。かえって威徳ある父の姿を見て、恐れおののき、
逃げ去ってしまう。しかし、父は息子に気づき、使いをやっ
て彼を連れてこさせる。息子は恐怖に震えながら、引きずら
れ、ついに失神してしまう。父は事情を察して彼を自由にし
てやり、息子は貧民窟へと戻る。長者は一計を案じ、息子を
傭い人として次第に打ち解けて行く。父であることを打ち明
けずに、こうして20年を経て、死期の近づいたことを知っ
た長者は、親族の者たちを集め、彼が実の息子であり、財産
をすべて譲ることを告げる」。
この場合、長者は仏(ブッダ)を意味し、息子は衆生を意
味している。仏は思慮深い父として、衆生を次第に自分の方
に引き寄せ、最後に仏の世界に入ることを譬えたものである。
この放蕩息子と、長者窮子の譬え話は、表現こそ違え内容
は、そっくりである。古来から、どちらが先にできた話なの
か、という論争がある。
まず、「新約聖書」の「ルカの福音書」の執筆年代は西紀
61年以前といわれている。カイザリヤで書いたとすれば5
7年か58年、ローマで書いたとすれば59年か60年であ
る。(「新改訂」ルカの福音書、緒論)参照。
一方、「信解品」が書かれたのは、紀元前1世紀頃という
布施浩岳説がある。また、西紀40年頃という中村元説があ
る。布施説は、文献的な言語学の立場からの結論である。一
方の中村説は、社会、経済史的な観点からの結論である。
(「法華経」上。岩波文庫。429~438頁)参照。
布施説に立てば、法華経の信解品の方が、「ルカの福音書」
よりも、約100年早く書かれたことになる。中村説に立てば、
両書ともに同時期に書かれたことになる。中村先生は、同時説
の立場から、「慈悲が東と西とで、ほとんど同時に特に強調さ
れるようになったのは興味深い符号である」と言っている。(
「比較宗教から見た仏教」中村元著。東方出版。159頁)参
照。
この論争に際し、見逃せない「ルカの福音書」(2ー25~
35)の記述がある。それと対象する意味で、最古の仏典とい
われる「スッタニパ-タ」の中の「ナーラカ」を要約して紹介
しよう。
「予言者アシタ仙人は、須弥山に住んでいる神々が大喜びし
ながら歌い踊る幻を見た。その理由を聞くと、『無比のみごと
な宝であるボディーサットバ(菩薩)がもろびとの利益安楽の
ために人間世界に生まれた。シャカ族の村に。ルンビニーの聚
落に。だから我らは嬉しくなって非常に喜んでいるのです』と
答えた。それからアシタはカピラ城に尋ねて行き、『王子はど
こにいますか。わたしもまた会いたい』と頼んだ。アシタはこ
ころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。『これは無
上の方です。人間のうちで最上の人です』と声を挙げた。しか
し、自分の行く末を思って涙を流した。シャカ族の人は心配し
てアシタに聞いた。『われらの王子に障りがあるのでしょうか
』。アシタは答えた。『わたしは王子に不吉の相があるとは思
っていない。彼に何の障りもないでしょう。この方は凡庸では
ありません。よく注意してあげて下さい。この王子は最高のさ
とりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々
のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。こ
の方の清らかな行いは、広く弘まるでしょう。ところが、この
世におけるわたしの余命はいくばくもありません。(この方が
さとりを開かれる前に)わたしは死んでしまうでしょう。だか
ら、わたしは悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです』。(「スッ
タニパータ」中村元訳。岩波文庫)参照。
これに対し、「ルカの福音書」(2-22~34)には、似
たような記述がある。
「モーゼの律法による清めの期間が満ちたとき、両親は幼子
(イエス・キリスト)を主にささげるためにエルサレムに連れ
て行った。そのとき、エルサレムにシメオンという人が
いた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められる
ことを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
また主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお
告げを受けていた。彼が御霊(みたま)に感じて宮に入ると、
幼子イエスをつれた両親が、その子のために律法の習慣を守る
ために入ってきた。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神を
ほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたのしもべを、みこ
とばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなた
の御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えら
れたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄
です』。父と母は驚いた。また、シメオンは両親を祝福し、母
マリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多く
の人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、反対を受ける
しるしとして定められています。剣があなたの心さえも貫くで
しょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです」。(「
イエスは仏教徒だった?」エルマーグルーバー+ホルガー・ケル
ステン著。市川裕+小堀馨子監修。岩坂彰訳。同朋社発行。
角川書店発売)参照。
このシメオンとアシタ仙人は酷似している。「スッタニパ-
タ」は最古の仏典といわれ、ブッダが生きている時に、実際に
言った言葉が含まれているのではないか、と言われている。恐
らくブッダ入滅の年に開かれた第一結集の時に編纂されたもの
と思われる。紀元前4世紀のことである。これに対し、「ルカ
の福音書」の執筆年代は西紀61年以前といわれている。これ
らの年代を比較した場合、ルカは仏典を見るか、聞いて書いた
としか思えない。これはあきらかにコピーである。
ルカはパウロの弟子である。パウロはイエス・キリストの死
後にキリスト教徒になっている。いずれにしても、ルカはキリ
ストの孫弟子にあたる。
このように、ルカは一部分であれ、仏教に精通していたよう
である。そんなに長文でもない「ルカの福音書」の中に、仏教
と共通する話が二つも出てくるのは偶然であろうか。不自然で
ある。おそらくルカは「法華経の長者窮子」の話を知っていた
のではないか、という疑問を完全に払拭することはできない。
これらを総合的に考えれば、「ルカの福音書(15)」の「
放蕩息子」の話は、「法華経」の「信解品第四」の「長者窮子」
のコピーの可能性があるのではなかろうか。
「キリスト教が仏教から直接の影響を受けたと信じる人が次
第に増えている」と「イエスは仏教徒だった?」の著者は言っ
ている。上記のほかに、「ヨハネの福音書」も仏教の影響が色
濃く見ることができる。いずれかの機会に紹介したい。
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