私が手稲文化協会を知ったのは、昭和55年でした。前年に美唄東高校から転勤してきまして、自宅を手稲に持ちました。転勤してきた年は、多忙で学校のことで明け暮れました。2年目になって漸く暇を使えるようになり、転勤まで続けていた詩吟を亦やりたくなりました。そのとき、まだ札幌に今まで所属していた流派の道場があることを知りませんでした。それで、新しく始める心算で、手稲の公民館で稽古を夜間にやっている、日本詩吟学院の道場に入れていただきました。先の流派では6段まで貰っていたのですが、実力は極めてつきで有りませんでした。ですから、5級からの出直しも甘んじて受けました。
その詩吟学院が手稲文化協会に加入していて、文化祭に出演します。それまでただ吟じるだけだったのですが、私が提案して、私が作ってあげてオーバーヘッドプロジェクターで詩文をみていただきながら吟をするようにし、更に詩文の解説も私が書き、ナレーションとして入れることなどもやったりしました。その上、指導をしてくださった日裏龍風先生は、コンダクターを使い,更に詩文の解説なども丁寧になさっていて、教室がとても楽しいのです。そんなことをしているうちに、以前の流派とのつながりが出来て、とてもいけないことなのですが、二流派を掛け持ちで勉強することに為りました。そして、詩吟学院の5段の時、以前の流派の準師範の資格を頂くことが出来ました。ここで、日裏先生のところへ出向いて、経緯をお話しし、お詫びして、学院を止めさせていただくことにしました。
その後、私が学校のPTAのかた達に作っていただいてた詩吟の同好会を、私の詩吟の道場にし、以前の流派に加入しました。その後、手稲にも私の道場が出来ましたので、会員の皆様の出演の機会を多くするため、文化協会にも加盟することにしました。加盟して数年後、文化協会の会計の方が退会され、その後に私が推薦され役員となったのでした。その2年後が文化協会創立50周年でした。この頃は、活動f文化祭だけで、活動場所は手稲コミニュティセンターでした。10年前に手稲区となって、新しい区民センターがとても便利の良い現在の位置に出来、それまで中心だったコミニュティセンターはとても不便なところと為り、文化祭もコミュニティセンター運営委員会の行事として開催され、それがそのまま文化協会の文化祭と言うことで、文化協会の存在自体が曖昧になっていました。年で言うと平成11年でした。平成12年に私は文化協会事務局長に選任されました。早速、取り組んだのが、伝統芸能祭でした。区民センターを会場とし、手稲区の後援事業に指定していただきチャリティの形で6月に開催、大成功と為りました。特に、日舞は各会の先生達が古典舞踊を中心に発表し、見ごたえのあるものと為り、収益16万円くらいだったと思いますが、有珠山噴火災害援助に寄付をいたしました。また、文化祭も区長の計らいで区民センターでの開催することが出来るようになったのでした。(以下後日に)
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