手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

漢詩の訓読文のリズム

2017-03-09 18:53:55 | 詩吟関係

 詩吟では漢詩の訓読文を主たる教材としている。

 詩吟をやりながら、訓読文のリズム感にとても好感を抱いている。漢文を訓読する場合、古典文法に随うことになっているから、当然古文調なのだけれど、古文は口語にないリズム感がありますが、それだけでないものがある。

 訓読というのは漢文を日本語の文法に随って読み直す事ですから、日本語として理解できる形に訳されなければならないのです。しかし、普通の日本語の感覚からかなり飛躍したものがあります。それが詩吟独特のリズム感を出すことになっていて詩吟の面白さにもなっています。

 例えば、李白の峨眉山月の歌を例にとってみましょう。「峨眉 山月 半輪の秋 / 影は 平羌 江水に入って 流る」と訓読されている。これは日本語としての正しい読み方とすれば「峨眉山 月 半輪の秋 / 影は 平羌江水に入って 流る」と読み下すべきなのでしょうが、そうなっていない。これは、七言絶句の構成「2・2・3」という定型のリズム感を大切にした訓読によるものです。表現が飛躍した読み方になっているけれど、リズム感は特に漢詩を将に読んでいる実感に近くなり素晴らしいものに感じる。

 詩吟を聞いている中で、よく「南朝 四百八十寺」とか「南朝 四百 八十寺」と言うように「四百八十寺」は熟語だから切ってはいけないといって続けて読み吟じているのを聞く。まだ「八十寺」だけを離すのであれば我慢ができるけれど、四百八十寺を続けて読み吟じるのは、漢詩のリズムを完全に壊していますし、詩吟でなくなっています。三字熟語の場合、「一・二」または「二・一」にすることが無理な漢詩もあります。たとえば佐々木岳甫さんの詩「大雪山」の中の、大雪山・天人峡・層雲峡、北海童は、詩自体が定型を崩して作られているのだから、三字で読むべきだと思うけれど、定型の漢詩では分けて読むのが、リズムだと思います。

 

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