平成11年、文化祭は50回、半世紀を迎えました。私はこの前年から会計係として役員の仲間入りをしました。そんなこともあり50周年記念には、かなり関わりました。そんなことで記憶をたどりながら少し書いてみようと思います。
平成10年、私が役員になった時、この話が出ました。当時の会長は澤田哲生氏で、手稲コミュニティセンターの事業部長も務めていました。澤田氏が役員会で提案したことは、『文化祭50周年記念をやります。なお、手稲区区制施行10周年にもなるから、区から冠を付けさせていただき、永年功労団体には区からの表彰もいただくようにしたい』とのことでした。その交渉は澤田氏がやり、その通りに成りました。平成11年、実行委員会を立ち上げ、出発するに当たり一つ問題が出てきました。それは、タイトルなのです。会長の提案は「第50回手稲文化祭記念」ということなのです。実は、私も役員になるまでわからなかったのですが、手稲文化祭はいつの間にか手稲文化協会主催ではなく、手稲コミュニティセンター運営委員会の主催となっていて、しかし出演団体の調整、ブログラムの作成は手稲文化協会が総てやっているのです。そして、文化祭当日になると、(当時私にはわからなかったのですが)コミュニティセンターの運営委員が何人も出て、文化祭の仕事をしているのです。私の全く面識の無いような人が仕事を仕切っているのです。
この50周年記念というのは手稲文化協会創立50周年とばかり思っていた私にとっては理解の出来ないことと成りました。文化祭がコミユニティセンターの行事だとしたら、その記念式典はコミセンが主催しなければならないか、少なくても手稲文化協会だけで実行委員会を組むことは出来ない筈なのです。
そこでタイトルが「手稲文化協会・手稲文化祭50周年記念」と改め、手稲文化協会で実行委員会を立ち上げ開催する運びとなったのです。
このとき、最初の提案をした澤田会長が病気で入院してしまい、この後の進行が大変なことに成りました。これまで、殆ど澤田会長の言うままに受け入れてやっていて、相談に乗っていた人がいないのです。副会長も事務局長も、何もわからない有様なのです。それでも当時の事務局長が病院まで出かけて会長の意向を聞いてきたりするのですが、あまり要領を得ない状況で苦労しました。
私は、50周年記念誌の編集担当とされ、実質一人で作り上げました。一番苦労したのは、初代、二代の会長さんの写真を探すことでした。お二人ともお亡くなりになっていて、家を探すこと自体が大変でした。入院はしているものの澤田会長は沿革の掘り起こしや、渉外折衝をほぼやりきってくださいました。
この50周年記念、とにかく無事やり終えたのですが、この経緯の中で、澤田会長のワンマン的采配に対する不満が噴出して、平成13年度を勤めて会長から降りる方向が決まったのでした。平成13年に私が事務局長に推され、それ以来今に到るのですが、ここから手稲文化協会もまた新しい時代へと代わるのです。その辺は明日続けて書いて見ます。