旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

西部邁著「経済倫理学入門」

2008年01月14日 23時57分20秒 | Weblog
久しぶりに西部邁の著作に目を通してみた。古本屋で立ち読みをした段階ではレトリックが過ぎるような気がしないでもなかった。それにしても105円である。迷わずに買った。「ケインズの墓碑銘」と「ヴェブレンの黙示録」の二部構成である。

ケインズ理論の中核が数学であることを承知している、だから興味がわかない。また、殆どの経済学のテキストはケインズ理論にふれているので、西部の手を借りる必要もない。飛ばし読みで済ませた。読書に関しては好き嫌いが激しいのである。

異端の経済学者ヴェブレンについては「ヴェブレン研究」という専門書をもっている。十分な予備知識があるし、勃興期のアメリカ経済の実相について描かれた「有閑階級の理論」は若かりし頃の愛読書だ。

衒示的(げんじてき)消費という概念は、消費の動機一般が、その使用価値にのみ依存するものではないことを見事に例証している。例えば金持ちは、他人よりも高いものやサービスを買うことそのものに消費の動機があるのであって、コストや使用することによって得られる効用と価格との間には、学者たちが言うほどの相関関係がないというのである。

ヴェブレンは典型的な奇人変人であった。どのくらい変っていたかについて西部の言及は詳細にわたっている。ところが西部の表現は、どちらかというと社会科学的ではなくて文学的なのである。その結果、ヴェブレンの奇人変人ぶりの印象が強すぎて、その個性が彼の経済学にどのような影響を与えたかについて解明することに失敗しているように思う。


夢のカリフォルニア

2008年01月14日 20時59分33秒 | Weblog
夢のカリフォルニア
(California dreamin)

All the leaves are brown
All the leaves are brown
And the sky is grey
And the sky is grey
Ive been for a walk
Ive been for a walk
On a winters day
On a winters day
Id be safe and warm
Id be safe and warm
If I was in l.a.
If I was in l.a.
California dreamin
California dreamin
On such a winters day

Stopped into a church
I passed along the way
Well, I got down on my knees
Got down on my knees
And I pretend to pray
I pretend to pray
You know the preacher likes the cold
Preacher likes the cold
He knows Im gonna stay
Knows Im gonna stay
California dreamin
California dreamin
On such a winters day

All the leaves are brown
All the leaves are brown
And the sky is grey
And the sky is grey
Ive been for a walk
Ive been for a walk
On a winters day
On a winters day
If I didnt tell her
If I didnt tell her
I could leave today
I could leave today
California dreamin
California dreamin
On such a winters day
California dreaming
On such a winters day
California dreaming
On such a winters day


Mamas & The Papas lyrics

執着

2008年01月14日 12時19分42秒 | Weblog
つい最近、若い女友達から「観念と意欲の塊のようなひとね、なにもかも自分の定規で測らないと気が済まないひとなのね?」とお褒めの?言葉をいただきました。「ああ。」と答えておきました。「山岡鉄舟に憧れる愚者」さんのアドバイスもありがたく、わたしなりの「無の境地」で拝読させていただきました。

「無を目指したら」の無は、おそらくは禅でいうところの無のことじゃないかと推察します。「悟りとはどのような境地を言うのですか?」と師如浄に問いかけた道元に対して、師は「悟りとは坐禅のことをいう。」と答えています。きっと「自分の頭で考えろ。」という助言なのでしょうね。

鈴木大拙はその著作のなかで、禅宗は中国人の仏教であって、シッダールタ固有の仏教とは異なる仏教であると考えた方が理解しやすいと評しています。原始仏典を心の糧にしています。 原始仏典を通読して見えてきたのは、シッダールタの宗教は思想の範疇なのではないのかということです。無の境地については改めて学んでみることにします。

このように考えるわたくしですから、執着や欲(特に学ぶ意欲)を容易に断ち切ることができそうにありません。ただ「いっそ ご自分の物差しを捨てて,無を目指したら,叡智が生まれるような気がします…」という励ましのお言葉は、しっかりと心にとどめておきます。ありがとうございました。


続 釈迦に説法

2008年01月14日 03時37分06秒 | Weblog
資本主義の世の中では、企業はサービスないしは財貨を売って儲け続けない限りは倒産の憂き目にあいます。経済的に安定して初めて哲学だの思想だのと言えるのであって、倒産しそうな会社に勤めていたり、破産しそうな生計を営んでいるようではそんな余裕なんて生まれません。

不労所得があるひとや学歴に既得権益があるひとならば、思想だの哲学だのに「ウツツヲヌカス」余裕もあることでしょう。ところが、わたしのように不労所得はない、際立った学歴もないとなると、営業の実践の中から、またはアフターファイブを利用して「哲学する」「思想する」しかないわけです。

過酷な現実に直面して悩んでいるビジネスマンが多い。わたしのような生業としての会社勤め、すなわちサラリーマンやビジネスマンを業とする労働者は、我が国の圧倒的な多数派です。だから、お金儲け専従の結果、精神や心が荒廃しやすい環境下にあります。哲学とか思想にふれることと営業という極めて資本主義的な職種とは馴染まないと考えているひとも多いし、実際にビジネス、特に営業の世界では哲学や思想が無力です。数字が優先する分野ですから、挙績の悪い営業の哲学や思想は総じて「いいわけ」であるととられてしまいます。

突き詰めると解決法は二通りに集約されます。すなわち環境(外界)を変えるか自ら(内面)を変えるか。われわれに世界観を提示して、正しい勤労について指針を与えてくれたり、心に新たな息吹を与えるのが哲学なり思想なりの力じゃないのかと考えてます。新たに何事を始めるにもまず必要なのは先達からのヒントです。宗教や信仰だっておそらくは同様の力をもっているのじゃないかと思います。(特定の信仰をもっていないので、正直なところよく解りません。)

以前にも書いたように、目下、王陽明クレイジーです。「知行合一」とか「心即理」とか「万物一体の仁」とかの成句で知られています。原著に当たって、これらの成句にかかわる部分を通読するだけで、日本語的な響きとはかなり異なった含蓄がありますのでお勧めしておきます。中国哲学、といっても儒学のごく狭い学識しかありません。それでも「論語」や「大学・中庸」、陽明の「伝習録」を読むだけで見えてくるものがあります。

でもご用心。わたしの心に響く同じ古典が、例えばおしゃかさんの心に響くとは限りません。興味ないしは知的な好奇心が赴くまま片っ端からとにかく読んでみる。こういう読書がわれわれの哲学なり思想なりを形造ってゆくのでしょうね。以上、「釈迦に説法」になっていないことを祈っています。長文に駄文で失礼しました。

酔っ払いの戯言

2008年01月14日 00時29分33秒 | Weblog
一昨日の夜の9時頃から始めて、その翌日にあたる昨日の午前2時頃まで食べて飲んだ。美味しいイタリア料理にワイン、美女二人に知性派の男性とわたし。最高のステージが用意された。ところがである。自分のからだにやさしい方のわたしはかなりご立腹のようすだ。「もう2度と酒を飲むな、滋養の豊富な美味しい料理に手をつけるな。」とえらい剣幕である。

飲み代・食事代は、明らかにわたしより年少である医師の資格を持つ知性派の男性のブラックカードで支払われた。かれは、コンピュータをはじめとする文明の進展を理由に、古典は一般に古臭いとけなした。貶めた。古典に目を向ける余裕すらないから、みずからの進路を悩むのである。理屈ではない。古典の良さが解らないようなひとには碌な人間がいないということを言い聞かせたつもりであるが、理科系は一般に古典に疎い。説得に失敗したようだ。

わたしは食前酒としてワンボトル6,800円也のワインを注文した。ドクトルは17,000円也のワインを注文したらしい。そのあたりも気に入らない。これじゃ、美女2人に対して貫禄負けである。しかし、明らかに大衆向けのイタメシ屋であのワインは行き過ぎである。しかし、ドクトルは結果的にいいワインを選んでいた。美味しかった。肩書きで敗れ、資金力で敗れた。フランスワインなら負けない。イタリアワインは、よく解らないとひとりうそぶいてみる。

とはいっても、けっこう謙虚な好青年というか好中年ドクトルなので、そのあたりの無礼の数々は大目に見てあげることにした。しかし、わたしに内緒で、しかも、ブラックカードで支払いを済ませたことだけは許せない。東京に行く機会があるので、おごり返す旨の連絡だけは済ませておいた。こちらはもちろん平カードだ。イタメシ屋でワンボトル17,000円のワインは行き過ぎだ。食前酒はできることなら、ワンボトル5,000円以下で済ませたいものである。

昨日、所蔵するクラブの新年会があった。夕方の5時ごろから飲み始めた。酒はやたらに勧めるが、肴が貧弱である。ビールを2杯飲んでから白ワインをデキャンタで2本分飲んだ。したがって生演奏が終わる9時ころには既に空腹であった。そこであろうことか、一昨日のイタメシ屋でまたしてもコースを食べるはめになってしまった。一昨日の店でビールが2本ほど新たに胃袋に消えた。一昨日の深夜2時を回って別れたドクトルと美女のうちのひとりのカップルは、美味しいお酒を飲ませる店を知らないかと尋ねたそうである。恐るべしアメリカ帰り。

飲み過ぎたので、昨日の同伴者と1時間ばかりいっしょに歩いた。そして別れた。幸いなことに間違いは起こらなかった。良かった。3キロばかりを歩いた。わたしと相手の距離は平均で4メートル、ニアミスは生じなかった。帰りのタクシーの運転手さんから「最近特に中年男性とかなり年少の女性とのカップルが多い。ほいじゃがその殆どは破たんして、男の方がひどい目に遭ったという話をよく聞くけん、お客さんも気をつけなさいよ。」とありがたい説法を受けた。「火遊びをするほどの度胸はないし、実際にもてないからご心配なく。」と正直に言いたかったが、「そうじゃね、気をつけんといけんね。」と笑ってその事実をごまかした。けっこう見栄っ張りなのである。昨日は無事、昨日中に帰宅することができた。

そして本日(正確に言うと、すでに昨日)世話になった方の奥様が逝去されたという連絡を受けた。今日がお通夜で、明日が葬儀である。今日のお通夜で合法磊落なドクターは、赤く泣きはらした目で弔問の皆さんに挨拶をされた。こちらも、つい辛い気持になった。涙がこみ上げてきた。明日(正確に言うと今日)が葬儀である。ドクターがのぞまれているので葬儀にも出席する。奥様もよく存じ上げていたのだ。