「なに小難しいこと言ってるのか。」と一蹴されそうで、誰かに聞くには気が引ける。だからといって、テキストのどこを読んでもルビがふってないので、何度読み返しても平仮名やカタカナでの読み方が浮かんでこないというもどかしい題名があった。富永仲基の「出定後語」と石田梅岩の「都鄙問答」がそれだ。昨日、本腰を入れて辞典に当たってみたら「しゅつじょうこうご」「とひもんどう」と読むことが判明した。やはり辞典・辞書の類は重宝だ。今夜はこれでぐっすりと眠れる。
富永仲基、石田梅岩に続いて荻生徂徠を読み始めた。徂徠は、中国先王の時代に書かれた書物は当時の言葉で読めという。翻訳や改作、現代語訳で読むのは邪道だというのである。その徂徠を「日本の名著 荻生徂徠」(現代語訳)で読み始めた。短編の「学則」から入って長めの短編「弁道」まで読み進んだ。現代語訳でも、徂徠の思考が骨太であることを窺うことくらい出来る。また、読み進むほどに徂徠儒学の骨格を体感しているような気になってくる。文が明快だからか、それとも私の方が徂徠を理解できる歳になってしまったのか。