職場は閑散期に入った。お盆前は例年こうなのだそうだ。来所者の姿はまばらだ。手続きのマニュアルに目を通したり、過去の仕事を点検するだけの時間的な余裕を持つことができるようになった。
暇な時には行政とは何か、とか、ひとにとって職業はどのような意義を持つのだろうか、とか、職業教育と学校教育とをうまく調和させることはできないものだろうか、とかについて考えてしまう。思いを巡らせても現在の仕事と絡めてしまうのが私の癖だ。もっと普遍的ななにかに目覚めるとよいのだが、根がワーカーホリックで趣味が読書なのだからやむをえまい。
小林秀雄のランボオ論を読み直してみた。詩を放り投げたのちのランボオの内在は商売人のそれだ。今となっては、ランボオ10代の詩は思春期という「過剰な時代」を表現したありふれた作品だといわざるをえない。魂の冒険家であったランボオに対する小林の羨望が見え隠れする。
もう一度ランボオ論を読み返してから、以前読んだ「無常といふ事」を紐解きたい。何十年ぶりにかに読み直すことになる。読み終えたのち私の成長をみるか衰退をみるか、そこが楽しみだ。
暇な時には行政とは何か、とか、ひとにとって職業はどのような意義を持つのだろうか、とか、職業教育と学校教育とをうまく調和させることはできないものだろうか、とかについて考えてしまう。思いを巡らせても現在の仕事と絡めてしまうのが私の癖だ。もっと普遍的ななにかに目覚めるとよいのだが、根がワーカーホリックで趣味が読書なのだからやむをえまい。
小林秀雄のランボオ論を読み直してみた。詩を放り投げたのちのランボオの内在は商売人のそれだ。今となっては、ランボオ10代の詩は思春期という「過剰な時代」を表現したありふれた作品だといわざるをえない。魂の冒険家であったランボオに対する小林の羨望が見え隠れする。
もう一度ランボオ論を読み返してから、以前読んだ「無常といふ事」を紐解きたい。何十年ぶりにかに読み直すことになる。読み終えたのち私の成長をみるか衰退をみるか、そこが楽しみだ。