goo blog サービス終了のお知らせ 

旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

ドイツ哲学

2007年06月02日 00時01分23秒 | Weblog


『カントは、ドイツ語で、ギリシャ以来の哲学的思考を「翻訳」しながら、しかも独創的に考えようとした。ところが、カント時代のドイツ語は、学問語としては、一地方語に過ぎなかった。いまだラテン語が学問語であった。

したがって、カントの考えがきわめて重要であったにもかかわらず、それを簡明に盛り込むレディーメイドの「自国語」がなかった。だから、カントが造らなくてはならなかった。生煮えのドイツ語、生硬な表現の連続になった。

学問語はラテン語として固定すると、ごく少数の専門人にしか伝わらなくなったように、ドイツ語で哲学が成熟すると、ドイツ語以外での哲学はだめで、カント・ヘーゲル以外は哲学ではないという理由から、ドイツ語圏以外のところにうまく哲学が広がらなくなってきた。

日本に哲学が輸入されはじめたのは、ドイツ哲学が硬直化し始めた時期に当たる。ちょうどカントがドイツ語で「哲学」的思考を行ったように、日本人は、ドイツ語からの「翻訳」を通じて、日本語による哲学・論理的思考を始めた。』

「大学教授になる方法」で駄本を売りまくった鷲田小弥太教授の見解である。「哲学徒時代に、カント研究を志したが結局ものにならなかった」原因を以上のように言い訳している。正直なのか才能がないのか、素人の私には解らない。

しかし私とて、こういう解説を事前に聞いていれば、カントの読み方はもっと違ったものになっていたように思う。若かりし頃、哲学にかぶれて、カントを懸命に読み取ろうとしたものの、結局カントのカの字も理解できなかった。

カント的な言い回しになる。唯一理解できたのは、道徳律が存在することが神の実在を証明することになるという、詭弁なのか論証なのか判断に苦しむ詭弁的な論証くらいのものである。

翻訳という面からみるとカントは、堪能なサンスクリット語で書かれた仏典を、期するところあってドイツ語に翻訳しようと目論んだようなものだ。ドイツ語には仏教用語がないのだから、当然難解な翻訳にならざるをえない。

もっとも、原始仏典に関していうと、現在ではドイツの研究が最も進んでいることくらい承知している。あくまでものの喩えである。