昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

終戦の日に思うこと

2013-08-15 17:08:12 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 私が終戦を迎えたのは、今のサハリン南樺太の国境近い三菱の炭砿町塔路で、
国民学校の高等科一年生、数え年13歳の時でした。
 今にして想えば、戦争は既に終わっていたのにそんなことも知らず、不当にもソ連軍に追われて昼夜の区別無く、山野を逃げ回っておりました。
 戦争が終わって漸く家に帰れたのは、戦争が終わって既に二週間も経っておりました。
 その間の出来事の一つは、今となっても忘れられずに時折り想い出されるのは、炭砿の坑口に避難する途中ことでした。
 いよいよソ連兵が上陸して来るということで、それまでの少年隊を解散して避難場所の坑口に向かっておりました。
 当時炭砿住宅街の奥にある坑口は避難場所の一つだったので、友人たち数人で其処へ向かう途中でした。
 突然現れたソ連軍の戦闘機に追われたのです。機銃の弾が、私たちがとっさに身を隠したじゃが芋畑に、ばらばらと撃ちこめられました。
 その後も避難中に死んだ方も多く、避難場所は違っておりましたが、私の同級生や先輩のお父さんなどが犠牲になりました。
 その時には戦争はもう既に終わっていた筈なのに、ソ連軍はただ単に面白がって追い回し死に追いやったのです。

 港の警備に徴用された私の父は、遂に戻って来ませんでした。未だに行方不明の侭です。ですから骨箱の中は空っぽの侭です。
 そしてある日のこと、突然私たちは着の身着のままで、生まれた故郷樺太を追われたのです。
 引揚げ後の生活は、周りの人々は優しく助けてくれましたが、裸一貫で引き揚げて来た私たちの生活はとても辛かったです。
 今にして思えば、ソ連が不法に介入さえしなかったらば、父は行方不明にならず、また母やシベリヤ抑留された長兄などは、もっともっと長生きしたであろうと思います。
 そんな訳で、戦争が憎いと言うよりも、私は敗戦間際に条約を無視して参戦して来たソ連軍がとても憎いし、この年になった今でもその恨みは消えません。

 終戦記念の日は、樺太で受けた無念さは再び蘇えり、私にはとにかく辛い辛い一日でした