※ 故郷は 戸板の上の しばれ凍れもち餅・・・
※ トントンと隣で餅つく杵の音
耳に入れど口に入らず
上記のような狂歌めいたものを子供同士で作ってはしゃいでもいました。
私の故郷は現在ロシア領土の樺太は、西海岸の国境にほど近い場所、樺太随一の三菱系の炭鉱町です。
毎年年の瀬を迎える頃になると、私の家族と叔父(父の弟)の家族が総出でおこなった餅つきを想い出します。
当時の私の家は、八軒長屋でなりたつ炭砿住宅の一つでした。師走の20日過ぎともなれば、長屋の何処からとも無く餅つきが始まり、日に日を追って順に我が家に近づいて来ます。戦時中でしが、まだ戦況もそれほど切羽詰った頃でなく、本土とはかなり離れていることもあって案外ノンビリしていたのです。だから餅つき行事などは、家族はもとより時には近隣家族を交えてのお祭りと云った趣もあったようです。我が家のように人手が揃っていれば良いのですが、人手の少ない家では何軒かが合同でするのが普通でした。
餅つきの前夜に餅つき道具一式が橇に乗せられて届き、家の玄関脇に置かれます。この段階で私達(1歳年下の弟)は興奮で落ち着けず、何度も咎められながらも懲りずに、道具に触れ更に杵を持ちあげたりして騒いでいました。
餅つきは大抵晩飯を済ませてから始められました。ストーブは真っ赤になるまでに燃やされ、釜の上の蒸篭からは激しく蒸気が上がり、やがて部屋中に餅米の蒸れる匂いが溢れて来ます。
大きな伸し台には澱粉が撒かれ、餡餅に入れる餡子玉も用意される。私は弟もそうだがこの餡子は大好物だったから、餅のつきあがる前から母にせんがんでは口に入れて貰うのが常でした。
餅米が愈々蒸しあがる頃になると、父達と長兄が捩り鉢巻で土間に下りる。こうなると私たち兄弟と従弟妹は部屋中でお祭り騒ぎとなります。
父達の手で搗きあげられた餅は、次々と餡子餅を初め伸し餅や丸餅にされて、用意された台などに拡げられるのだが、その台にも限りがあって足りなくなって来ると、いよいよ凍れ餅に取り掛かります。先ず戸板の上に真っ白な掲示紙が拡げられ、更に澱粉がタップリと敷かれ上に丸めた餅が並べ、そのまま戸外に持ち出して置く、ただそれだけで良いのです。
外は零下30度を越す極寒の世界ですから、瞬く間にカチンカチンに凍った凍れ餅に仕上げる訳です。
この凍れ餅はさしずめ現代のインスタント食品と云えるもので、私たちのスキー遊びでは大変重宝されます。
私と弟が何時も一緒にスキーに出掛ける場合、それぞれこの凍れ餅を3個ほど懐に入れて出掛けるのです。この凍れ餅は煮たり焼いたりする必要が無く、体温だけで食べ頃になって呉れます。そして遊び疲れて空腹を覚え始めた頃には、懐の凍れ餅は体温で温められて、ちょうど良い柔らかさになっていて、疲れと空きっ腹には堪えられない美味さでした。
またこの凍れ餅については、今でもはっきりと覚えている出来事がありました。
それは搗きたての餅を丸める片端から戸板に並べて、氷点下30度の戸外に出して置くのですが、凍れ上がるまでの一寸した隙に戸板ごと盗まれた事がありました。恐らく近所の悪餓鬼どもの仕業だったのでしょう。その後一緒に遊んでいても、暫らく悔しくてたまりませんでした。
つきあげる餅の量は、両家合わせて一俵(60キロ)ほどにもなるから、当然徹夜で6時近くまでかかるのが普通だった。私たちはこの間ずうっと起きて居たわけではなくて、途中寝込んだり起きたりを幾度も繰り返していたのです。
やがて餅つきが全て終わると、父達は近くの共同浴場へ出掛ける。いわゆる朝風呂につかるのだが、これについて行くのも私たちの楽しみであった。
徹夜仕事を終えて帰宅して来た他の大人たちに入り交じって、湯に浸かりすっかり得意になっていたでした。
余談ですが、暮れの29日には、臼や杵などの餅つき道具が空いていても、何故か他所でも我が家でも持ちつきは行わなかった。子ども心に不思議に思って母に聞いたところ、九は苦に繫がり昔から「九(苦)日餅」と云って忌み嫌われて来たと教えられた。単なる迷信に過ぎなかったのだろうが、その時は親の云うこととして、おおいに納得したものです。
※ トントンと隣で餅つく杵の音
耳に入れど口に入らず
上記のような狂歌めいたものを子供同士で作ってはしゃいでもいました。
私の故郷は現在ロシア領土の樺太は、西海岸の国境にほど近い場所、樺太随一の三菱系の炭鉱町です。
毎年年の瀬を迎える頃になると、私の家族と叔父(父の弟)の家族が総出でおこなった餅つきを想い出します。
当時の私の家は、八軒長屋でなりたつ炭砿住宅の一つでした。師走の20日過ぎともなれば、長屋の何処からとも無く餅つきが始まり、日に日を追って順に我が家に近づいて来ます。戦時中でしが、まだ戦況もそれほど切羽詰った頃でなく、本土とはかなり離れていることもあって案外ノンビリしていたのです。だから餅つき行事などは、家族はもとより時には近隣家族を交えてのお祭りと云った趣もあったようです。我が家のように人手が揃っていれば良いのですが、人手の少ない家では何軒かが合同でするのが普通でした。
餅つきの前夜に餅つき道具一式が橇に乗せられて届き、家の玄関脇に置かれます。この段階で私達(1歳年下の弟)は興奮で落ち着けず、何度も咎められながらも懲りずに、道具に触れ更に杵を持ちあげたりして騒いでいました。
餅つきは大抵晩飯を済ませてから始められました。ストーブは真っ赤になるまでに燃やされ、釜の上の蒸篭からは激しく蒸気が上がり、やがて部屋中に餅米の蒸れる匂いが溢れて来ます。
大きな伸し台には澱粉が撒かれ、餡餅に入れる餡子玉も用意される。私は弟もそうだがこの餡子は大好物だったから、餅のつきあがる前から母にせんがんでは口に入れて貰うのが常でした。
餅米が愈々蒸しあがる頃になると、父達と長兄が捩り鉢巻で土間に下りる。こうなると私たち兄弟と従弟妹は部屋中でお祭り騒ぎとなります。
父達の手で搗きあげられた餅は、次々と餡子餅を初め伸し餅や丸餅にされて、用意された台などに拡げられるのだが、その台にも限りがあって足りなくなって来ると、いよいよ凍れ餅に取り掛かります。先ず戸板の上に真っ白な掲示紙が拡げられ、更に澱粉がタップリと敷かれ上に丸めた餅が並べ、そのまま戸外に持ち出して置く、ただそれだけで良いのです。
外は零下30度を越す極寒の世界ですから、瞬く間にカチンカチンに凍った凍れ餅に仕上げる訳です。
この凍れ餅はさしずめ現代のインスタント食品と云えるもので、私たちのスキー遊びでは大変重宝されます。
私と弟が何時も一緒にスキーに出掛ける場合、それぞれこの凍れ餅を3個ほど懐に入れて出掛けるのです。この凍れ餅は煮たり焼いたりする必要が無く、体温だけで食べ頃になって呉れます。そして遊び疲れて空腹を覚え始めた頃には、懐の凍れ餅は体温で温められて、ちょうど良い柔らかさになっていて、疲れと空きっ腹には堪えられない美味さでした。
またこの凍れ餅については、今でもはっきりと覚えている出来事がありました。
それは搗きたての餅を丸める片端から戸板に並べて、氷点下30度の戸外に出して置くのですが、凍れ上がるまでの一寸した隙に戸板ごと盗まれた事がありました。恐らく近所の悪餓鬼どもの仕業だったのでしょう。その後一緒に遊んでいても、暫らく悔しくてたまりませんでした。
つきあげる餅の量は、両家合わせて一俵(60キロ)ほどにもなるから、当然徹夜で6時近くまでかかるのが普通だった。私たちはこの間ずうっと起きて居たわけではなくて、途中寝込んだり起きたりを幾度も繰り返していたのです。
やがて餅つきが全て終わると、父達は近くの共同浴場へ出掛ける。いわゆる朝風呂につかるのだが、これについて行くのも私たちの楽しみであった。
徹夜仕事を終えて帰宅して来た他の大人たちに入り交じって、湯に浸かりすっかり得意になっていたでした。
余談ですが、暮れの29日には、臼や杵などの餅つき道具が空いていても、何故か他所でも我が家でも持ちつきは行わなかった。子ども心に不思議に思って母に聞いたところ、九は苦に繫がり昔から「九(苦)日餅」と云って忌み嫌われて来たと教えられた。単なる迷信に過ぎなかったのだろうが、その時は親の云うこととして、おおいに納得したものです。
愈々年の瀬も押し迫りました。お互い風邪に気を付けましょう。
それに子沢山で大所帯が多かったから、餅つきは大抵の家では徹夜作業でした。
今でも一家団欒の場面が想い出されます。