・・・通学・・・
家から小学校までは2キロほどの道のりで、子どもの足で30分ほど掛けて通学していました。初めの内こそ、決められた通学路を真面目に通っていたのですが、慣れるに従い要領良く住宅街を通り抜けて行く幾つかの近道を覚えようになりました。
たいていは、近所の級友2、3人と一緒なのですが、途中からは仲間が増えて賑やかになります。
当時は車など滅多に通りませんから、駆けっこや鬼ごっこなどで大騒ぎしながら行くのですが、あまり時間の無い時には、住宅街を縫うようにして最短の近道を走り抜けて行くのです。
またタップリと余裕がある時は、わざわざ遠回りまでして、気の合う級友を誘って通ったものです。
こうしてその頃の私たちには、通学も学校も遊び場一つとしか考えて居ませんでしたから、クラスの仲間と遊びを覚えたり作ったりして過ごす、学校とその通学が一番楽しかったのです。
ですから、夏休みや冬休みは別にして、日曜日などの休日はむしろ恨めしい存在だったのでした。
壱~夏の通学・・・薔薇いちご
学校内の授業や遊びも勿論ですが、同じ方向の級友と一緒の通学時もとかく楽しいものでした。
その楽しさは、冬の通学とは違っておりましたが、夏にはまたそれなりの楽しさがありました。
登校時には一緒だった級友も、下校の際には掃除当番などで、別々になり独りで帰ることも少なくありませんでした。そんな時にはまた別な楽しみがありました。
たいてい独りで帰る時には、学校横の元宮町の長屋を通り抜けて、神社の裏山を横切る近道を利用するのが普通でした。この炭砿神社の裏山には野生の苺の木があった。
その花の形や枝に生えている鋭い棘から、私ら子どもたちは「薔薇苺」呼んで珍重したものです。その名が正しいのか如何かは分かりませんが、後年その形と味覚から「ラズベリー」であると知りました。
独りでの下校途中山の中で、鈴生りの薔薇苺を偶々見つけることがあります。
そんな時には先ず薔薇苺を腹一杯になるまで詰め込み、残った分は弟たちへのお土産として、弁当箱に詰めて家に持ち帰ったこともありました。
また時には下校時間が少し遅くなることがあり、普段ならたった一人で通るのは淋しくて、とても怖い場所だったのですが、薔薇苺が熟れるこの時季だけは、真っ赤に熟れた苺の甘さに惹かれて平気になれたのでした。
この薔薇苺は家の近くの山でも採れましたから、下校時に限らず帰宅後や休みの日などには、遊び仲間などに知られないようにこっそりと山に入ります。また時には跡をつけられ無いように、山道を大きく迂回して山に入り、独り占めして堪能したこともしばしばでした。
遠い昔に帰ったような、まさに古き良き時代の子ども時代を、しみじみと想いかえしております。
黒フレップは一メートルに満たない潅木でしたが、赤フレップはかなり山深い場所でしかも20センチ程度で、熊などに好まれて居たとのことで、独りで行くのは危険で大人たちと一緒に行ったものです。
また往復ビンタのことですが、私の生涯でただ一度のもので、それだけにあの時の木村先生の涙は、いまだに忘れられずに想い出されます。
戦前の教育は何かと話題になりがちですが、今の事なかれ主義的な無機質的な教育にはついては行けません。
やはり昭和一けたのジジイの所為なのでしょうね。
としえ様のコメントを拝見して、古き旧友に出会えたような、ほのぼのした暖かさに浸っております。
どうぞ宜しくお願いいたします。
本当に有難うございます。
としえです。
いつもご丁寧にコメントを頂きましてありがとうございます。
バラ苺の濃縮された味と香りは、忘れられません。子どもの頃の印象は強く思い出されます。
なにしろ、私のとって、その時がすべてでしたから・・・・・・・。
フレップは紫色っぽい黒のものは、頂きものでよく食べましたが、赤のものは知りませんでした。口の中が紫色になるくらい食べました。美味しくて少し酸味もあって懐かしい食感を今でも思い出します。
2005年2月2日のブログを拝見いたしました。
裏山の開墾を高等科の生徒さんたちが作業していたことは、初めて知りました。
こどもの身長で、ものを見ているので、とてつもなく高くて大きな裏山の畑だった、という記憶があります。
みなさんのお陰で、裏山の畑の作物はたくさん育ちましたね。
さくさく、ふわふわした土の感触と匂いは、高等科のみなさんのご奉仕の賜物でした。
ありがとうございました。
今にして、感謝の気持ちでいっぱいです。
今で言うなら中学1年生の年頃ですから、わけも分からず、サボったとしても自然の成り行きのでしたね。
生きているということは、知っている人、知らない人に関わらず、みんな何処かでつながっていて、たくさんの恩恵を受けているのですね。
私が小学5年生の頃まで(千葉県岩井町で転地療養中)の学校の先生は、厳しくて男子の生徒たちは、よく往復ビンタをくらっているのを見かけました。
それでも、先生と生徒の絆は強く、先生の温かい思いが伝わっていました。
絶対的な信頼感が相互にありました。
戦後、自己主張することを盛んに教育されてきましたが、根底に人を愛する大切さ、そして日本で理解されていた慈愛、慈悲の心は忘れられてしまっているようにも思われるこの頃です。
3.11は、その精神を思い出す機会を得たのかもしれません。
じゃこしかさん、
やっぱり、人とひとの繋がりを大切にして、豊かな心で生きていきたいですね。
それでは、また、コメントをさせて頂きますので、よろしくお願いいたします。
あなた様よりのコメントのお蔭で、遠い昔の良き時代を想い出させていただきました。
バラ苺の味わいは、今のハウス育ちイチゴからはとうてい味わい得ない、野性味旨味がありました。
ご存知でしょうか・・・?
バラ苺で想い出したのですが、フレップ(こけもも)です。黒と赤の二種類があって、秋の遠足などで良く食べたものです。
裏山の開墾のことですが、私たちは裏山の頂きにあった防空監視所の奥を開墾しました。
そこでの想い出は、クラス全員で行ったサボタージュの折、木村先生の{涙の往復ビンタ}です。
これは私のブログ~2005年2月2日の、忘れえぬ人々・・・涙の往復ビンタを読んで頂ければ幸いです。
年寄りのブログに度重なるコメント頂きまして、本当に嬉しく心から感謝しております。
どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。
思い出をありがとうございます。
戦後、間もないころ、塔路の国民学校校舎の裏手にあった山を耕して、かぼちゃやジャガイモづくりをしていた先生方は、日曜日ごとに、お百姓さんのように作物を育てることに精を出していました。
私も父に連れられて、急な坂の山畑まで出かけることがありました。
今でいうなら小学2年生のころでしたから、手伝うこともなく、父が作業している畑の近くの山道をよくひとりで歩きました。
ジャガイモなどの収穫期になると、細い山道の両側に、真っ赤な木いちごが生っていて、手の届くところのいちごを2個、3個と頬張った思い出があります。
それが「薔薇いちご」だったのですね。
「薔薇いちご」は、陽に翳すと透き通っていて、まるで深紅の宝石のようでした。あのときの感触とか香りが、今でも思い出されます。
引き揚げてきて以来、すっかり忘れていましたが、1997年に仕事でパリにいきました時、ディナーの最後に出てきたのが、器に山盛りの「薔薇いちご」でした。
一瞬にして、子どものころに食べた木いちごを思い出し、「あーっ」と絶句しました。
その懐かしい甘さと香りは、最高の味わいでした。
よーく考えてみますと、フランスと樺太の緯度の位置関係は、ほとんど同じですから、「薔薇いちご」がフランスに生息していても不思議ではなかったのですが・・・・・。
近頃はスイーツばやりで、ラズベリーと称してケーキにふんだんに赤や紫の木いちごが使われていて、珍しいという感覚も薄れがちです。
でも、じゃこしかさんのブログで知った「薔薇いちご」の名称と塔路時代の木いちごの思い出は、生涯大切にしたいと思います。ありがとうございました。
今は外遊びは危険、また家の中でも危険と隣り合わせです。何が原因でこうなったか分かりませんが、子どもには不幸な時代とにかく悲しいことです。