昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

お正月の想い出 

2009-01-12 16:36:19 | じゃこしか爺さんの想い出話
 今さら正月でも無いだろうと思ったのですが、今度の暴風雪で外は一面の雪景色、風が止み空も晴れたからと、直ぐに外歩きが出来る訳はありません。
 況してや、日頃から覚束ない歩きの年寄りでは、吹き溜まりがあちこちに出来ている雪道などはとうてい無理なことです。
 とにかく外歩きが出来れば、{犬も歩けば・・・}のたとえで、気になるブログ更新のネタにでも出合えるのでしょうが・・・そんなことからふと思いついたのが、子ども時代の正月でした。

 お正月への楽しみは、先ず餅つきから始まります。早い家での餅つきは、だいたい二十日過ぎた頃から行われ、その音は気合の声とともにあちこちの家から聴こえて来るようになります。
 クリスマスと云うものなど無かったし、またまったく知らない時代でしたから、近くに住んでいる親戚からの搗き立ての餅が来るのが、一番の楽しみです。
 やがて順を追って隣り近所でも始まります。当時は餅搗きの道具類を持っている家はは少なく、ほとんどは借り物で賄うのです。
 下の方の長屋から順を追って回って来るのですが、我が家の順番をまさに首を長くして待ったものです。
やがて隣で始められると、いよいよ明日は我が家の番です。気持ちは徐々に昂まり、夜になってもなかなか寝付けないほどです。
 そしてこんな戯言で
 {とんとんと 隣で餅搗く杵の音 耳に入れど 口に入らず}
 待ち焦がれるのでした。
  その順番が二十九日に当たるとがっかりします。{二十九は苦に繋がる苦日餅}と忌避されて、翌日にまわされて仕舞うからです。
 科学が進んだ今も我が家では、神棚の掃除や注連飾りなどは二十九日を避けており、また正月用品の買い物に行きません。
 単なる迷信とは思いながらも、両親の仕来たりを今も続けているのです。
 
 さて我が家の餅つきは、家族が多いうえに近くに住む叔父の家の分と一緒に搗きましから、約一俵(60キロ)ほどにもなりました。
 晩飯後に始められた餅つきは、両親や兄たち叔父夫婦の手で、翌朝6時ころまで続けられるのです。その間私と弟と従兄弟たちは、時には「邪魔だ・・・」と叱られながらも、丸められた餅を運んだり親たちの目を掠めてこっそり餡子玉を摘んだりして、はしゃぎ回るのが常で、それはそれはとても楽しい餅つきの一夜でした。
 
 次が大晦日です。まず夕方早々に風呂(炭鉱の共同風呂)に行かされるのですが、そこには学校の友達や近所の遊び仲間が来ているので、ついつい遊び過ぎてしまいます。
 慌てて家に帰ると直ぐに、母が用意してくれた下着を取り替え、めったに着ること無い他所行きの服に着替えるのです。
 そして背広に着替えた父を先頭にして神棚をお参りしてから、年に一度のご馳走が並んだ丸い卓袱台を囲むのです。
 腹いっぱいになった後の楽しみは、酒で上機嫌の父からのお年玉、{お年玉}という上品な言葉ではなくて、方言の{うまっこ}と云っていたのでしたが、その{うまっこ}も年に2回の正月と炭鉱祭りだけくらいですから、大喜びしたものです。

 明けて元旦早々に若水を汲みに行くのが、その頃の私の役目でした。朝早く母に起こされて長屋横の谷川へ行き、氷を割って汲んで来るのですが、まだ寒中前とは云っても、樺太の外は並大抵の寒さではありません。
 寒さに手を悴ませながらも子ども心に、神様に挙げる水を汲むという厳粛な大役に満ち足りていたのです。

 家族揃っての雑煮を食べ終えると、弟と学校へ出掛けます。大講堂では御真影(天皇陛下)を前にして式典が始まります。
 君が代の斉唱で始まる式典は、教育勅語や校長の話などで長くなり、また講堂の寒さも重なりとても辛いのでした。それが終わると一目散に帰宅します。
 石炭ストーブが音を立てて燃える部屋で、きょうだいたちとのカルタ取りや双六、福笑いなどの遊びは、正月には欠かせない一齣で、60余年過ぎた今でもはっきりと記憶に残っております。


 私のブログは、文章だけでは寂しすぎるので、暴風雪の前日裏庭にやって来たヒヨドリを載せてみました。    (壱) 


        (弐)

       (参)