農家であれば収穫した玄米を。
農家でなければ店屋で購入するなどで入手した精米を神社に奉納する。
その量はいずれであっても米1升。
重箱に詰めた御供は風呂敷に包んだまま氏神さんに供える。
拝殿に置いて供える神社は奈良市米谷町・白山比咩神社。
どのお家も柄のある風呂敷に包んで供えていた。
供えた御供は拝殿で詰め替え作業をする月当番のサタニン(助侈人)に手渡す。
その数多く拝殿廊下にずらりと並ぶ時間帯は、参拝者が増えるいっときである。
サタニン(助侈人)は供えた順に並んでいる風呂敷一つを取り上げて敷布を紐解く。
蓋を開けた重箱にお米がびっしり。
いっぱいに盛った御供は米袋に詰め替える。
唐臼した玄米であっても、精米であっても米の品種はそれぞれ。
さまざまな味わいが混ざり合う。
空いた重箱は布で拭って綺麗にする。
その重箱に二つの餅を入れる。
一つは和菓子屋さんに注文して作ってもらったセキハン(※糯米で作った赤飯)。
セキハンは箸で摘まんで適量に盛る。
もう一つは形を調えているキナコモチである。
かつて二毛作時代だったころは麦初穂であった。
奉納の御供下げ代わりにお返しする茶碗一杯の餅米赤飯とコムギモチであった。
麦で作ったコムギモチは、田植えを終えた時季的にいっても“サナブリモチ“である。
麦作をしなくなった現在はコムギモチ(サナブリモチ)でなく、その代わりのキナコモチである。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に、7月1日は農休みの麦初穂とある。
12月1日は米初穂の新嘗祭とある。
初穂は一年に二度。
二毛作であったことがよくわかる資料データである。
農休みの麦初穂はこう書いてあった。
「麦の初穂を供えて収穫を感謝する。宮司が参詣し、十一人衆、氏子総代、町役員、上ノ坊住職が参加する。この日はソラ豆のコフキと胡瓜の薄切りを肴に飲食した。また、小麦粉を潰してキナコをつけたコムギモチを作り、お参りの人に配った。ミヤモリ(※村神主)は赤飯を作り、各家に分けた。この日に供えられた麦は、カンヌシ(※村神主)の収入となっていた」とある。
一毛作となった現代は麦を栽培することはない。その代わりに麦からお米に替えた。
収穫した新米を供えるのは新嘗祭。
平成28年12月1日に取材した。
新嘗祭に御供した新米は年中行事を務める村神主に感謝、そしてお礼を込めて捧げられる。
これを神主落ちというようだ。
麦初穂も同じように御供は村神主が受け取る仕組みになっている。
その代わりに氏子にお礼のお返しに配られるのがセキハンとキナコモチである。
昔は村神主家で村の戸数分を作っていたが、たいそうになったことから和菓子屋さんに頼むようになった。
作りの手段は替わったが、お礼の気持ちはかわりない。
麦秋の時季に供える米谷町の麦初穂に栗の木がある。
置いてあった場は鈴緒のある拝み所。
村神主が山に出かけて伐ってきた栗の木である。
麦の収穫を終えたら稲作に移る。
かつてはそうしていた。
刈り取った田んぼは稲作。
育苗した苗は田植え。
その植え初めに栗の木を立てる地域がある。
天理市福住より東になる山間地。
天理市山田町の下山田や中山田に数々あった植え初めに栗の木があった。
田植えをする一角に立てて豊作を願う習俗である。
山添村の切幡や大塩にもあるし、桜井市の小夫嵩方でもみられる習俗である。
欲しい人は持ち帰ってもらって良しとしている米谷町の栗の木である。
この日に置いていた葉付き栗の木。
拝殿に置いたのは村神主のTさん。
持ち帰ってもらうのに7本揃えた。
置くには置いたが、何をするのかは知らない、と云った。
「こんなんはゲンのもの。畑には何もせーへん(※立てることはない)が、神棚にまつるぐらいなもの。子どものころの昔は、家でコムギモチを作って食べていた」と話してくれたのは一老のKさん。
ご高齢の婦人は、「うちは神棚にまつっていた。お爺さんがおったころは、田植えのときに挿してはった」と話してくれた。
生前のお爺さんがしていた植え初めの儀式である。
具体的にどうだったのか、覚えていないというが、おそらく私が想定する麦刈りを終えた直後に水張りをした田植え。
その植え初めの行為に栗の木を立てていたと想定する。
膳に出す料理に漬けもんにした胡瓜があった。
熱くなった身体を冷やすのに食べる胡瓜の漬物である。
農家の営みは神社行事のなかで見られるが、麦栽培をしなくなった今は見ることはない。
初穂は「米」になったが、今もこうして伝統を続けているとNさんが話してくれたが、村史に書いてあったコフキのソラマメ御供は見られなかった。
ちなみに、「麦秋」とは、麦穂が稔って収穫期を迎えた初夏の時季をいう。
(H29. 7. 1 EOS40D撮影)
農家でなければ店屋で購入するなどで入手した精米を神社に奉納する。
その量はいずれであっても米1升。
重箱に詰めた御供は風呂敷に包んだまま氏神さんに供える。
拝殿に置いて供える神社は奈良市米谷町・白山比咩神社。
どのお家も柄のある風呂敷に包んで供えていた。
供えた御供は拝殿で詰め替え作業をする月当番のサタニン(助侈人)に手渡す。
その数多く拝殿廊下にずらりと並ぶ時間帯は、参拝者が増えるいっときである。
サタニン(助侈人)は供えた順に並んでいる風呂敷一つを取り上げて敷布を紐解く。
蓋を開けた重箱にお米がびっしり。
いっぱいに盛った御供は米袋に詰め替える。
唐臼した玄米であっても、精米であっても米の品種はそれぞれ。
さまざまな味わいが混ざり合う。
空いた重箱は布で拭って綺麗にする。
その重箱に二つの餅を入れる。
一つは和菓子屋さんに注文して作ってもらったセキハン(※糯米で作った赤飯)。
セキハンは箸で摘まんで適量に盛る。
もう一つは形を調えているキナコモチである。
かつて二毛作時代だったころは麦初穂であった。
奉納の御供下げ代わりにお返しする茶碗一杯の餅米赤飯とコムギモチであった。
麦で作ったコムギモチは、田植えを終えた時季的にいっても“サナブリモチ“である。
麦作をしなくなった現在はコムギモチ(サナブリモチ)でなく、その代わりのキナコモチである。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に、7月1日は農休みの麦初穂とある。
12月1日は米初穂の新嘗祭とある。
初穂は一年に二度。
二毛作であったことがよくわかる資料データである。
農休みの麦初穂はこう書いてあった。
「麦の初穂を供えて収穫を感謝する。宮司が参詣し、十一人衆、氏子総代、町役員、上ノ坊住職が参加する。この日はソラ豆のコフキと胡瓜の薄切りを肴に飲食した。また、小麦粉を潰してキナコをつけたコムギモチを作り、お参りの人に配った。ミヤモリ(※村神主)は赤飯を作り、各家に分けた。この日に供えられた麦は、カンヌシ(※村神主)の収入となっていた」とある。
一毛作となった現代は麦を栽培することはない。その代わりに麦からお米に替えた。
収穫した新米を供えるのは新嘗祭。
平成28年12月1日に取材した。
新嘗祭に御供した新米は年中行事を務める村神主に感謝、そしてお礼を込めて捧げられる。
これを神主落ちというようだ。
麦初穂も同じように御供は村神主が受け取る仕組みになっている。
その代わりに氏子にお礼のお返しに配られるのがセキハンとキナコモチである。
昔は村神主家で村の戸数分を作っていたが、たいそうになったことから和菓子屋さんに頼むようになった。
作りの手段は替わったが、お礼の気持ちはかわりない。
麦秋の時季に供える米谷町の麦初穂に栗の木がある。
置いてあった場は鈴緒のある拝み所。
村神主が山に出かけて伐ってきた栗の木である。
麦の収穫を終えたら稲作に移る。
かつてはそうしていた。
刈り取った田んぼは稲作。
育苗した苗は田植え。
その植え初めに栗の木を立てる地域がある。
天理市福住より東になる山間地。
天理市山田町の下山田や中山田に数々あった植え初めに栗の木があった。
田植えをする一角に立てて豊作を願う習俗である。
山添村の切幡や大塩にもあるし、桜井市の小夫嵩方でもみられる習俗である。
欲しい人は持ち帰ってもらって良しとしている米谷町の栗の木である。
この日に置いていた葉付き栗の木。
拝殿に置いたのは村神主のTさん。
持ち帰ってもらうのに7本揃えた。
置くには置いたが、何をするのかは知らない、と云った。
「こんなんはゲンのもの。畑には何もせーへん(※立てることはない)が、神棚にまつるぐらいなもの。子どものころの昔は、家でコムギモチを作って食べていた」と話してくれたのは一老のKさん。
ご高齢の婦人は、「うちは神棚にまつっていた。お爺さんがおったころは、田植えのときに挿してはった」と話してくれた。
生前のお爺さんがしていた植え初めの儀式である。
具体的にどうだったのか、覚えていないというが、おそらく私が想定する麦刈りを終えた直後に水張りをした田植え。
その植え初めの行為に栗の木を立てていたと想定する。
膳に出す料理に漬けもんにした胡瓜があった。
熱くなった身体を冷やすのに食べる胡瓜の漬物である。
農家の営みは神社行事のなかで見られるが、麦栽培をしなくなった今は見ることはない。
初穂は「米」になったが、今もこうして伝統を続けているとNさんが話してくれたが、村史に書いてあったコフキのソラマメ御供は見られなかった。
ちなみに、「麦秋」とは、麦穂が稔って収穫期を迎えた初夏の時季をいう。
(H29. 7. 1 EOS40D撮影)