マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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唐古神明社の昔宵宮

2012年12月13日 06時43分47秒 | 田原本町へ
田原本町の唐古・鍵は初瀬川(大和川)と寺川に挟まれた地域。

平安時代の延久二年(1070)には興福寺領の荘園で田中荘と呼ばれていたそうだ。

唐古南交差点に鎮座する八阪神社。

かつては交差点信号の東側まで広がる領域であったと村の人はいう。

その八阪神社で御湯立神事が行われる。

一時期は法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社(通称池坐神社)の宮司家の母親が行っていたという御湯立の儀式である。

およそ60年ぐらい前のことだと話す宮司家の婦人。

そのころからも里の女児を巫女に仕立ててはどうかとお願いをしていたが、諸事情で都合がつかなかった時代が続いた。

いつしか時が流れてきた近年のこと。

池坐神社の郷村にあたる村々では小学生の女の子が里の巫女として勤めるようになってきた。

時代を経て機運が盛り上がり当村でも受けるようになったと話す。

そうして数年経った。

里の巫女を受ける家はさらに増えていった。

6、7年前からは参加意識が高まった。

現況を鑑みた唐古も池坐神社の指導の下で里の巫女を育成するようになって3年目。

唐古に住む小学生の女の子が巫女役を勤めるようになった。

5月ころから宮司婦人が作法を指導してきたと自治会長が話していたのは先月のことである。

唐古の天王講の営みを掲載している『田原本町の年中行事』。

文中に、10月1日は唐古の神明(しんめい)社で昔宵宮をしているという記事だ。

先に八阪神社へ参ってから神明社で湯立てをすると書かれている。

湯立てをする巫女は郷社の池坐神社が鎮座する法貴寺の里の巫女が行うとある。

その巫女が前述した池座神社宮司家の母親だったのかは判らない。

八阪神社を崇めている天王講は20軒。

3月には天皇さんと呼んでいる八阪神社に供え物をしてから当屋家に集まる。

その家の床の間に「天照皇太神宮」の掛軸を掲げて膳につくとある。

後日に聞いた話では料理屋に替ったそうだが、講中の一人が話す天王講の文書に興味がわく。

それには神像が並んでいる画像もあるらしい。

神事の場に集まった法被姿の自治会役員たち。

境内に穴を掘って湯釜を立てる。

脚は三本だ。

湯釜は古いものと見られた。

薄らと刻印があるが判別できない。

光りが当たる具云いで読めなかった文字は神明社に移されたときに見えた。

一部であるが「・・・春日大明神牛頭天王御湯釜・・・天保九歳戌九月吉日 御鑄物師原榮大・・・」とある。

天保九年は西暦で1838年。

およそ170年前の代物である。

そのころから、或いはそれ以前であったと思える湯釜の年代。

二社が記されている神社名。

春日大明神は現在の神明社、牛頭天王は明治12年に八阪神社名に替ったようだ。

湯を沸かすのは杉の枯れ葉。

雑木も入れて火を点ける。

時間を短縮して家で沸かした湯を注ぐ。

待つことしばし。

宮司婦人とともに登場した里の巫女は小学5年生。

翌年も行うそうだ。

幣を受け取り神事が始まった。

巫女が立つ斎場は扇のように広げた藁束を敷く。

履物を脱いで立つ巫女。

幣を振ったあとは静かに湯釜に投じる。

それをかき混ぜるような感じの作法でゆっくりと釜の縁辺りを回す。

次に笹束を受け取る。

鈴を右手に持ってシャンシャン。

頭を下げて左に回る。

一周してまたもや頭を下げる。

その方向にあるのが八阪神社の社殿。

小さな祠のような社である。

今度は右回りにシャンシャンと鳴らしながら一周回り。

頭を下げて左回りした神楽の舞い。

それを経て始まった御湯の儀。

笹束を湯釜に置いて洗い米、塩、御酒を注いで清める。

それから笹を湯に浸ける。

西の社殿、南、東、北の方角に向かって、その都度の三度の礼。

そして湯に浸けた笹を前方社殿側に向けて飛ばす。

何度か繰り返して後方にも笹を振り上げた。

数えてみれば前方が5回で後方は10回であった。

後方の10回は前半、後半の5回の作法が異なる。



前半は横水平に近い作法で後半は真上から後方である。

次に行った作法は鈴を鳴らして舞う神楽。

左、右、右回りに舞った。

履物を履いて参拝者の前に移動する巫女。

大きく鈴を振った祓いの作法をありがたく受ける。



神楽の舞い、鈴祓いの作法は9月に拝見した八田のむかしよみやと同じだった。

同一の指導であるゆえそうなのである。

こうして八阪神社での御湯立神事を終えれば、役員ともども神明社に向かう。

それほど遠くない距離に鎮座する神明社。

湯釜に刻印されていた春日大明神は境内社の一つと思われる。

ここでも境内に穴を掘って湯釜を立てる。

同じように扇のように広げた藁束。

そこは里の巫女が湯立て神事が行われる斎場である。

参拝者は先ほどの八阪神社での湯立てよりも多くなった。

湯立ての前には本殿で巫女による鈴神楽が舞われる。

近くまで寄ってきて参拝者に祓う儀式であろう。



それから始まる湯立ての儀式は生憎の事情で現場を去らなければならない。

八阪神社での湯立てと同じように作法されたことと推測される。

後日に自治会役員方にお聞きした話によれば「神明社の昔宵宮(むかしよみや)」は10月1日だった。

秋祭りはその後に行われていた宵宮と本祭り。

行事は一本化されて第一日曜日に移ったとういう。

この日は子供御輿の巡行もあるが、本来的には神明社の昔宵宮(むかしよみや)であろう。

『田原本町の年中行事』によればマツリといえば宵宮が重んぜられ、夜中に神さんが降臨することから始まると信じられ、その夜はお籠りをしていたとある。

現在では本祭りに対する前夜を宵宮と称してマツリが行われているが、その宵の祭典だけは村のマツリとしている地域も少なくない。

郷中の各村では村の単独のマツリとして昔宵宮(むかしよみやの呼ぶ)とかコマツリと呼ぶ地域もある。

そのときに郷社にあたる神社から里の巫女を出向けて御湯立ての神事や神楽を舞っている。

その件から思料するにこの日に行われた唐古の御湯行事は神明社の昔宵宮(むかしよみや)そのものであると考えられる。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)


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