東西に建ち並ぶ田原本町千代・阿部田の集落。
西、東垣内を挟む中央は中垣内に建つ十念寺がある。
同寺の北地は神子天の名がある小字だ。
北に西院田、東院田の小字がみられる。
その東院田南が小字イセタで市杵島姫神社が鎮座する。
昨年、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社の郷村で行われる行事を調べていた。
その一つにあるのが千代(ちしろ)阿部田だ。
市杵島姫神社付近に住む人が話していた行事に風鎮祭がある。
8月28日に行っていると話していた。
興味をもったのは、この日の営みに集落内にある十念寺の僧侶が神社拝殿で法要をするということだ。
場は神社であるが、神職は登場せずに僧侶が営む神仏混合の行事だと話していた。
なんらかの掛軸を掲げられるのであるが、本殿側ではなく拝殿の東側の壁面。
村屋坐弥冨都比売神社が鎮座する方角的である。
聞いていた時間はどなたも現れなかった。
仕方なく自治会長家を訪ねた。
昨年は僧侶の都合によって午前中にされたのだが、今年は例年通りの16時と聞いて出直した。
時間ともなれば自治会長の他、村人多数がやってきた。
もちろん十念寺の僧侶もおられる。
円座を置かれた拝殿に登った僧侶は寺所有の掛軸を掲げる。
聞いていたとおりの位置である。
拝殿に登って撮らせていただいた掛軸は中央に(伊勢)天照皇太神宮、右は(石清水)八幡大菩薩で左に春日大明神を配した三社託宣神号図。
三神のお告げを記した掛軸である。
三社託宣の始まりは正応年間(1288~)とする説があるようだ。
鎌倉時代初期にはすでに成立していたとされる三社託宣。
室町時代中期以降に吉田神道を提唱した吉田兼倶が積極的に導入したと云われている。
公家から武家へ。そして、一般庶民に広がったという三社託宣の掛軸は、お日待ちと関係するアマテラスオオミカミのお軸を掲げることが多い。
これまで拝見した日待ち行事に三社託宣図を掲げる地域がある。
大和郡山市矢田町の日待ちは清水垣内と垣内が一年交代で地域が所有する掛軸を掲げる。
垣内の掛軸は「天照皇大神」の文字掛軸であるが、清水垣内が所有する掛軸は三社託宣だった。
赤童子祭りに三社託宣図を掲げていたのは奈良市東包永町であるが、田原本町伊与戸、大和郡山市丹後庄町・馬司町の日待ちでは「天照皇大神」の一神掛け図である。
大和郡山市小林町や横田町・柳生垣内日待ちのような雨宝童子神図の場合もある。
アマテラスオオミカミの掛け図を掲げて朝日が出るまでお籠りをしていたと考えられるお日待ちであったと思われた千代阿部田の風鎮祭。
行事名は風鎮祭であるが地元民は風日待ちと呼んでいるのも頷ける。
江戸時代には広く庶民信仰に普及したお日待ちの掛け図。
十念寺が所有する掛け図の軸箱に「表装並収納箱新調 昭和56年正月 阿部田総代 村井安弘氏」の文字があったことから新調品に違いない。
お若い十念寺の僧侶。
「先代、老僧からは新調される前のお軸有無は聞いていないが、もしかとしたら蔵にあるかもしれない」と云っていた。
お神酒、洗い米を供えてローソクに火を灯して始まった読経。
浄土宗派のお念仏であるが、二百十日の大風で実った稲穂が倒されないよう、五穀豊穣、村中安全を祈る風の祈祷願文である。
キーン、キーンと打つおリンの音が高く響く読経。
「なーむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ」のお念仏は拝殿内に広がった。
7分過ぎたころから焼香が始まった。
この日に初めて参列した子供会。
後席について大人と同じく一人ずつ焼香されて手を合わしていた。
拝殿は狭くて溢れた参列者も焼香をされる。
一心に願った風ノ祈祷念仏は16分間。
場は転じて阿部田池西北にある石塔の水神社に移動する。
ここでも僧侶の読経が行われる。
そして一人ずつ水神さんの前に立って焼香をされる。
長老、老婦人に親子連れの子供たち。
熱心に手を合わせて祈願した10分間。
最後に合掌する。
法要を終えれば子供会は解散するものの、村役員・長寿会の人たちは公民館で直会に移る。
かつて、風鎮祭を終えた村人らは市杵島姫神社境内で持ち寄った会食を楽しんだそうだ。大人から子供まで、大勢の人たちで埋まった様相は10年前まであったと云う。
途絶えていた風習を見直して子供会も参列するようにしたと話す。
開基は元亀元年(1570)と伝えられている十念寺。
元々は公民館が建つ位置に市杵島姫神社があったそうだ。
明治維新の神仏分離令によって明治34年に現在地に移ったようだ。
そういえば、水神社の石碑には明治廿年六月の記銘の刻印があった。
神社遷座よりも十数年古い年代である。
市杵島姫神社の祭神は水の守護神である弁財天。
水神社は阿部田池の守り神に建之したのかも知れない。
阿部田公民館前に建つ石造群がある。
中央は庚申さん。
右に金毘羅大権現があり、左は愛宕大権現である。
(H26. 8.28 EOS40D撮影)
西、東垣内を挟む中央は中垣内に建つ十念寺がある。
同寺の北地は神子天の名がある小字だ。
北に西院田、東院田の小字がみられる。
その東院田南が小字イセタで市杵島姫神社が鎮座する。
昨年、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社の郷村で行われる行事を調べていた。
その一つにあるのが千代(ちしろ)阿部田だ。
市杵島姫神社付近に住む人が話していた行事に風鎮祭がある。
8月28日に行っていると話していた。
興味をもったのは、この日の営みに集落内にある十念寺の僧侶が神社拝殿で法要をするということだ。
場は神社であるが、神職は登場せずに僧侶が営む神仏混合の行事だと話していた。
なんらかの掛軸を掲げられるのであるが、本殿側ではなく拝殿の東側の壁面。
村屋坐弥冨都比売神社が鎮座する方角的である。
聞いていた時間はどなたも現れなかった。
仕方なく自治会長家を訪ねた。
昨年は僧侶の都合によって午前中にされたのだが、今年は例年通りの16時と聞いて出直した。
時間ともなれば自治会長の他、村人多数がやってきた。
もちろん十念寺の僧侶もおられる。
円座を置かれた拝殿に登った僧侶は寺所有の掛軸を掲げる。
聞いていたとおりの位置である。
拝殿に登って撮らせていただいた掛軸は中央に(伊勢)天照皇太神宮、右は(石清水)八幡大菩薩で左に春日大明神を配した三社託宣神号図。
三神のお告げを記した掛軸である。
三社託宣の始まりは正応年間(1288~)とする説があるようだ。
鎌倉時代初期にはすでに成立していたとされる三社託宣。
室町時代中期以降に吉田神道を提唱した吉田兼倶が積極的に導入したと云われている。
公家から武家へ。そして、一般庶民に広がったという三社託宣の掛軸は、お日待ちと関係するアマテラスオオミカミのお軸を掲げることが多い。
これまで拝見した日待ち行事に三社託宣図を掲げる地域がある。
大和郡山市矢田町の日待ちは清水垣内と垣内が一年交代で地域が所有する掛軸を掲げる。
垣内の掛軸は「天照皇大神」の文字掛軸であるが、清水垣内が所有する掛軸は三社託宣だった。
赤童子祭りに三社託宣図を掲げていたのは奈良市東包永町であるが、田原本町伊与戸、大和郡山市丹後庄町・馬司町の日待ちでは「天照皇大神」の一神掛け図である。
大和郡山市小林町や横田町・柳生垣内日待ちのような雨宝童子神図の場合もある。
アマテラスオオミカミの掛け図を掲げて朝日が出るまでお籠りをしていたと考えられるお日待ちであったと思われた千代阿部田の風鎮祭。
行事名は風鎮祭であるが地元民は風日待ちと呼んでいるのも頷ける。
江戸時代には広く庶民信仰に普及したお日待ちの掛け図。
十念寺が所有する掛け図の軸箱に「表装並収納箱新調 昭和56年正月 阿部田総代 村井安弘氏」の文字があったことから新調品に違いない。
お若い十念寺の僧侶。
「先代、老僧からは新調される前のお軸有無は聞いていないが、もしかとしたら蔵にあるかもしれない」と云っていた。
お神酒、洗い米を供えてローソクに火を灯して始まった読経。
浄土宗派のお念仏であるが、二百十日の大風で実った稲穂が倒されないよう、五穀豊穣、村中安全を祈る風の祈祷願文である。
キーン、キーンと打つおリンの音が高く響く読経。
「なーむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ」のお念仏は拝殿内に広がった。
7分過ぎたころから焼香が始まった。
この日に初めて参列した子供会。
後席について大人と同じく一人ずつ焼香されて手を合わしていた。
拝殿は狭くて溢れた参列者も焼香をされる。
一心に願った風ノ祈祷念仏は16分間。
場は転じて阿部田池西北にある石塔の水神社に移動する。
ここでも僧侶の読経が行われる。
そして一人ずつ水神さんの前に立って焼香をされる。
長老、老婦人に親子連れの子供たち。
熱心に手を合わせて祈願した10分間。
最後に合掌する。
法要を終えれば子供会は解散するものの、村役員・長寿会の人たちは公民館で直会に移る。
かつて、風鎮祭を終えた村人らは市杵島姫神社境内で持ち寄った会食を楽しんだそうだ。大人から子供まで、大勢の人たちで埋まった様相は10年前まであったと云う。
途絶えていた風習を見直して子供会も参列するようにしたと話す。
開基は元亀元年(1570)と伝えられている十念寺。
元々は公民館が建つ位置に市杵島姫神社があったそうだ。
明治維新の神仏分離令によって明治34年に現在地に移ったようだ。
そういえば、水神社の石碑には明治廿年六月の記銘の刻印があった。
神社遷座よりも十数年古い年代である。
市杵島姫神社の祭神は水の守護神である弁財天。
水神社は阿部田池の守り神に建之したのかも知れない。
阿部田公民館前に建つ石造群がある。
中央は庚申さん。
右に金毘羅大権現があり、左は愛宕大権現である。
(H26. 8.28 EOS40D撮影)